短編小説 「約束」
※以前に趣味で執筆していた短編小説です。元々はお題にそった短編小説なので、原題は「写真」という作品になります。
※「アラウンドザワールド」と少しだけリンクストーリーになっています。
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約束して。
愛しているなら嘘をつき続けて。
私の途方もない願いは、今も叶え続けられている。
【 約束 】
犬の遠吠えが聞こえた。
こだましている音に何となく覚醒するもまだ意識は眠たげで、まるで寝言のようにしてトオルに話しかける。
「ねぇ、これってオオカミみたいだよね」
寝ているかと思ったらトオルも起きていたのかこちらに寝がえりをうった。静かなテント内に寝袋の衣擦れの音が響く。
今夜は珍しく風がないので、外に出ればきっと満天の星空が広がっているだろう。
テント内といえども野外の、しかも山の夜なので空気は充分にひんやりしていて、温もりといえば寝袋内の自分の体温だけが頼りだ。
トオルの眠たそうな瞳に微笑みかける。
「ね?オオカミみたいじゃない?」
「麓にいる犬だよ」
「ふふ。そんなの分かってるってば。……ただ、オオカミかもなって想像も面白いかと思って」
「オオカミ、ねぇ」
トオルも私もきっと頭の中のイメージは同じだ。
ゆるゆるとした眠りの中、緑の景色と一緒に遠吠えしているオオカミ。鳴くとこっちに気付いたように目が合った気がした。夢の中はどこまでも自由だ。
「トオル」
「なに?」
「いつかオオカミ見たら、写真に撮ってちょうだいね」
「そんなショットが撮れたらな」
「できるよ。トオルなら」
だってあなた、山の神様に好かれていそうだから。
だからきっと、見たいものが見れるよ。
心の中で言ったのか、実際に口にしたのかは覚えてない。
手を伸ばしてトオルに触れようとすると、向こうからも手を差し出してくれて握りあった。
トオルの指先はとても熱かった。覚えているのはそれだけだ。
* * * * * * *
納涼会、と称しながらも定期的に行っている大学時代の山岳サークルの飲み会では相変わらずのメンバーが集まっていた。
昔から使っている大衆酒場は社会人となった私たちには安すぎるくらいだけどこのチープ感がみんな忘れられない思い出となっているようで、他の店に設定するよりもはるかに集まりが良いのだから面白いものである。
それぞれの代によって集まるメンバーも違う中、私が2年時に在籍していた当時の1年から4年のメンバーがみんな気が合うのか山岳部飲み会と言えばこの面子が通例になっている。
「ヨーコ!久しぶり~!!」
「ミナミ、元気にしてた~?」
遅れてきた私に手を振ったのは同級生のミナミだった。
座敷で私の席をとっておいてくれたのか、隣りに置いていたバッグをどかして私に座るように促す。
腰を落ち着けた途端、ミナミはわざとふんぞり返るような仕草で私に突っ込みを入れる。
「ちょっと~、私はもうミナミじゃありませんよ~」
「そっかそっか。結婚したんだもんね。トウジョウさん」
「結婚してかなり経つのに、みんなミナミって苗字が言いやすいのか、悲しいかなトウジョウさんとは呼ばれないのよ。とくにこのメンバーは!」
ミナミがぷりぷりしながら言うと周りは申し訳なさのかけらもない様子で一斉に笑った。
「そういえば今日ボクちゃんは?パパ?」
「今日は母が遊びにきてて見てもらってる。旦那は今日も残業だよ。仕事好きすぎにもほどがあるよ」
「まぁまぁ、亭主元気で留守が良いって言うじゃん。あ、こないだ親子ハイキング行ったんだって?」
「計画たててたんだけど、息子が幼稚園で風邪もらってきたのか、熱出しちゃって結局流れちゃった。まぁ、山は逃げないからベストコンディションで行くのが一番だし、今度の夏休みにリベンジしようってなったんだ」
「旦那さんもすっかり頼もしいパーティーみたいだね」
