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体売りの少女

 しくじった!

 大みそかの深夜近くのことである。優希は自分の持ち場であるビルの隙間から、東西に走る広い国道を眺める。片側三車線ある大きな道路。普段なら一番左側の車線にはずらりと客待ちのタクシーが並んでいるのに、それさえも今夜はまばらである。普段はけばけばしく辺りを照らす深夜営業の店の明かりも乏しい。

 最近仕事が上手く行ってて仲間と連絡を取るヒマがなかったからなー。アタシ新人なんだから、大みそかにはお客さんないよって、誰か教えてくれても良かったのに。今朝も元締めとは業務連絡のLINEをしたんだから、そのときにでも教えて欲しかったナ。きっとみんなアタシが新人だってこと、忘れてるんダロな。あんまりにもこの仕事に馴染んじゃってるから。まだ始めてから半年も経たないのに。

 アタシの客って、仕事帰りのサラリーマンが殆どだったし、きのうまでのお客さんは、だいぶ前に約束してたおじさんたちばっかだったしなー。

 ふと。見間違いかと目を疑うほど、小さな雪が降り始める。空を見上げると、ビルの上には真っ黒な空が、打ちっぱなしのコンクリートの壁によって幾何学的に切り取られていて、そこから白い粒が落ちて来る。腕時計に目を遣る。客がプレゼントしてくれた、本物のシルバーでできたものである。時計の針はもうすぐ零時を指そうとしている。

 終電で帰ろう。稼げなかった晩にタクシー代払うのは悔しい……あーあ。

 

 電車のロングシートに腰を下ろす。大きな落胆のため息と同時に、小さな体でドスンと。

 電車の中もがらがらである。窓を振り返る。埃のような雪が一瞬窓に留(とど)まってはすぐに融け、小さな水たまりをいくつも窓に残す。

 優希はまだ今夜の稼ぎを諦めていない。一人で乗って来る男性が来ないか、車内を探す。

 しかし、客になりそうなおじさんどころか、普段なら化粧をした小学生である優希に説教をしてくるような、口やかましそうなおばさんさえも乗っていない。大学生くらいのカップルが一組、互いに熱く見つめ合いながら軽いキスを繰り返しているだけである。二人とも酒に酔っているのだろう、女の顔は一面にほんのりと赤らんでいる。

 優希はまたため息をつく。今度は僻みのそれである。正面の窓ガラスに映る自分を見る。

 濃いめの口紅を塗った自慢の分厚い唇は、知らず知らずのうちに不機嫌そうに尖っている。思わずその形をやめる。茶色に染めた髪。ゆるいパーマがかかったようなくせ毛。やわらかな生地でできた鮮やかな赤のコートも、そこからわずかに覗いている白いカットソーも、客からのプレゼントである。

 コートはクリスマスプレゼントだった。優希はそのときまで、まだサンタクロースの存在を信じていた。驚いている優希を、その客は決してからかったり嗤ったりはしなかった。男は自称三十歳。長身で異様に痩せている。元々親切だった。しかしその夜は一層やさしく優希を抱いた。行為が済んだあと優希は、「おじさんてサンタさんみたいだね。サンタさんにしては若すぎるけどね」と言った。思いがけず涙が出た。その客は定価の倍の料金を優希に支払ってくれた。

 ふと優希は考える。

 八月に母が死んだ。そのあと母が勤めてたスナックのママに、そこで働かせて欲しいと頼みに行った。ママは、「小学生を雇うとこっちも困ることになるから」と言って、元締めを紹介してくれた。ママは「アンタ、オトコの経験あるの?」と訊いた。優希は「あります」と言った。思い出したくはないが事実であった。

 ママから紹介された元締めは、黒いスーツを着たやさしそうな青年だった。色白で背が高く、手脚がとても長い。まだ三十歳になってないだろう。優希は太って黒いサングラスをかけたいかにも怖そうなおじさんを想像してたから拍子抜けした。

 元締めは最初にスマートフォンを買ってくれた。LINEの設定をしてくれて、仲間とのグループLINEのメンバーにしてくれた。

 この元締めはこの地域で売春を取り仕切る組織のうちでも、高校生以下を担当しているのだと言った。ほかには二十代だけとか、逆におばさんだけとかを担当している人がいるそうだ。同じ縄張りに同じ年齢層が重ならないように手配してるらしい。

 初めて優希が街に立つ夜、元締めは優希を仲間たちと引き合わせてくれた。優希を含めて六人。中には優希よりも幼い八歳、九歳の女の子もいた。

 でもアタシが初めてオヤジに犯されたのも小二のときだったもんなー。

 優希は思い出したくないことを思い出した。

 

 電車は最寄り駅に着く。駅から出るとまだ雪が降っている。傘を持っていない。高いコートに染みができたらいやだなあと思うが、タクシーを使うのはやはり業腹で、優希は父の待つアパートまで二十分、踵の高い赤のロングブーツで歩くことにする。歩きながらも考える。

 優希は父のことが大嫌いである。父は働かず、ギャンブルばかりして、部屋で酒ばかり呑んでいる。優希は今の仕事をするようになってから、そういう父親は自分の親だけではないことを知った。仲間の父親は殆どそのパターンである。こういう人でなしな父親は、案外どこにでもいるのだなと励みになった。

