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「人生1回だしさ」
過去のわたしは、人間関係の終焉から逆算をすることが悪癖だった。
自分の意図しない、突然降りかかる理不尽な終焉に耐えられなかった。
半身をなくしたような感覚になり身体が動かなくなる。身体から心を離し、しばらく世界との付き合い方を忘れる。
そんな衝撃から少しでも逃れたくて、逆算をした。
終焉を仮設定し、それが訪れるまでの時間、悔いが残らないように、そしていつ終わってもわたしの心身が耐えられるように、身構えた。次第に終焉に辿り着くまでの経過を恨むようになり、時間が進んでいくことを恐れた。
十数年とこれを繰り返し、突き詰めた結果、凡そ人間の力では避けようのない「死別」というものに行き着くと思い至った。
終焉からの衝撃から逃れるには神になるよりほかないのだと、いくらか諦めがつくようになった。
一
「自分、一年後にはここにいないかもしれないんで。」初めてお会いしたときから言われていた言葉。
あ、ずっとここにいる人ではないんだ、ということは最初わかっていたことだった。
それなのに、いざ失ってみるとこんなにも寂しい。
仕事だけの関係でほどよい距離感だったせいか、いつまでも隣の席にいるような気がしていた。そしてあの人との終焉は、自分にとってそう影響のないだろうと軽視していた。
「人生1回だしさ、俺楽しいこと全力でしてたいんだよね。」と笑いながら言う。
地に足がついていないかと思いきや、しっかり目の前のことを見据えてやり切ってしまう人だった。どうにかなる、と言い本当にどうにかしてしまう、未来へ躍進する軽やかさがある人だった。
もうあの人のエナジードリンクがデスクの上に置かれることはなくなった。
朝、手すりにもたれかかってたばこを吸っている姿を見れないのが寂しい。隣の席からハリのある笑い声が聞こえてこないのが寂しい。
わたしのその他の日常は変わらないのに、あの人がいないという空白だけが浮かび上がる。
寂しい。
おそらくもう一緒に仕事することはないのだろう。もう少し(ってどれくらい?)一緒に仕事していたかった。
けれど寂しいと思う一方、わたしは終焉を迎えてからというもの、あの人の仕事への向き合い方を、ひと欠片おすそ分けしてもらったような感覚がある。自分の仕事ぶりを省みて、あの人の姿を一瞬感じるのだ。
あの人がいない空白が寂しい、でも寂しいだけじゃない。
一緒に働かせていただいた証明として、あの人の一部がわたしの中に残っている。そのことがほんの少しうれしい。
そうやってこれからもわたしは終焉を繰り返していくのだろう。繰り返していく度に、人から欠片をもらってわたしの中に根付いていく。
わたしも誰かに、おすそ分けできているだろうか。
わたしの知らないところで、あの人がどうかこれからも健やかでありますように。