わたしは死んだらダイヤモンドになるらしい
「もしあの時に戻れるなら、自分は結婚しないことを選ぶと思う。」
「人は変わるから。良くも悪くも。」
「相手を選んだ若い時の自分の価値観が、歳を重ねても同じとは限らないわ。」
「人として、とても魅力的だと思う。良い母になると思う。けれど女として見れない。」
すべて結婚歴がある諸先輩方からの言葉だ。
結婚について経験者から話をきくと、ああこの人とでなければ、という後悔や、これからの人生への諦めの言葉が出てくることがよくある。
3組に1組が離婚すると言われる時代。
家から結婚を強要されることもなく、単身でも充実した人生を送れる時代。
それでも、わたしは結婚することを選んだ。
特別深い理由はない。
単に、「彼と人生を共にしたい」と思ったから。
感情は移り変わる。
それなのに今この時だけかもしれない感情を理由に、人生で連れ添うたった1人を決めるなんて、狂気の沙汰だと思う。
でも良い。
わたしが彼を選び、わたしは彼に選ばれ、それを他の誰でもない、自分の意思で決めた。
そして、唯一の席、配偶者という席を相手からいただけることが、こんなにも素晴らしく尊いことなのだということを、
わたしは結婚に至るまでの過程で思い知った。
『プロポーズ シチュエーション』でネット検索をしてみる。
夜景の見える場所、イルミネーション、高級レストラン、シンデレラ城etc……
我々の場合はそのいずれでもなかった。
それはわたしの誕生日、山の上で朝日が昇る中、行われた。
4時半起きでお互いスウェットの寝癖付き、わたしに至ってはノーメイク。一般的には、全くプロポーズするシチュエーションではないのだろう。
けれど彼は、どんなきらびやかな夜景よりもイルミネーションよりも、自然の中で朝日に照らされながらのシチュエーションのほうが、わたしが喜ぶであろうことを解っていた。
彼は自分が格好つけることよりも、わたしが心から喜ぶことを選択してくれたように思う。
そのことが、わたしの心を真剣に大切にしようとしてくれているように思えて、何よりも嬉しかった。
プロポーズの返答に迷いはなかった。
(彼の名誉のためにいうと、上記の他のシチュエーションとも迷ってくれていたようだし、朝日を見に行く前夜には、服装のことも気にしていた。格好つけたらサプライズにはならないので、結局スウェットだったが。)
毎日、おはようとおやすみが言えること。
抱きしめることができること。
ご飯を一緒に食べて、顔を見ながら美味しいと言いあえること。
今日あった出来事を報告して感情を共有できること。
生活を支え合えること。
辛い夜に一緒にいられること。
お仕事頑張ったことを労いあえること。
傷つけてごめんねと伝えられること。
これらを生活の一番近くで味わえる特等席。
永遠には続かない時間。
近くにありすぎて、ずっと続くような錯覚に陥る時間。
本当に大切な人と過ごし、心ふるわせる時間は、自分たちが思っているよりも、多分短い。
わたしは彼と過ごす時間がやっぱり愛おしい。
わたしは彼と一緒にいる時の自分が一番好き。
彼と一緒に写る写真のわたしは、自分でも驚くほど笑顔なのだ。
「婚姻関係にあるから、一緒にいる」ではなく
「隣を歩きたいから、結婚している」がいい。
「隣を歩きたい」と思える、一瞬一瞬を積み重ねて、気がついたら墓前で泣いていたい。
こんなにも、誰かの生が続くことを切に祈ることになるとは思ってもみなかった。
誰よりも、長く生きて隣を歩いてほしいと思う。
こんなことを言いながら、1年後は離婚しているかもしれない。1年後のわたしがこのnoteを読んだら「何を綺麗事を」と思うかもしれない。
それでもいい。
綺麗事は言えるうちに、言っておきたい。
今の感情がこれから移り変わったっていい。
ただ、「今のわたし」がこれだけ愛しく思っているのだということは、わたし自身の心に刻んでおきたい。
ロマンスでは終われないこの生々しい生活を、彼と一緒に歩ける世界を、愛して生きていきたい。
最近彼と、配偶者と死別することについて話した。
わたしは早くに死んだら、遺骨はダイヤモンドにして彼の身に纏う一部になるそうだ。
もはや今から己の骨が愛おしい。
―
追伸
ここまで我々の相談に乗ってきてくださった方、ご縁を紡いでくださった方。
みなさまのおかげで今の我々があります。
ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。