 しかし、父が稼がないために、母は昼間は看護師として病院で働き、夜はスナックで深夜まで働いた。そのためにこの夏、脳出血を起こして突然世を去ったのである。優希は両親の親戚を知らない。連絡先もわからない。葬儀の手続きも同じアパートに住むおとなに尋ねながら、殆ど全て一人でおこなった。そのあいだでさえ父は酒を飲んでいた。

 夏休みだった。母が死んでから、父はギャンブルをするために外へ出なくなった。優希に酒を買って来いと命令する頻度が増えた。さらには酒臭い息を吐きかけながら、優希の体を求めて来ることも多くなった。そうそう毎日、しかも長時間、一緒に遊ばせてくれる友だちはそれほどたくさんはいないし、優希には遠慮もあった。

 だから自分が働かないといけないと思った。家に居る時間を減らしたかったし、自分が稼がないと自分も生きていけなくなると痛感したからである。

 ママの紹介で、八月の下旬から売春を始めた。面白いように金が入って来る。プレゼントがもらえる。こんなことならもっと早くにこの仕事を始めておけば良かった。そうしたら家計を助けることができて母を早くに亡くすこともなかったのではないか。優希はそう思うことがある。

 しかし優希は知っていた。母は優希には隠していたつもりだったようだが、聞いていたのである。小学二年生で優希が初めて父に犯されたとき、父は、母に言ったらお前を殺すと優希を脅した。だけど優希には気持ちの遣り場がなく、母と二人で近所のスーパーへ行った帰り道、母に父からされたことを打ち明けた。赤ん坊のように大声を上げて泣いた。そのとき二人は手をつないでいた。泣き喚きながらも優希は、母の手が次第に汗ばんで来るのを感じた。

 四畳半の部屋で優希と母は一つの布団で眠る。その夜母は、こっそりと布団から抜け出した。優希はその気配で目を覚ました。母が台所に立つのが、部屋の外の廊下を照らす、ぼんやりとした明かりによって確認できた。母は手に包丁を持ち、父が眠る奥の六畳間へ行った。父の声が聞こえる。

「お前には到底俺を殺せない。中途半端なけがを負わせることしかできないだろう。それでもお前は傷害罪で刑務所送りだ。お前が留守のあいだ、俺は優希に売春をさせて養ってもらうぞ。アイツは年よりおとなびて見えるし、化粧映えしそうないいツラをしてる。せいぜい稼いでくれるだろうなあ」

 母を逆に脅している。

「この人でなし!」

 母は何か固いものを殴ったような音とともに父を罵った。そのあとすすり泣きが聞こえた。優希は隣の部屋へ漏れないように布団をかぶり、隠れてむせび泣いた。

 母は優希の体を守るために、懸命に働いてくれていたのだ。

 今のアタシがしてること。お母さんはどこかから見てるのかなぁ? 悲しんでるよねえ。でもこうでもしないとアタシ、死んじゃうんだ。ちゃんと学校へは行ってる。授業中は寝ちゃうことが多いけど、テストの点数はいいよ。高校へは行けないかもしれないから、お母さんが言ってたみたいに看護師さんにはなれそうもないんだ。ごめんね、お母さん。

 優希は涙ぐむ。そして、

「オヤジが死ねばいいのに」

 と、決して大きな声ではないが、低くきつい口調で呟いた。

 

 アパートに着く。一階に五つ、二階に五つの部屋がある、築二十年の木造のものである。優希の部屋は一階の一番手前である。

 玄関の鍵をあける。一メートル四方ほどの下足場。右手に母が使っていた靴箱がある。狭い上がり框に父の焦げ茶色のサンダルが、両方とも裏返っている。それを見てまた優希は大きなため息をつく。長いブーツを脱ぐ。ブーツを左手の壁に沿わせて立てる。父のサンダルを跨ぐ。

 ガラスの障子の奥には四畳半の部屋がある。以前は母と二人で使っていたが、今では優希が一人占めしている。その奥にもガラス障子がある。向こうには六畳の部屋が広がっている。テレビや固定電話はそちらにあるが、全て父が独占している。

「帰ったか」

 閉め切ったガラス障子の向こうから、父のしゃがれた声がする。ろれつが回っていない。優希はもの心ついた頃から、父が素面でいたところを一度も見た記憶がない。

「今夜は早いじゃねーか」

「こんな晩、客なんてねーんだよ」

「オレが買ってやろーか?」

「払えるの?」

 優希が鼻であしらうと、ガラス障子がひらく。奥の部屋から父が這い出て来る。優希と似ない太い眉、細い目で優希を見上げる。襟のよれた灰色のトレーナー。もう何日この男は着替えをしていないのだろう。風呂にも入っていないらしく、優希の客からは滅多に放たれることのない加齢臭が不快に鼻を突く。

「誰のおかげで生まれて来られたと思ってるんだ。生まれて来られただけでも感謝するもんだろう」

「アンタの娘に生まれて良かったなんて思ったことなんて一度もないよ。むしろアンタと同じ血が流れてるって考えただけでも死にたくなる、生まれて来るんじゃなかったって思うんだよぉ!」

