【連載小説】青い志願兵 #9
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第二章
申サンデㇽ
『今日はここらへんで切り上げるかねぇ。』
犬子がそう言ったのはちょうど空が朱に染まり始めた頃だった。まだまだ働けたが、確かに十分稼いだといえば稼いだのかもしれない。
『欲張りすぎは商売をダメにするからねぇ。いい商売人になるには欲望は必要さぁ。だがねぇ、欲望に振り回されるようになったらそれはもう破滅に向かう商売人なんだ。歯止めが利かなくなるのさ、欲望を抑えられなくなって、欲望からの“もっと欲せ”という命令が聞こえてきて抗えなくなっちまう。そうなるともう終いさぁ。だからさ申さん、これは覚えておいて損はない忠告だがね、欲張ってはならないんだよ。分かったかい?』
“悦楽せよ”という享楽からの命令こそは人間にとっての地獄なのだと、無意識からの残酷で破廉恥な指令に抗うべきなのだと、犬子はそういうことが言いたいのだろう。過剰な快楽。過度な愉悦。戦後の貧しい日本に暮らす食うや食わずの朝鮮人たちにすら無意識は快楽の享受を強制するのだ。
『軍からの支給品がこうも売れるとはな。』
俺たちの商売は闇で仕入れた品々を闇で流すことだったが、これがなかなか売れるのだった。特に軍帰りの元軍人から仕入れた靴や毛布は飛ぶように売れた。軍人たち。死を経験した者たち。死に触れた男たち。俺には決して訪れなかった機会。彼らは俺より一層生きているように思えた。俺は死人として生きている。彼らを見ているとそんな意味もない思考が頭を駆け巡る。そもそもこの世界に“意味”なんてモノがあるかすら疑わしいというのに。心底くだらない。
『そこの腐れチョッパリ(日本人野郎)!俺たちのシマで何やってんダ!殺しちまうゾ!』
帰り支度を終え闇市から立ち去ろうとした俺たちの目の前で朝鮮人どもが騒ぎだした。日本人の商人を取り囲んでいる。
『生意気な目だナ!“センショー国民”である俺たちに反抗する気カ?』
犬子が大きく溜息をついた。犬子が言っていた無法者の朝鮮人たちというのは奴らのことなのだろう。“戦勝国民”を名乗り無法の限りを尽くす朝鮮人。俺は道徳や倫理なんてモンに関心はない、それでもあんな奴らが同じ朝鮮人だと思いたくないっていう犬子の気持ちはよくよく理解できた。騒動を遠巻きに眺めている集団が目に入った。恐らくは中国人ども。日本人と朝鮮人の諍いを楽しむようにニヤニヤと嫌らしく笑いながら鑑賞している。
『申さん、巻き込まれないうち帰ろう。そろそろヤクザが来るだろうからねぇ。それに、中国の人たちをそんな風に睨むもんじゃないよぉ。』
『別に睨んでないさ。』
『こっちでは日本人も朝鮮人も中国人を嫌ってるがねぇ。彼らだっていい人たちなんだよぉ。』
『劉さんかい?』
『そうともさ。劉さんみたいに善良な人が大勢いるのさぁ。』
『闇市ではねぇ、朝鮮人と日本人と中国人がああして対立しているのさぁ。これからあんな光景はよく見かけると思うから一つだけ忠告しておくがねぇ、決して騒動にかかわってはいけないよ。商売の鉄則は平和主義と信用関係だからねぇ。ああやって争ってはいけないよぉ。』
市場から帰ってきた俺たちは屋台で一杯やっていた。犬子から教えてもらった闇市の対立構造はざっとこんなもんだった、つまり、戦勝国民を自認し敗戦国日本の法律に従う必要がないと考えている朝鮮人どもが横暴の限りを尽くし、同じような立場の中国人どもも暴れている。日本人どもはというと、日本を占領している米国人どもが旧植民地者に対する日本政府の検察・裁判権を否認していたため日本の警察は及び腰で役立たずなので止む無くヤクザと結託していた。対立構造を輪をかけて複雑にしていたのは朝連や共産党などといった組織が影響力を獲得するために首を突っ込んできていたからだった。まったくもってめんどくさい世の中。まったくもってくだらない世の中。俺は犬子とどぶろくで乾杯して酔っぱらうことにした。酒は毒だったし俺はできるだけ毒を体内に蓄積したかった。
『ところで申さんよ、アナタはなぜ日本に来たんだい?』
『弟を殺しに来たのさ。』
俺が答えると犬子は無言で頷いた。様々な朝鮮人たちがそれぞれの必然的な理由をもって異国の地日本に渡ってきている。犬子にも理由があるのだろう、日本に渡ってきた理由、自らケセッキを名乗る理由。世界は理由であふれている、そう、窒息しそうなくらいだ。
俺は無意識に太ももの傷をさすった、真新しくもなければ古傷というほど古くもない包丁の刺し傷を。村事務所の役人が警察を伴って俺たちの家を訪ねてきて俺が志願しなければ配給を止めると脅してきたのは強制徴兵が始まる数か月前だった。定められた人数の若者を送り込まなければならなかった村事務所はありとあらゆる手段を行使していた。嘆き悲しむオモニに対して働いて金を儲けて仕送りする、そうすれば生活が少しは楽になるからと言い聞かせ納得させるのに苦労したもんだった。まぁ、オモニが納得しようとしまいと俺たちにはたった一つの選択肢しか残っていなかったのだが。
