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信じる者は救われる


自分はものすごく頑張っているのに誰も認めてくれない感覚というのがある。自分は何をやっているのだろうと感じる時がある。誰かに相談してみても、それは自己責任だと遠回しに突き放されているように思うことがある。そんな時に、共感しやすい言葉は
「頑張っている自分へご褒美をあげよう」。
だれも褒めてくれなければ自分で褒めるしかないのだ。だが、これは決して救われているのではない。一時的に自分を慰めているに過ぎない。信じるものは救われるとはよく聞く言葉だが、つまり救われる言葉とか、出来事というのは他人からしかやって来ないのだ。いや、自分を信じるということがあるではないかといえばまあ、そうだが、それは脇目も振らずにまい進しているのであって、救われるとかなんとか考えていないのではないだろうか。24時間まい進していられる体力もいつかは尽きる。そこで脇目を振ったが最後、自分の状況を悲観して救われたいと思ってしまう。そんな時に「Let it be」が心に刺さったりする。デンマークのフォルケホイスコーレで何度となく皆で歌った歌だ。
救われるというのは袋小路に追い込まれたような気持ちが出口を見つけたような、一つしか考えられなかったことに選択肢が増えたような、少し休んで明日戦略を練ろうと思えるような、そんなことではないだろうか。それを与えられるのは経験的に他人である。自分以外の人である。そしてこれは、誰にとっても平等である。だれも同じ不完全な人間と考えれば自分だけが救われるべきだというのは変だし成り立たない。救われる人は救う人でもある。救う人は救われる人でもある。それが平等。水平な目線だろう。
これを「信じる者は救われる」に当てはめてみると、救われるためには誰かを信じる。そして、救うためには誰かから信じられるということだ。自分が救われるためには誰かを信じるし、同時に誰かから信じられているということだ。この双方向がないとうまい具合には救われないのだろうと思う。
信じるというのは難しい、ハードルが高いと思う。しかし、これを習得すべきスキルとして捉えている例があった。やはりデンマークである。相手の全てを受け入れて信じるのではなくて、ある範囲を信じるのだ。わかりやすく言えば、ある行動である。言葉に沿った行動がある集団で期待できればそれはチームプレイになる。そしてそれが精神的に与える大きさは実は相当大きいということだ。興味深い。

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