「なんだとぉ」

「エラそーなこと言うなら、たまにはアタシに感謝されることしてみろよ」

「このやろー、ナメやがってぇ……」

 父は立ち上がる。背があまり高くない。百六十センチほどだろう。優希はいつかこの男より長身になってやりたいと願っている。

 優希は殴られることをわかっている。玄関のガラス障子を閉め、再び外へ出た。鍵をかけ、三十センチほどのコンクリートの廊下に立つ。

 隣の部屋からはテレビの音がくぐもって聞こえる。バラエティ番組でも観ているのだろうか。テレビの高い笑い声に重なって、隣人の若い夫婦の声も聞こえる。

 あんな平和な大みそか。これまで一度も経験したことがない。いいなー、平和な家庭って……。

 優希は街へ持って出ていた荷物を携えたままである。傘を取ってくれば良かったと後悔する。雪はいよいよ激しく降っている。空へとつながる紙テープのようだなと感じる。

 この雪を伝って昇って行ったら、お母さんに会えるのかなぁ。

 優希は真っ黒な空を見上げ、冷たい雪をシャワーのように顔に浴びた。

 

 近所のコンビニへ向かう。雪と闇に覆われた世界の中で、そこだけが天国のように明るく見える。夏場には店の前のアスファルトに集まっていた中学生たちも、今夜はいない。寒いからいないのか、ああいう少年少女たちにも温かい家庭があるのか、或いはカラオケにでも行って騒いでいるのか。このところ仕事が上手く行っていて彼らと接する機会もなかった優希にはわからない。コンビニの前でだけの付き合いの彼らとは、連絡先の交換もしていない。そこ以外の場所で会っても顔が判別できるかどうかも定かではない程度の仲である。

 優希にはそこだけが安心できる逃げ場であった。自動ドアの傍に灰皿がある。優希はその間近に立つ。ハンドバッグからライターとたばこを取り出す。ライターも、ラメでデコレートしたシガレットケースも、客からの贈りものである。

 一本のたばこに火を付け、一口目を吸う。そこで優希は思い出す。

 マッチ売りの少女って童話、あったなー。惨めな女の子が、火を点けたらケーキとかおばあちゃんとか、しあわせな幻が現れる、って話。幼稚園で先生が読み聞かせてくれて、そんなきれいごとあるもんか、って、アタシ嗤っちゃった。男の子も女の子も泣いてたから、先生に睨まれたっけ。アタシに現れる幻ってなんだろう。アタシにとってのしあわせな幻……。

 優希は同じクラスのジュンくんを思い出す。色白で、細い目がやさしく垂れていて、気の弱い男の子だ。授業中先生に当てられたら、立ち上がって真っ赤になって、小さな声でしか発表できないような子である。そんなジュンくんなのに、昼休み、優希に、

「放課後、ちょっと話があるんだ」

 と小声で耳打ちをした。

 ゴールデンウィークが明けたばかり、梅雨に入る前のよく晴れた日。まだ陽の光にも夕焼けの色は殆ど混ざっていない時刻である。放課後二人きりで教室に残るとジュンくんは、

「ぼく、優希ちゃんのことが好きです。付き合ってください」

 と、頭を下げた。

 優希はそれまでジュンくんのことを意識したことはなかったが、そんなジュンくんを可愛いなと感じ、

「いいよ」

 と答えた。でも、ジュンくんには当然肉体関係の経験なぞないだろう。優希はそんなジュンくんがどんな「付き合い」をしてくれるのか楽しみでもあった。それに、ジュンくんが自分を選んでくれたことで、優希にとっては「普通の小学四年生」としての経験ができることも期待した。

 ジュンくんとはそれからときどき一緒に学校から帰った。手もつながない。優希から手を差し延べようかと思ったこともあるが、優希はジュンくんのペースを尊重した。

 一学期の終業式のあと、ジュンくんは優希に、

「夏休み、電話してもいい?」

 と尋ねて来た。

「うん。いいよ」

 優希は笑って答えた。

 しかしそれが叶えられることはなかった。そのことを、優希は予想していなかった。

 優希はまだ携帯電話を持っていなかった。ジュンくんは固定電話へ電話をかけてくる。優希の家の固定電話は、常に父が居る六畳間に設置されている。ジュンくんからの電話には父が出る。父はそれを優希につながない。「いない」「二度とかけて来るな!」などと言って切ってしまう。父は優希を冷やかした。その度に優希と父は大げんかをした。優希から電話をかけようかと思ったこともあるが、父の居る六畳間へ入って行く勇気が出なかった。数回そんなことが繰り返された頃、母がいなくなった。優希は夜の世界の住人にならなくてはならなくなった。

 二学期。始業式が終わったあと、すぐにジュンくんは、優希の傍へやって来た。

「夏休みのあいだどうしてたの? 何度も電話したのにおじさんが外に出てるって……それに優希ちゃんのお母さん……」

 既に泣きべそをかいている。

 優希はそんなジュンくんを直視することさえつらかった。

「アタシ彼氏ができたんだ」ずっと考えていた嘘をついた。「前から思ってたんだけどさあ、ジュンくんってアタシには幼すぎるんだよね。アタシよりもっと幼稚な子と付き合ったほうがいいよ」

 そのときのジュンくんの顔が忘れられない。

 色の薄い唇をぽかんと開け、色白の顔を赤く染めて、顔を歪めることもなく、細い目からするすると涙を流した。

「ごめん。きょうもこのあとデートだから」

 優希はそんなジュンくんを見ていることが耐えられなかった。教室から走り出す。家まで走って帰るあいだ、優希はむせび泣き続けた……。

 ちっともしあわせな幻じゃない。結局終わっちゃったんだ。いや。終わらせたのはアタシか。でもあのままジュンくんと付き合ってても、アタシはやっぱり素直なジュンくんを騙すのが苦しくなって、同じことを言うことになったんだろうな。一学期はすごく楽しかったししあわせだったのになぁ……。

 

 一本目のたばこを消し、二本目に火を点ける。

 しあわせな幻。あと何かあったっけ?