出発の日、オモニが自らの手で仕立てた青い上着を手渡してくれた。裏時には俺の名前が刺繍されていて、ありがたいよりも悲しい気持ちがいっぱいになりながらその青い上着を羽織った瞬間をいまだに鮮明に覚えている。オモニは長男が戦争に奪われると嘆いていた、泣いていた、いかにも朝鮮的なやり方で。あの泣き声、嘆き声。俺の頭から決して離れることはないだろう。弟が暗い目でそんな俺とオモニを見ていた。その眼差しは、見られることがいかに外傷的かをまざまざと実感させる、そんな類の眼差しだった。
『遅かったじゃねぇか。今日は帰ってこねぇんじゃないかと考え始めたところだったぜ。』
酔い潰れた犬子を担いで長屋に戻ると、見知らぬ男が俺の部屋にいた。
『お前、誰だい?俺の部屋で何してる?』
『名乗るほどのモンじゃねえさ。テメエの部屋で何してるかって?テメエを待ってたに決まってるだろうが。まったくよ、待ちくたびれたぜ。こんなに待たされると分かってたら酒でも持ってきたんだがな。』
そう言って笑った男は教養はなさそうだったが、野心と生命力の塊のような迫力を身にまとっていて、厄介ごとを持ち込んできたんだなと直感した俺は大きな溜息をついた。
『テメエに一つ頼みごとがあるんだ。ワシには信用できる仲間がいるにはいるんだがな、この件はテメエが適任なもんでな。人助けだと思ってちょいと手を貸してくれねぇか?』
何の断りもなく部屋に上がり込んできて頼み事だと。ちょいと手を貸してくれだと。この男は何を血迷ってるんだ、助けてやる義理なんて全くないし、俺は面倒ごとに巻き込まれるなんて御免なんだ。
『もちろんタダとは言わないぜ。ほら、これを前金としてやる。ワシは気前がいいんだ。どうだ?頼みごとを聞いてもいいって気持ちになっただろ?』
男が投げてよこした包みの中をのぞくと数枚の紙幣が入っていた。確かに無一文の俺にとってはありがたい金だった。
『頼みごとの内容しだいだな。聞いてるぜ、話してみなよ。』
『やっとワシの言葉に耳を貸す気になりやがったか!やっぱ人を動かすのは金だよな。それが人間の性ってやつさ、特にワシら朝鮮人のな!』
ガハハと品なく笑う男が疎ましくはあったが俺はとりあえずは我慢することにした、というのも少し悔しい気持ちはあるが奴の言うことは正しかったからだ、そうさ、金なんだ。結局はな。あとは目的だ。やるべきこと。成し遂げるべきこと。
『テメエには男を見つけ出してもらいてぇんだ。厳密にはあぶり出してもらいてぇってところかな。』
『男をあぶり出す?』
『ああ、そうさ。実はな、この朝鮮人集落には特高の鮮人係りの間諜が潜んでやがるんだ。目的は言うまでもないが集落で暮らす朝鮮人たちの監視と密偵さ。ワシらは特高の犬が潜伏していることは前々から嗅ぎつけてたんだが狡猾な野郎で中々尻尾を出しやがらねぇ。大した害もなかったからこれまではそれでもいいかと考えていたんだがな、どうやら終戦後にますます危険な人間になっちまったようでな。ワシとしても放置するわけにはいかなくなったのさ。だからな、テメエに見つけ出してもらいてぇんだ、この特高の糞犬野郎をよ。』
そこまで話してニヤッと笑った男を俺は睨みつけた。俺のことを揶揄ってやがると思ったからだ。
『俺が知らないとでも思ってるのか?特高はGHQが解散させただろうよ。作り話ならもっとマシなもんをこさえてくるんだな。』
『そうさ!特高はもう存在しないのさ。そこが問題なのよ!この男はな、狂ってるんだよ。特高はまだ存在していると思い込んでるし、もしかしたらまだ戦争も終わってないと信じてるのかもしれねぇ。さっき言ったろ、終戦後に危険人物になっちまったって。完全にイカれちまったからなのさ。特高鮮人係りになるほど朝鮮人を憎んでいる狂人がワシらのご近所さんなんだぜ?同胞たちの安全を守るために対処せんとならんだろ?ワシにはその責任があるのさ。』
狂ってるのは特高の間諜だろうか、それとも目の前で獣のような眼をギラギラと光らせているこの男だろうか。俺がいくら睨みつけても男は動じる様子はなかった
『なんで俺なんだい?新顔だぜ、信用できんだろう。』
俺の質問を聞いた男がまたニヤッと笑った、その癪に障る顔を見てわざわざ俺を待ち構えていた理由に気付き、ついつい乾いた笑いを発した。つまりは、集落の朝鮮人は誰も信用できないってことなのだろう。終戦後に日本に渡ってきてついこの間集落に来たばかりの俺だけが確実に間諜でない唯一の朝鮮人なのだ。
『もう前金はやったからな。間諜を見つけ出せばこの倍はくれてやる。この野郎の正体次第では上乗せしてやるかもしれねぇぜ。』
そう言った男は突然勢いよく立ち上がり出口に向かって大股で歩いて行った。
『いいか?誰も信じるなよ。この集落の住人全員が容疑者だからなぁ。まぁ、期待してるぜ!』
男が出ていくのを茫然と見守ってた俺は、間諜を見つけ出しても名前すら知らないあの男にどうやって連絡すればいいのか分からないことにはたと気付いて、慌てて男を追いかけて外に出た。だが男の姿は既に消えていた。
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