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【散文詩】仮面

 春の晴れた日の昼、湖畔の貸別荘の庭にリクライニングチェアを持ち出して、読みかけの古典劇をタブレットで開いたら、極彩色の仮面をつけた黒い女がどこからか現れて、ぼくの目のまえで獲物を狙う豹のようにしゃがみこんだ。
 思わず立ち上がろうとするぼくの心の一瞬の隙(すき)をついて、女は跳躍してぼくの上にかぶさってくる。女は長身のぼくよりもさらに背が高く、ぼくの両肩を両手で、両脚を両膝で押さえて、30cmほど上からぼくの顔を見下ろす。
 ぼくの首筋に落ちかかる女の髪は濡れていて、体からは森の香りがあたりに広がる。ぼくが仮面に開いた穴から女の目を読もうするあいだに、もうひとつ開いた口の穴からぼくの喉になにかが落ち、反射的に飲み込んだぼくのなかの、地衣類のびっしり生えている場所に火がつき、炎がこの苔に似た生き物の藻類の層まで達したとき、ぼくはこれまで意識しなかった欠乏を強烈に感じて目が眩み、逆光のなかに浮かぶ仮面の渦巻き模様に吸い込まれるように気を失った。

 気がついたらぼくはうす暗い森のなかで女を追っていた。自生する高い木とシダの森に遍在する影に入ったり出たりして黒い女は飛ぶように走り、追いかけるぼくは何度も女の姿を見失うが、そのたびに何かが落ちる特徴的な音がして、そこに行くと仮面を二つ貼り合わせたようなものが地面で揺れている。すると女が走る後ろ姿が必ずまた見えて、それをぼくがまた追う。このことが幾度となくくりかえされた。
 気が遠くなるようなくりかえしに疲れ果てて、ぼくはタブノキの根元に落ちていた、貼り合わせられた仮面のようなものを手にとって、つくづくそれを眺めてみた。見た目に比べてかなり重いこれをどうやってあの女がこれほどの数持っていたのだろうか?それとも木の根元に予め置いてあったこれを蹴るか落とすかして音を出していたのだろうか?
 それはよく見ると二つの仮面を貼り合わせたのではなく、上は鼻筋の始まる部分から下は唇の下端まで、横は両頬のふくらみが耳の近くで終わる所まで、二つの面を彫り出す途中で敢えて削るのをやめたもので、おかしなことに顔を入れる両方の面の裏側だけが深緑に塗装されて完成されている結合双生児のような対になった仮面であり、横から見ると蝶のような形をしていた。
 試しに顔を一方に合わせてみるとぼくの顔にちょうど合い、塗料の甘い臭いと顔がぴったりと包まれた心地良さにぼくは、はるかな懐かしさを感じて、しばらくそれを顔に押しつけたままでいた。

 我に返ってもういちど女を追おうと面から顔をはずすと、不思議なことに穴の開いていない目の部分から光が差し込んでいる。そこでもう一度顔を面に入れると見えてきたのは、真っ白の矩形で奥行きが果てしない世界だった。そのなかですぐ近くに人が一人、背をこちらに向けて座り込んでいて、ときおり「ああっ」とか「うっ」とか声が聞こえる。面から顔を離して手に取って表裏を確認するが、やはり目の穴はない。だが顔を面に入れるとやはり同じ光景が見える。よく見ようと顔を面に強めに押し入れると皮膚と木の擦れ合う微かな音がして、向こうの人もそれに気づいたらしく振り向きざまに立ち上がり、こちらに近づいてくる。
 その顔は、ああぼくの顔だ。ふだん鏡に映る顔と印象が違うのは左右が入れ替わっているからだろう。その男の顔が大写しになったかと思うと、男が顔を面に入れたのだろう、急に仮面が軽くなった。眼と眼が向き合うことになり、ぼくの瞳がぼくの顔を持つ男の瞳に映り、そのぼくの瞳にぼくの顔を映すぼくの顔を持った男の瞳が映り、そのぼくの瞳にぼくの顔を映すぼくの顔を持った男のぼくの瞳を映すぼくの顔を持つ男の瞳が映り・・・。という瞳のなかの無限の入れ子に耐えられずに、宙に浮いている面から急いで顔と体を離すと、男も仮面から顔を離したのだろう、仮面に重さがもどり地面に落ちて音を立てた。そうだこの音だと、駆けている女が影でたてていた音を思いだした。
 おそるおそるもう一度仮面を持ち上げて顔にあててみると、男がさかんに首をかしげながらもとの場所に戻っていくところだった。向こうからはこちらが見えないのだと気がつくと、にわかに目に映る光景が興味あるものに思えてくる。
 よく見ると男の右足には足枷が見えてそこから鎖が杭につながっている。粗い繊維で織られた衣を着て緋色の帯をしめているその男が、座りこみうなだれて、時おり「ああっ」「うっ」と声をあげて、そのたびに拳をつくった手をふりおろす。なにかを悔いているのかそれともなにかを呪っているのか、ただ無為を紛らわせているだけなのかもしれない。そしてまた時に男は足枷と鎖を外そうとしたり杭を引き抜こうとしたりするが、自分ひとりの力ではどうすることもできないことがすでに判っているとみえて、すぐにやめてしまう。それ以外なにも動かず、なんの音もしない