 優希は自分が吐き出す白い煙が、雪に妨げられることなく空へ真っ直ぐ立ち昇って行く様子を見上げる。

「こんなことはもうやめて、ちゃんと勉強をしなさい」

 怒気はない、やさしい口調が頭の中に響く。黒いスーツを着た若い男、「先生」のことばを思い出す。街路樹が色づき始めた頃、向こうから声をかけてきた。

「君は中学生? いやまだ小学生なんじゃないか?」

 先生は優希の体を上から下まで、まるで校則違反を探すような視線で見た。色気が全くないものであった。

「十歳。小四。文句ある? こうでもしないと飢え死にするんだよ」

 優希は虚勢を張る振りを学んでいた。

「一回いくら?」

「三万円」

「じゃあホテルで話そう。料金は払う。ぼくはこの辺りのホテルに詳しくない。連れて行ってくれ」

「結局ヤるんでしょ?」

 優希の卑猥なことばに、先生は返事をしなかった。

 優希はいつも行くラブホテルまで、細く薄暗い路地を通って先生を案内した。

 部屋に入って服を脱ぎ始めた優希に、

「やめなさい」

 先生は即座に、おだやかな声で叱った。

 先生は自分のことをしゃべり始めた。

 自分は近くの高校で教師をしている。自分の学校の生徒が繁華街で悪いことをしていないか見回りに来ていた。まさかこんなに幼い子が体を売っていることを目の当たりにするとは思ってもいなかった。噂だけの話だと思っていた。

 先生の口調に説教臭さはなく、哀れむようなやさしさがあったことに優希の威勢は萎んだ。

「座りなさい。今度は君の話が聴きたい。君が売春をしないと生活していけないのか?」

 先生はベッドに腰をかけている。自分の隣をポンポンと叩く。

 優希は先生が指示した場所に座る。間近で見る先生の目は小さくて黒目がちで、そこから放たれる視線は、優希の心の中にまで入り込んで来るように感じられる。心がレントゲンで撮影されてしまうような居心地の悪さを覚え、優希はそれ以上先生の目を見ることができなくなってしまった。

「ちゃんと聴いてあげるから。軽蔑しないから話してみなさい」

 先生の声はとても低くてやわらかだった。

 優希は目の前のこの男を信じた。そして、母親が死んだことや、父親がいかに人でなしであるかを打ち明けた。

 優希は自分で記憶したことがないほど、しゃべりながらずっと泣いた。話し終えても涙は止まらない。

「頼れる親戚もいないんだね」

 先生は優希の髪をゆっくりと撫でた。

「そうみたい」

 優希の母の葬儀は、優希が同じアパートに住む人たちに教えてもらい、全て手配をした。同じアパートに住む人たちでさえ、全員は列席してくれなかった。母の親族も父の家族もやって来ることはなかった。母の姉が隣の市に住んでいる聞いていたが、一度母から写真を見せてもらっただけで会ったことはなく、連絡先もわからなかった。

「ごめん。ぼくでは力になれそうにない。自分の無力をこんなに感じるのは生まれて初めてだ……」

 先生も涙を流す。

「先生が泣くことじゃないですよ」

 二人はベッドに腰をかけ、抱き合って泣いたまま夜を明かした。

「君が夜の街に立たなくても、ちゃんとしたおとなに支えられて、小学生らしい生活ができるように、ぼくは願っているよ」

 別れ際。先生は四万円を優希に渡しながらそう言った。

「ヤってもないのに余分にもらうなんてできません」

 優希は受け取ることを拒んだ。

 先生は何度も首を横に振り、

「大事に使うんだよ」

 と言って、優希の手をそっと両手で包んだ。温かくやわらかな手であった。先生とはそれ以来会うことはなかった。

 二本目のたばこを消す。

 体はすっかり冷えてしまった。

 優希が帰る場所はあの部屋しかない。優希は体を売る仕事をしているおかげで、あの人でなしの父と共に過ごす時間を減らすことができている。働きに出た自分の判断は正しかったのだと確信をする。そして、母を亡くしてから今まで、優希はずっと必死に走り続けてきた。立ち止まって考えることがなかったのだなと気づいた。

 

 三本目のたばこに火を点ける。もうしあわせな思い出なんてない。優希にはまだ、母のやさしさを振り返って直視できるほど、母を失った心の傷は癒えてはいない。体を売ることで自分の喪失感から逃避しているといっても過言ではないほどである。

 優希が相手にする男たち。縄で縛る趣味のある者やナイフで傷つけてくる者、殴る蹴るしないと快感を得られない者など、ロクでもない男も少なからずいる。だけど父に抱かれるよりはどれもはるかにましに思える。

