「走井餅に残る講札」
講札というのは、伊勢参り(おかげ参り)の高額な費用を賄う、地域の積立システムとしてあった「講」の協定旅館の目印として道中の旅籠に掲げた看板です。
走井餅は、江戸期に千歳屋として営業していた旅籠の場所に移転してきましたので、千歳屋時代の講札が残されております。
どうして、石清水八幡宮の門前に伊勢参りの宿があるのか、について考察します。
多くあるのは「神風講社」の講札で、これは伊勢神宮の講社組織なので、この講札は伊勢参りの講札であるのは間違いないと思います。
同じような神風講社の講札は、初瀬街道の阿保宿や、大和街道の関宿にも残されています。
伊勢参りの道程を示すものとしては、上方落語の「東の旅(伊勢参宮神乃賑)」という落語があります。
その道程は、玉造、暗峠、奈良、名張、伊勢というのが往路、
復路は、津、鈴鹿峠、多賀大社、大津(走井餅)、伏見から三十石船という経路になっています。
大まかには、暗越奈良街道から伊勢本街道で、伊勢入りして、帰りは鈴鹿を超えて東海道に合流して滋賀に抜ける感じです。
大坂方面からはこの道程ですが、どのような場合に、八幡の宿に泊まったのでしょうか。
八幡は、高野山への参道である高野街道の一つである東高野街道の起点になっています。
経路は、日和見の洞ヶ峠から出屋敷交差点、交野、寝屋川、四條畷、国道170号で河内長野へ続きます。
京都でも市内であればそのまま東海道から鈴鹿経由で伊勢入りしたと思われますが、京都府でも南部の方や、大坂の淀川左岸域は、石清水八幡宮への参拝を兼ねて千歳屋に宿泊したのではないでしょうか。
その後は、東高野街道を四條畷まで進み、清滝峠を通って、奈良を経由せずに国道163号で伊賀街道から伊勢入りしたと考えます。
そんな中でも、遊び好きの人たちは、伊賀で伊賀街道から離れ、名阪国道に沿って北上し、関宿や津の遊郭に寄ってから参拝したようです。
帰路は物見遊山を兼ねて別経路を通るのが普通で、鈴鹿から多賀大社、大津の走井餅(江戸期にあった本家)に立ち寄る様子が東の旅の「走り餅」という演目に残されています。
そして、伏見の寺田屋前の船着き場から三十石船に乗って大坂までという経路です。
走井餅が大津から八幡に移ったのは、国鉄の東海道線が開通したことで東海道を徒歩で旅する旅人がいなくなったことですが、千歳屋が廃業したのも、京阪電車が開通して八幡に日帰りで行けるようになったためです。
走井餅は、伊勢参りの帰路に立ち寄る場所だった大津から、北部大坂からの伊勢参りの起点に移ったという点で伊勢参りと大きな関わりを感じます。
参考資料
関西の旧街道
https://gcy.jp/kkd/area07.html
阿保宿の講札
https://igakanko.net/?p=500
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