「もう息子にドヤ顔よ。最初なんて文句しかたれてなかったのに、山登りの後輩が出来た途端偉そうなんだから」
「まぁまぁ、そんな旦那様が大好きな癖に、ハルカ奥様♡」
「もぉ!茶化さないの!」
「あはははは」
私たちの他にもあちらこちらで山の話題でもちきりだった。みんな元どころじゃなく現役で山登りしている人がほどんどだ。
大学時代の山岳サークルといっても、実のところ私は大学を2年の時に退学している。どうしても夢が捨てきれなくて、調理の専門学校に入り直したからだ。
当時は親に黙ってバイトを沢山して、専門の学費を少しずつ貯めた2年の終わりに突然の行き先変更を親に打ち明けた。
勿論ものすごく怒られたし困らせたけれど、幸いに一人っ子だったし出世払いするとうまく丸めこんで調理学校に行かせてもらい、運よく卒業後にホテルのレストランに勤めた。
私が大学を辞めるときも、山岳サークルのみんなはすごく応援してくれて、辞めた後も山登りに誘ってくれた。
もちろんミナミもその中の一人だ。むしろ私を一番応援してくれたのは彼女かもしれない。
そんなミナミも職場結婚して旦那さんを山好き(?)に育て上げ、幼稚園児の息子くんまで山男にするつもりらしい。
普段はおっとり大人しそうな彼女だけど、学生時代は岩山も大好物なほどだったのだから人は見かけによらない。
さすがに旦那さんができてからはハードなところには行かないらしいけど、息子くんが大きくなって立派な山男になったら本当にどんなとこでも登りそうでちょっと心配である。
宴会のあちこちで、どこに登ったとか、これからどこに登りに行くだとか、新しい登山具の使い心地を情報交換しあう楽しそうで上機嫌な会話が聞こえていた。
私たちが久しぶりの会話で盛り上がっていると、当時の部長だったオオモリさんがジョッキ片手にやってきた。
相変わらず体格がよく、まるで森のくまさんのような風貌も相変わらずだ。
「お前らー飲んでるかー!ミナミも人妻なのに時間作ってくれてありがとなー!」
「だからもうミナミじゃありません!オオモリ先輩も下の名前で元々呼んでたのに、わざと旧姓で呼ぶのやめてくださいよ~!」
「ちょっとオオモリ先輩、残念ながら私は人妻じゃないです~!」
「知ってる知ってる!お前も料理人として頑張ってるみたいじゃねーか」
「もう!オオモリ先輩もジビエ料理に加えてやりましょうか!?熊肉の調理は得意なほうなんで」
「お前の料理男前すぎるからリアルに聞こえて怖いな!」
「そういえば、ヨーコの勤めてるとこ繁盛してるんだって?私も今度行きたいなとは思ってるんだけどなかなかね」
「家の事とかあると厳しいよね。お店はいつでもあるから機会があれば是非きてよ」
私の勤めているところはダイニングバーだ。それも女性限定の。
ガールズバーってわけでもなく、同性愛者のお店でもない。単純に女性だけで安心にお酒も料理もスイーツも楽しめる空間というのがコンセプトの飲食店。
私の叔母がオーナーで、私はコックとして声を掛けられて、何だかんだで5年目になるお店は口コミや女性雑誌にも掲載されたりしてなかなか繁盛している。
味にうるさい女性のご要望に応えられるようにパティシエとバーテンダーがいるので、本格的なものが出せるというのが自慢でもある。
「そういやヨーコ、最近山は登ってるのか?」
オオモリ先輩の問いかけに私は苦笑いで答える。
「それがなかなか最近は行けなくて。休みもメニュー考えるのに集中しててつい仕事しちゃうんですよね」
「なかなか忙しそうだな。それはそうとお前、……彼氏とかいんのか?」
「でた~!オヤジのお節介発言!だとしたら私こんな飲み会きてないですよ!」
「こんなとは何だ、こんなとは!紹介してやるぞ!俺の友達の独身山男なら結構いるぞ!」
「なんで山男が前提なんですか~!そこ拘らないし!」
酔っぱらいのトークに笑いすぎてお腹を痛めていたら、男性の「どうも!」という声が突然聞こえて、席がいっそう賑わった。