 血のつながった親に犯される。

 優希にとっては恐ろしく、不気味で、精神的な嫌悪感を伴う行為だ。もし売春をしていなくてずっと部屋にいたら、母もいなくなった今、優希は毎晩のように体を求められていたかもしれない。夜だけでなく平日の夕方、宿題の邪魔をされたかもしれない。土日なら朝っぱらから、或いは真っ昼間にも迫られたかもしれない。今のようにピルを買う金もなく、妊娠していたかもしれない。おぞましいことである。

 今夜もヤられるのかなぁ……。

 優希は突然寒気を感じる。両腕で自分の腕を抱き寄せる。外気が冷たいせいではなく、冷え切った心がもたらす寒さであり体の震えであった。

 仲間の中には売春をやめた子も知っている。彼女はやめる理由として、

「知らないおじさんに抱かれてお金をもらう度に、カネじゃあ埋められない何かが、心がズドーンって空っぽになってく気がするんだよね。仕事がいやなわけじゃないんだ。上手く言えないんだけど、このままこの仕事を続けてたら、アタシ、セミの抜け殻みたいになっちゃいそうで、それが怖くなっちゃった、耐えられなくなっちゃったんだ。仕事を選べるほど恵まれた家でもないんだけどね」

 と優希に苦笑いを見せた。

「それ、わかるよ、たぶん」

 優希は自分より一つ幼い仲間の、短い髪を撫でた。

 おじさんに抱かれるためだけに生きている人形になってしまうような錯覚。優希は彼女が言いたかったことはそういうことなんじゃないかなと想像した。でも優希には却ってその感覚を味わうことで自分がラクになることができた。それさえも、「実の父親から抱かれるよりははるかにマシ」ということに起因している。

「君が夜の街に立たなくても、ちゃんとしたおとなに支えられて、小学生らしい生活ができるように、ぼくは願っているよ」

 先生のことば。あの朝の先生の手の温もり。

 アタシ、自分の人生は自分で切り拓く。きっと、今より悪くなることはない。先生からはもう見放されちゃうかもしれない。だけどアタシには、もうこうするしか自分を救う方法が見つけられないんだ。

 三本目のたばこを消す。

 マッチ売りの少女みたいに泣き寝入りしたくない。そんなの、絶対間違ってると思う。自分がしあわせになりたければ、自分で道を選ぶんだ。たとえそのために、一生罪を背負うことになろうとも。

 そう誓って歩き始めた。

 

 部屋の前。もう隣の部屋の明かりは消えている。笑い声も聞こえない。

 心は充たされて、きっと布団もあったかいんだろうな。アタシもいつかそういう夜を迎えたい。そのために、決めたんだ。罪には違いない。でも、決めたんだ!

 鍵を開ける。赤いロングブーツを脱ぐ。ガラス障子を開ける。優希が散らかしたままの四畳半の部屋。母がいた頃はちゃんと片づけてくれていたのに。

 その奥に続くガラス障子の向こうからは、父の大きないびきが聞こえる。

 優希は、四畳半の部屋から続いている台所に立つ。外の廊下を照らす蛍光灯の光が届いているからそこは薄明るい。食器乾燥機に立てたままの包丁を手に取る。

 湯呑みの裏でこすったら切れやすくなるってお母さんが教えてくれたっけ。

 優希は包丁を研ぐ。母がいなくなってから包丁を使ったことがない。だからどの程度切れるのか切れないのかがわからない。

 絶対にしくじりたくない!

 その思いで優希は包丁を研ぎ続ける。

 優希の手は震えている。小さな湯呑みから手が逸れた。包丁の刃が湯呑みを支える左手の人差し指を傷つけた。赤黒い血が出る。

 痛っ! でも、もう切れるみたいだな。

 四畳半の部屋に立つ。父のいびきは相変わらず大きい。

 六畳の部屋へ入る。

 父は仰向けに寝ている。怖いものなど何もないかのように、万年床の上へ広げた両腕両脚が、ふんわりした布団からはみ出している。

 優希は父がかぶっている布団をめくる。家で一番温かい布団である。父が優希や母にその布団を使わせてくれたことは一度もない。同じものをもう一枚買うゆとりはこの家にはなかった。

 父は昼間着ていたトレーナー姿のまま眠っている。襟も裾もよれたグレイのトレーナー。胸の辺りにオレンジの色、横書きに、アルファベットが書かれてあるが、優希には意味はわからない。

 心臓って、真ん中よりちょっと左にあるって、医者をしてるっていうお客さんから教えてもらった。完全に左なんだって思ってたから意外に思ったことを覚えてる。コイツの場合、どこだろう?

 優希は父の体にまたがる。自分の体が父に触れないように用心する。

「えい!」

 心で叫ぶ。

 優希は父の心臓と思しき位置をめがけて、包丁を突き立てる。

 父が目を見開く。少し呻くだけで明瞭なことばはない。優希は父が反撃してきそうに思え、怯え、ためらう。しかし、

「えい!」

 自分を鼓舞しながら、再度包丁を父に突き刺す。

「えい!」

「死にやがれ!」

 優希は声に出し、何度も何度も何度も、父の胸に包丁を刺しては抜くことを繰り返した。

 ある瞬間、父親が目を閉じた。首が静かに傾いた。

「死んだの?」

 優希に確かめる術はない。辺りは血まみれである。優希はゴキブリを退治したときみたいだなと思う。夜中、スプレーを吹きかけて殺したと思ったゴキブリが、朝になるとまだそこに居て、仰向けになって細い脚をびくびくと動かしていることがある。自分の父親もそれくらいしぶといのではなかろうか。

