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私は感情の動物だった

人間は感情の動物らしい。へえ、そんなものかなあ。確かに感情はいつも湧き上がってくるものだが、何か行動するときはちゃんと冷静になってそんな感情的にはなっていないよな、とついこの間まで思っていた。今も半分くらいはそう思っている。だが、デンマークで行動するということを思い起こして考えていたとき、自分は今この瞬間も立派に感情で行動していると気づかされてしまった。不覚だった。こんなにあからさまに気づかされるとは。

感情というのは喜怒哀楽だ。それはそれぞれ一枚ずつの顔のイラストで表現できるようなものだと思っていた。デンマークに行っていなければこれからもずっとそのように思い続けていただろう。なぜそれが違うと思うようになったのか。個人主義の考え方だ、おそらく。個人主義というのは他人を尊重しつつ自分の行動を決めて行くことがベースだ。だから自分をよく観察して自分の経験や能力をちゃんと評価して戦略を立てるという作業が必要だ。これが日本なら精神論で気合いでやり切れといったように自分に対する評価が非常に雑になりやすい。しかし個人主義はそうではなく、自分を評価しコントロールすることが求められる。だから自分を以前より観察するようになったことが自分が感情のままに生きていることを知ったきっかけになったわけだ。

つまり感情とは非常に幅が広い。朝時間通りに起きることができた。やった。というのは感情だ。外出するときに靴が少し汚れていて、しかし時間がないのでしょうがない、そのまま出かけた。悔しい。これも感情だ。今このNoteを書いている。まだ書き足りないから続けたいという高揚感とそろそろ眠くなってきたし面倒くさくなってきた。疲労感。これらも複合的に感情が組み合わさっている。そんな自分を分析している自分を見て、よく気がついたと優越感がよぎる。これらはイラスト一枚で表現できるような単純なものだけではないのだ。

自分の行動はこういった感情が原動力になって引き起こされている。嬉しければそれを増幅するように、悲しければそれを半減させるように。その行動は感情に応じた目的をもっているが、どんな行動になるかは人それぞれだ。個人主義はそこで、自分の人生を意味あるものにするような行動をとることを勧める。自分の人生を意味あるものにするとは、行動の結果を引き受けて感情がなんらかの形で満たされるその機会が繰り返し与えられ続けるということだ。平たく言えば人生に責任を負う機会を与えられているという言葉になる。もっと言えば自分の存在を実感するということだろうか。

そのためには自分の周りに理想的な環境を作る必要がある。信頼できる人をたくさん作りそのコミュニティの中で安心して生活することだ。そして全ての人がそうであるなら、全ての人は平等であり、尊重すべきであり、よくやっているということになる。

私はこのように考えられるようになって、自分が感情的であるとわかったことにある意味安心した。自分がいつも感情に突き動かされているという認識が自分をコントロールする良いきっかけになることにも気づいたからだ。勝っても負けても感情である。人生はゲームだという言葉が少し身近に思えたようだった。

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