声がしたほうに目を向けた瞬間、私の心の奥が静かにざわめいた。
どこかで望んでいたような、やっぱり会いたくなかったような複雑な気持ちが入り混じる。
現れた彼は控えめにみんなに挨拶をして、遠く座る私にも会釈をしてくれた。会社帰りのスーツ姿を見るのは久しぶりな気がした。
「ケンタロウじゃん!久しぶりだな!」
「あれ、お前もいきなり誘われたクチか!」
「なんかすいません、俺なんかがお邪魔しちゃって」
「いーっていーって!ほら、ここ座れ!ビールでいいか?」
「あ、自分で頼みますよ。生お願いしまーす!」
「ねぇ、あの彼、誰だっけ?」
ミナミが小声で私に聞いてくる。
彼は大学の山岳メンバーではないし、ミナミも飲み会に参加は久しぶりだから知らなくても無理はない。
私が言おうとした時、向かいにいた同期のコマツ君がミナミに教えた。
「あれ、トオル先輩の会社の後輩で……登山具メーカー『シャイロ』でカメラやってる奴だよ。今日の飲み会、たぶん誰かが声かけたんだろうな」
「……そうなんだ」
ミナミはちらっと私を案じてくれたようだけど、私は笑顔を崩さず平気なふりをした。
「ケンタロウ呼んだの俺だよ、俺!俺の勤めてる出版社と『シャイロ』とは親元が同じだからさ」
上機嫌で説明したのは出版社に勤めているヨシダ先輩だった。
元々は別の出版社にいたけれど山好きの情熱が勝利してか、アウトドア事業を展開している会社の出版社に転職したのだった。
登山具メーカーの『Shiloh ーシャイロー』もヨシダ先輩の出版社も、アウトドア会社が展開しているそれぞれの事業だ。
最近はクリーンエコロジ―の分野にも進出し発電事業を立ち上げたりと、それが時代にも合っているのか世間の評判も良く業界最大手となりつつある。
本格的な登山技術があるのは勿論、元々写真をやっていてコンテストにもよく出していたトオルははじめから腕を見込まれてのカメラマン枠だったけれど、ケンタロウ君は元々はシャイロの営業だった。
「ヨシダさんにいきなり呼ばれてたらこの飲み会だったんで、逆に俺がお邪魔して大丈夫なのか心配だったんですけど」
乾杯を終えてビールを飲んで一息、ケンタロウ君は相変わらず控えめに笑う。
ニコニコと穏やかで誰からも好かれる弟みたいな存在だ。律儀に正座までしてしまっているところが彼らしかった。
どうやらヨシダ先輩に呼ばれてこの飲み会に来たらしい。
他のメンバーとも山繋がりで顔見知りなのか輪に入っても全然平気みたいだった。
ケンタロウ君の撮った写真は「商品」であって、おそらく雑誌に掲載するにあたり普段からヨシダ先輩ともコンタクトを取っているんだろうと思った。
「そういやお前、こないだ撮影でカナダ行ってきたんだって?羨ましい話だなぁホント!」
「向こうマジで寒かったっすよ。けど新商品のテストも兼ねてなんで、みなさんの手元にいくにはもうしばらく先になるかと」
「いや、仕事やってたらホント日本の山がせいぜいだよ」
「海外つっても、他にも仕事あったんで強行スケジュールでしたよ。撮影担当といいつつも営業まで引っ張りまわされますし」
「そりゃあお前、元営業だからその方が売り込むの早いから当たり前だろうが」
「キビシーなぁ!」
笑うとくしゃっとなる顔は少し幼いのに、しばらく見ないうちに日によく焼けてどこか男っぽかった。
私は思わず自分の腕を見る。現役で登ってるそれに比べて私のはなんて生っちろいんだろうか。
良い具合に出来上がったヨシダ先輩が上機嫌でみんなにケンタロウ君を紹介する。
「ケンタロウのカメラセンスは、あれだ。トオルが見つけたんだもんな!」
「あ~。そっか。トオルはホント登山っていうより山の写真がメインだったから、メーカー専属のカメラマンって聞いた時はやっぱりなって思ったもんな~」
「トオルが俺にケンタロウ紹介してくれて、たまに3人で登りに行ってたんだよ」
「そうだったんだ。ヨシダとトオル、ゼミも一緒だったもんな」