「そうだ!」

 優希は思い付く。

 父の布団の傍に青いタオルが落ちている。

 優希はそのタオルで、父の首を力いっぱい絞めた。鼻水と涎がどろりとこぼれ出た。

「朝まで待とう。朝になって死んでたら警察に通報しよう。元締めにも知らせないとな。仲間を巻き込むわけにはいかない」

 

 風呂にも入らず着替えもせず。四畳半の部屋に敷いた薄い布団の中で、眠れないままに朝を迎えた。六畳の部屋から物音は一度も聞こえなかった。

 布団から抜け出す。六畳の部屋と仕切るガラス障子の前に立つ。

 優希の心に初めて、昨夜の犯行が過ちだったらいいのにという後悔が湧く。

 しかしすぐ、「アイツがいる限りアタシは前に進めない」という思いが後悔を帳消しにする。

「死んでてくれ」

 優希は思い切って障子をあける。

 朝陽射す薄明るい布団の上。部屋へ足を踏み入れるまでもなく、黒く乾いた血の中で、父親の顔はどす黒く硬直していた。

 優希は四畳半の部屋へ戻る。自分のかばんからスマートフォンを取り出す。元締めへ電話をかける。

「元旦からすみません。オヤジを殺しました」

 元締めも優希の家庭の事情については詳しく知っていた。元締めは優希に命令をする。

 すぐにスマートフォンを初期化すること。警察なら簡単に復元できるだろうが、ともかく初期化をすること。

 警察に捕まっても組織のことは口にしないこと。仲間のことについても明かしてはならないこと。

「すぐにメンバー全員のスマホも解約をする。あとのことは俺に任せろ。心配ない」

「ご迷惑をおかけしてすみません」

「がんばれよ。ま、君ならこの先も大丈夫だ」

 元締めは大きなあくびとともに、笑っているようだった。

 優希はすぐにスマホを初期化した。もう仲間とは会えないんだなと思うとさびしくなった。メンバーは六人ほど。会った回数もそんなに多くはない。だけどみんな優希と似た家庭環境にある子どもばかりで、共感し合えることがたくさんあった。学校のクラスメイトたちよりも過ごした時間は断然短いのに、絆ははるかに深かった。彼女たちならこの先、自分で自分のしあわせを掴むことができるだろう。優希はそう信じることにした。

 そして六畳の部屋へ足を踏み入れる。父の亡骸が視界に入らないように左手を頬の横に沿わせる。部屋の右側の壁際に設置している固定電話。110番へ電話をかけ、罪を自供した。

 

 元日の朝。よく晴れて風もなく、おだやかで平和そうな元旦。

 優希のアパートの前には、パトカーと救急車とがやって来た。アパートの住人たちだけでなく、近所に住む人たちは、アパートの前に群がっている。ざわめきが部屋の中まで聞こえてくる。

 優希は男の私服刑事に尋ねられたことに、素直に答えた。動機や具体的な犯行方法についても一切嘘はつかなかった。ただ元締めから命じられたように、組織に属して売春をしていたことは否定した。個人でしていたと言い張った。

 やがて。刑事に両側を挟まれて部屋から出る。

「優希ちゃん……」

 隣の部屋の、まだ二十代半ばの奥さんは泣いている。泣きながらもその視線は、優希の胸元に留まって悲鳴を上げた。

 優希はそのとき初めて、昨夜の返り血が自分の服を汚していることに気が付いた。着替えもせずに布団に入っていた。昨夜着ていた白いカットソーも、客がプレゼントしてくれたブランドものであった。

 隣の若い奥さんの肩を抱いているのは、さらにその隣の部屋のおばちゃんである。四十代くらいであろうか。太っている。

「優希ちゃん。守ってあげられなくてごめんな。これからでもあたしたちはあんたを擁護してあげるから」

「擁護?」

 優希は立ち止まる。刑事たちも優希を急がせようとはしない。

「あんたには悪いけど、あんな男死んで当然だよ。よく耐えたよ。よくやったよ」

「そうよ」二階の痩せたおばさんも泣いている。「あなたのお父さんと知り合うまで、わたしは人間には等しく生きる権利があるって信じてた。だけど、あなたのお父さんは容赦なくそれを踏みにじってくれた。世の中には生きる権利のない人間っていうのがいるんだってことを学んだわ。だからわたしもあなたを擁護してあげる。きっと刑は軽くなる筈よ」

「だから擁護って何なの?」

 優希には、自分が父親から犯されていたことを、知っていたのに見過ごしていたことを言っているのだとしか思えない。「それくらいのことなら自分の口から言えるのに、この人たちはアタシをそんなに幼稚な子だと思っているの? そんな筈ない。お母さんのお葬式をなんとか一人で取り仕切ったこと、みんな知ってるのに」と、訝しんでいる。どうしてこんなに何人もの人たち、しかも女の人が、「擁護」「擁護」と口にするのか?

