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有備無患 穏やかな終息に向かって ~折山のEternal Photo
未知に向かう
人生の半ばを過ぎてくると、
どこかでふと、終わりを考える瞬間が訪れる。
でも、その、ふと…という時まで、多くの人は「終わり」を見ない。
誰も体験したことの無いそこは、想像がつかないし得体が知れない。
だから怖い。怖いから見ない。
そこを直視したり備えたりしない。
「縁起でもない」という言葉で非日常として遠ざけて、
考えなくてよいことにしてしまう。
世の中では、死ぬことを考えず、
生きることに執着することが称えられる。
でも、そうだろうか?
人生のゴール、いつか辿り着ける場所が怖いなんて、
切な過ぎやしないか?
いつか辿り着くその場所を正面から見据え、理解し、
そこに向かって心穏やかに歩むことが出来るなら、
生きることはどんなに清々しくなるだろう。
備えあれば憂いなし(有備無患)だ。
遺影を撮る。
僕にとって、遺影を撮影することは、
「死」を闇雲に恐れず、「死」を憂うることなく、
人生の旅の最後にそこに辿り着くまで、
楽しく生きていくための備えだと思っている。
だから、遺影撮影も、
抱えている重すぎる旅の荷物を見直すことから始める。
負の感情やこの先の不安、引きずっている過去。
それを一旦意識から外して、今の自分の気持ちを直視してみる。
自分だけでは難しい時は、助けてもらえばいい。
誰かに弱い自分をさらけ出すことが出来たら、
そこから解き放たれる手掛かりが見つかる。
やがて自意識や執着を捨てられると、
羽が生えたように心が軽くなる。
心の重荷を捨て、余計なものを削ぎ落した時、
覚悟にも似た清々しさを得た時に、素敵な表情が撮影できる。
だから、祈りながら、語りながら、聴きながら、撮影をするのだ。
この先の旅が、写真の中の表情そのままに、
心穏やかで幸せな日々でありますようにと。