どんどん繰り広げられていく会話。気にしたくないのに気にしてしまって、耳が、胸がちくりと痛む。
ミナミが私の顔を見るけれど、私は見る事ができずにビールとつまみを食べ続けていた。
「トオルもなぁ~……」
「そういえばヨシダさん、編集長から聞きましたよ。今度コラム任されるんですって?」
「えっそうなの!?すごいじゃんお前!」
「いやいや、全然そんな大したコーナーじゃないんだけどね!」
「ヨーコ、平気?」
ミナミが小さく私を案じる。それに「大丈夫」と答える。
平気じゃない時なんて、とっくに終わってる。だから、大丈夫。
心のもやを隅っこに追いやって笑顔を作り直した私は、ビールを飲み干すと大きな声で「ハイボール飲むけど、他に飲む人!」と声をかけた。
すると手が次々と上がり、冗談を言いながらオーダーをカウントしはじめては大いに笑った。
その間でも、心に追いやったはずのもやに潜む視線は消えてくれなかった。
飲み会はお開きになり駅前で解散となった。
バスだったり地下鉄だったりそれぞれに散らばり、一部は今日のノリで決まった次の山行プランを練るのか2次会へと消えて行った。
私とケンタロウ君が改札方向へ向かうとオオモリ先輩が声をかけてきた。
「あれ、ケンタロウってそっちだっけ?2次会行かねーの?」
「いや~、帰ってきたばっかで実は会社近くに部屋とったんすよ。家帰るのにめんどくさくて」
「なんだそれ。じゃ、ヨーコも気をつけて帰れよな」
「先輩たちこそ気をつけてくださいねー!」
私たちは手を振ってご機嫌な先輩たちの後ろ姿を少し見届けてから一緒に改札に入った。
2人の近すぎるでも遠すぎるでもない距離が、かえって全く知らない人同士のように感じる。
この気まずさから脱するように私から切り出した。
「で、何でケンタロウ君はこっちの方向なのかな?むしろバスじゃなかったっけ」
私がわざと意地悪く聞くとケンタロウ君はバツが悪そうな表情をしながら「嘘、ばれましたか」とあっさりと告白した。
そうだろうと思った、と笑ってしまう。
「カナダ、どうだった」
「サーモンうまかったですよ。お土産なくてすいません」
「まぁ弾丸ツアーみたいなもんだしね。無事で何よりよ」
平日夜だというのにホームには人が溢れていた。
本来なら今夜は私も仕事だったけれど、パティシエ担当のカノンが珍しく胃腸炎によりダウンしたのと、バーテンダーのリカは旦那さんが海外の仕事から一時帰国して来るとのことで、せっかくだからとオーナーの計らいで3連休になったのだ。
電車を待ちながら飲み会の会話をふと思い出した。
「ケンタロウ君、さっきはありがとね」
「何がですか?」
「……話題。変えてくれたから」
「あ、あぁ。別にそういうんじゃないですよ」
「でも、助かった。ありがとう」
「いえ……」
多分、思っている事はお互い同じだろう。
同じ人物の事を思っているし、約束の事も思っている。
二人で無言のまま電車に乗り、しばらく揺られると私の降りる駅になったので、「じゃあ」と挨拶して電車を降りた。
するとケンタロウ君もついてくるように降りてきたので、あれ?と思い彼を見た。
ケンタロウ君は明後日の方向に顔を向けながら「だから、部屋とったって言ったじゃないですか」と分かりやすい嘘をついた。
「あなたの会社、私の家の近くでもないけど」
「まぁそうですけど。……つまり、ヨーコさんのご飯が食べたいって下心です」
「あ、そういうこと」
電車がゴオッと音を立てて通り過ぎる。ホームからどんどん人が消えて行って、とうとう私たち2人だけになった。
「ついでに言うと俺、明日休みです」
その一言に、胸がじりついた。
「……だめ、ですか」
どうしようかと考える。
……いや、考えるふりをする。心の中にトオルが浮かんできた。何も言わずそのまま見つめているような気がした。
目の前のケンタロウ君を見ると待ちきれなさそうな、懇願するような瞳でこちらを見ている。同じ視線でも全然違った。
「うち、何にもないけど。布団も一つしかないし」