 どれくらい時間が経ったのだろうか。ぼくはまだタブノキの根元で向こうの世界を覗いていた。すると前触れなく白い矩形のなかに点があらわれ、それが徐々に大きくなってくる。じっと見つめているうちに判った。それはぼくが追いかけていた極彩色の仮面をかぶった黒い女だ。
 ぼくが女を認めたとき、白い矩形だった世界の左右が開け、女がやって来た奥行きと男が座りこんでいる場所が白い直線の道であり、その周囲が一段下がった巨大な土壇であることがぼんやりと見えてきた。土壇の縁のあたりには大勢の仮面をつけた人々が二人のいる場所を向いて座っている。つづいてそれまで白かった天上が開け、朝陽が射しこんできた。確かにそこは土を盛り固めた人工的な丘で、その上に巨大な壇が築かれ、その上にさらに高く白い道が敷かれて、二人はその端(はし)にいる。向こう側の世界で仮面の裏はそのとき虚空に浮いていたのだろう。ぼくの眼は人々に囲まれた二人とかれらを乗せた丘を見下ろす位置にあった。
 何人かの人が白い道に登り男の周囲に集まって一斉にまた散る。女が立ち上がらせた男の頭には羽飾りのついた冠が光り、天に向けて突き出させられた両手から背中に、紅色の模様のついた翼が広がり垂れ下がる。鎖につながれた男はなにも抗うことなくされるがままになっている。そしてぼくの顔をした男と仮面の女の静かな交わりが始まった。周りの人々は無言でそれを眺めている

 男の上にこちらに背を向けて馬乗りになって体を揺すっていた女が動きをとめると、長い交合が終わり、太陽はもう天の頂きにある。無言でいた人々が和してなにかを詠唱(チャント)し始めた。
 ぼくの顔をした男は白い道の端で天を仰いだまま動かない。女は立ち上がって仮面をとり、振り向いてこちらを見上げた。顔のあるはずの部分には深い霧がかかっている。いつのまにか女は翼を得て宙を舞って、ぼくの視点に近づいてきて、向こうの世界の仮面に顔を入れると、はじめに顔をただよっていた霧が目の穴を透ってぼくの眼を眩(くら)ませて、つぎに真昼の光と白線の道とチャントと土壇の土がこちら側に津波のように押し寄せてきた。ぼくは仮面を放り出してタブノキの枝をつかんで何とかそれに呑まれまいとしたが、とても耐えきれずに枝が折れて、ぼくは大荒れに荒れる世界の混交の波に玩(もてあそ)ばれた。

 枝に必死につかまりながらぼくは自分の身が変化していくのを感じていた。最初に腰のあたりに生まれた違和がすこしずつ全体に広がっていった。太陽が沈むころ、押し寄せた向こうの世界が潮のようにすっかり引いてもとの森が戻ってきたとき、ぼくは顔に霧を漂わせた黒い女だった。

 タブノキの根元に置かれた、いつのまにか出来上がっている極彩色の仮面を手にとり顔につけて、ぼくは湖畔の貸別荘を目指して走り始める。着くのは昼頃になるだろう。ぼくの脚を動かしているのはもう欠乏の感覚ではなく、創造の期待だった。

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