 優希の気持ちを読み取ったのであろうか。

「優希ちゃん」隣の部屋のおじさんである。涙ぐんでいる。「優希ちゃんのお父さんは、君だけにひどいことをしてたんじゃない。このアパートに住む女性は、みんなひどい目に遭わされた。二階に住む五歳の女の子までね。君のお父さんに直接傷つけられた女性だけでなく、その家族もみんな、そのことによって悩んで苦しんで、とてもつらい思いをしてきたんだよ。そういうこと、ちゃんと警察に伝えるから。これまでは取り合ってもらえなかったけど、今度こそちゃんと認めてもらうから。

 この件を揉み消すのはやめてくださいよね、この子の将来もかかってるんですから」

 隣の部屋のおじさんは、優希の両側に立つ二人の刑事を数秒ずつ睨んだ。

 二人の私服刑事はうなずいた。

「ごめんなさい」

 優希は群がっている人たちへ、これ以上できないくらい深く頭を下げた。あの父親なら隣のおじさんが言ったようなことをしていたとしても不思議ではない。

 優希の姿を見て、集まった人たちの中からは一層のすすり泣きが聞こえてきた。

「行こうか」

 刑事の一人が優希に言う。

「はい」

 優希はうなずいた。

 パトカーへと連れて行かれながら、

「今度こそちゃんと認めてもらうから。この件を揉み消すのはやめてくださいよね」

 という、隣のおじさんのことばが引っかかった。もつれた髪の毛が絡まって、ほどけそうでほどけなくてむしゃくしゃする。そんな気分がした。

 

 優希は警察の建物の中にある拘置所に留め置かれた。

 翌日の午後、拘置所にいる優希の元を、一人の女性が訪ねて来た。面会室に入ってすぐ、優希は分厚いガラス越しに女性の姿を確認する。その女性も、優希が現れたことに気づいて顔を上げる。

「伯母さん?」

 優希にはその顔に見覚えがあった。以前母親から一度だけ見せてもらった母の姉の写真。頬をくっつけて並んだその写真で、その二人は姉妹にしか見えなかった。とてもよく似ていた。特に似ていたのは、優希にも受け継がれているぷっくりと分厚い唇であった。

「優希ちゃん……ね? よくわかったわね」

 伯母が驚いているので、優希は母親から見せてもらった写真のことを伯母に打ち明けた。

「優子の葬儀に出られなくてごめんなさい。あなたが一人で仕切ってくれたそうね」

「どうして知ってるんですか?」

「ときどきあなたのアパートへ行って様子を確認していたの。力になってあげられなくてごめんなさい。あなたのお父さんが怖くて……」

「伯母さん」優希は隣のおじさんが言ったことを確かめられるかもしれないと直観した。「あのオヤジ、何者なんですか? 警察が揉み消すことができるってよっぽどじゃないですか?」

 伯母は頬に涙を流しながらぽかんと口を開けた。

「近所の人から聞いたんです。『今度こそ揉み消すのはやめてくださいよね』って。アタシが捕まったときに」

 伯母は一層激しく泣いた。ひとしきり泣いたあと、伯母は話し始めた。

 優希の父である正人の父、優希の祖父に当たる人物は、代々県会議員をしている。その妻、正人の母も、昔県会議員をしていた人物の娘である。だから正人の犯した多少の罪であれば、警察に圧力をかけて揉み消すことができるのである。優希の母はときどき伯母と電話で連絡を取り合っていた。伯母は優希の母から、正人がアパートでしている悪行について聞かされていた。優希の母はその度に、菓子折りと謝罪の金銭を持って、被害に遭った女性のいる部屋へ詫びに行っていた。

「お母さん、全部知ってたんだ……」

 優希には、ますます母が哀れに感じられてくる。

「優希ちゃん」伯母はもう泣いてはいない。緊張した声で言う。「これからとても大事なことを話すわね。あなたは知っておくべきだから。このあと警察にも伝えるけど」

 優希はじわじわと迫って来る見えない力に圧倒されて、返事ができない。

「優希ちゃんはあの人、正人さんの子どもじゃないのよ」

「え……」

 優希の中でこれまで黒く堅固に見えていたものが、色も形も失うのを感じた。

 伯母は語る。

 優希の母優子は、その頃別の男性と結婚をしていた。優子の妊娠がわかって夫婦でスーパーへ買いものへ行った休日。その駐車場で正人が優子に目を付けた。正人は優子たちが車から離れているあいだに、彼らのタイヤをパンクさせた。二人が戻って来ると、親切そうに二人に近づき、「送って行きますよ」と声をかけた。正人は優子たちを自分の車に乗せた。「方向が違うんですが」優子の夫は何度も言ったが、正人は「ちょっとくらいドライヴに付き合ってくれてもいいじゃないですか」と含み笑いをした。そして車はラブホテルへ入った。正人は夫を縛って動けないようにしておいて、その前で何度も優子を犯そうとする。優子が拒むと正人は優子を殴り、蹴る。優子はお腹の子どもに支障が出てはいけないと考え、強く反抗することができなかった。優子の夫は正人を止めようと邪魔に入る。正人は優子の夫にも暴力を振るう。強く蹴飛ばした拍子にベッドの角で頭を強く打った。たくさんの血が流れた。それを見てさらに昂奮した正人は優子をレイプする。正人が満足したとき。既に優子の夫は息絶えていた。

 正人の殺人も、正人の親は金と権力とで揉み消した。しかし正人はそれまでにも何十回となく軽犯罪を繰り返していた。正人の親はそれらを悉く隠蔽して来た。さすがにこれ以上の面倒はみきれないと思ったか、正人に絶縁を言い渡した。しかしアパートでの件が表沙汰になっていないということは、今でも正人に関する事件が表面化しないように、正人の親が圧力をかけ続けてはいるのだろう。

「あの男のお葬式。あの男の実家で盛大に執り行われたわ。『実の娘に殺されるなんて、なんて哀れなことだろう。あの娘、絶対にただでは済まさんぞ』ってお義父さん、息巻いていたそうだけど、まともに取り合う人は殆どいなかったそうよ」

 伯母の昔話はさらに続く。

 絶縁された正人は優子に、

「おれと結婚しなかったら、あの男の自殺は、腹のガキの父親が俺と知ってショックを受けたせいだって、お前の職場へ言い触らすぞ」

 と優子を脅迫した。

 優子は両親に相談をした。優子の両親の元へは先に正人の親から、三億円の慰謝料が持ち込まれていた。両親は優子にその金を渡し、

「これを大事に使って、生まれて来る子に不自由をさせないような家庭を築きなさい」

 と言った。しかしその三億円も、正人は一週間のうちにギャンブルで使い果たしてしまった。

 優子は両親や姉を、正人の悪事に巻き込みたくなかった。優子の父は開業医をしていてそれなりに裕福である。親しい付き合いをしていては、正人が優子の実家へ金をたかりに行くことが簡単に想像できる。だから優子は自ら両親や姉とほぼ絶縁していたのである。伯母は隣の市ではなくさらに遠い場所へ転居していたが、それでもなお、これまでに何度も正人は金をたかりにやって来た。優子の両親に至ってはなおのことであったそうだ。

「あなたの名前、優希。あなたのほんとのお父さんの名前なのよ。優子はその名前、とても気に入ってたわ。やさしさと希望。そういうものを持った子どもに育って欲しい、亡くなった優希さんみたいな人になって欲しい、って。

 あなたの細い眉、大きな丸い瞳。お父さんの優希さんとそっくりだわ」

 優希は泣いた。嬉しくて泣いた。

 心の中で知らないうちに、自分がばらばらに打ち砕いていた何かとても大切なものが、優希の涙が浸みたせいか溶け合って固まって、温かくやわらかく、これまでとは全く異なる確かなものになった。

 

 優希は二本の綿棒を口の中へ入れられた。DNAの採取なのだぞうだ。

「アイツのは?」

「君のアパートの人たちが、こんなときのためにとたくさん証拠品を残してくれているから心配ない」

「揉み消さないでくださいね」

「揉み消すつもりならこんな手間のかかることはしないよ」刑事は笑う。そして、「こっちの我慢にだって限度ってものがあるからね」

 忌々しそうに言って出て行った。

 DNA鑑定の結果を刑事が伝えに来た。正人と優希とのあいだに血縁関係は認められなかった。

 

 家庭裁判所で裁判が行われた。

 アパートの住人たちは、正人の悪行を日づけごとに記した書類を提出していた。優希への情状酌量を求める署名には、アパートの住人たちはもちろんのこと、近所に住む人たちや、意外にも優希が通う小学校の関係者、保護者たちの名前までもが記入されていた。

 DNA鑑定の結果も優希にとって有利になった。実父ではなく他人を殺したことになったからである。

 原告として正人の父と対峙した。


 

「だからこの結婚には最初から反対だったんだ。正人は人が好すぎたんだ。よその男の子どもを孕んだ女と結婚するなんて。この娘の所業は極刑に値する」


 恰幅のいい正人の父は、よく通る声で優希を責めた。

 アパートの住人たちがいる傍聴席からは失笑が起きた。正人の父が細い目でそちらを睨み付けたが、彼らは皆優希の味方であった。

 優希は初めて母方の祖父母の顔も見た。伯母と並んで座っていた。母の面影を宿した祖父母を見ただけで優希は泣きそうになった。そしてあとになって伯母から聞かされたことであるが、傍聴席には優希の実父方の祖父母もやって来ていたらしい。伯母は、「やさしい目であなたを見守っていらしたわ」と付け加えた。

 判決が出た。

 優希は児童自立支援施設へ送致されることになった。

 

 優希は伯母夫妻と養子縁組をした。伯母夫妻には優希より三つ年上の女の子がいる。施設から出たあとは伯母たちが暮らす遠い街で、伯母の養女として暮らすことになる。

「君が夜の街に立たなくても、ちゃんとしたおとなに支えられて、小学生らしい生活ができるように、ぼくは願っているよ」

 先生のことばをときどき思い出す。

 伯母は母と実父の結婚式の写真を郵送してくれた。伯母が言ったとおり、優希の目元は父と似ていた。優希の中で欠けていたものが、さらに強固に好ましいものへと形を変えていくのを実感する。いつか実父方の祖父母とも会ってみたいと感じている。

 優希は毎日勉強に励んでいる。母が望んだように、伯母と同じように、将来は看護師になりたいと願っている。背負った罪がその妨げになるかもしれないが、自分の意志を貫こうと覚悟している。

 最近優希は気づいた変化がある。それは彼女の筆跡である。これまでよりも筆圧が強く、大きくなった。

 優希はそれまで筆圧が弱くて薄く、小さな自分の字を嫌悪していた。まるで世の中に居場所なく、逃げるように隠れるように、後ろ暗く生きている自分を象徴しているように思えていたからである。

 優希は今の自分の筆跡を気に入っている。

 

 

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