「床で寝ます」
「……別にもう止めないよ」
私はさっさと改札のほうへ歩き出した。ケンタロウ君がついてくるのが分かって、何ともやるせない気持ちになる。
どうしてこんなに暗い気持ちになるのか。どうしてそれを分かりながらも誘う言葉を言ってしまうのか。
自分で自分がよく分からないままだ。
「相変わらず狭いとこだけどドーゾ」
「お邪魔します」
彼を部屋に入れるのはすごく久しぶりだった。前がいつだったかなんて覚えていないけれど、自分以外の人が部屋にいるのは何だか変な感じがした。
落ち着かなさそうにそわそわしているケンタロウ君に、冷蔵庫から缶ハイボールを出してテーブルに置く。
「適当に飲んでて。煙草の匂い落としたいから先にシャワー浴びてきちゃう」
「わかりました。じゃあ遠慮なくいただいてます」
腰を落ち着けたケンタロウ君はその言葉通りに飲みはじめた。
私がシャワーから出ると、ケンタロウ君は部屋に飾ってある写真やポストカードを見ていた。
額に入れてあるのはもちろん、壁につけた麻紐に木製のクリップを通して写真やポストカードをそれに挟んでいる。
自分なりにディスプレイした小さなコーナーだけれど、写真が良いからかちょっとしたギャラリーのようだ。
「あ……すいません。……やっぱり良い写真だなって」
私の視線に気づいたのか遠慮がちに言う。
私はケンタロウ君の隣に並び、缶の梅酒を開けて一口飲んだ。ほんのりと梅酒の香りが広がって、気分を変えるのにはぴったりだった。
「……私も毎日そう思ってるから」
「ヨーコさん」
「ケンタロウ君、シャワー浴びておいで。その間に夜食作っとくから。飲んでばっかでお腹にあんまり入れてなかったでしょ」
話を逸らそうと、もっともらしい事を口にすると、ケンタロウ君は簡単に納得してバスルームへ向かった。
冷蔵庫を再び確認してから、もう夜も遅いし夜食も簡単なものにしようと思った。
朝炊いたご飯も残りは冷凍にしようと思っていたもので、そのまんま忘れていたから二人分にはちょうどいい。
「玉子丼と大根のお味噌汁でいいか」
そう呟いて、ぬか漬けも出そうと思った。
調理をしながらバスルームから聞こえてくる音に、何だか久しぶりだなと思う。
自分以外の誰かが部屋にいて、生活の音がするなんて。
そう言えば人と一緒にいるというのはこんな感じだったと思い出した。
誰かと暮らす、なんて親からも期待はされているものの、私の心の踏ん切りがつかないから自分でもいつになるんだろうと他人事のように思っているくらいだ。
味噌汁もできてごはんに出汁がきいた卵をふんわりかけて、ぬか漬けを切り終わったところでケンタロウ君がバスルームから出てきた。
彼が以前来訪した時に用意した男性用のTシャツとハーフパンツを処分しないでよかったと思う。
ケンタロウ君は私の手元を見るなり顔をほころばせた。
「すげぇイイ匂い。落ち着いて日本食食べんの久しぶりかも」
「もう出すから座って」
「ありがとうございます」
小さなテーブルは2人分の食事でいっぱいになった。
ケンタロウ君は幸せそうにお味噌汁を飲んで、「やっぱりヨーコさんの作る和食は美味いです」と安心したように言う。
私は「まぁ専門はもっぱら洋食だけどね。ってこんな簡単な食事、和食のうちにも入らないよ」と、同じようにお味噌汁を飲んだ。
「いやいや、立派な和食ですって。ヨーコさんの作る山メシでも、ただの雑炊でも何か味違いますもん。俺ヨーコさんの山メシだけで毎日生活できますって。何ならウチのタイアップでレシピ本の企画作りましょうか?」
「何言ってるんだか。私のなんて普通だってば。私自身食い意地が張ってるだけだって」
「本当ですって。とくに寒い時に登った後の鶏鍋とか、マジで天才って思うくらいにいまだに食べくなりますし!
ヨーコさんと登ってると『あー早く昼にならないかな』って、絶対にメシのこと考えてましたもん。俺もトオルさんも」
トオルの名前が出た瞬間、無意識に私の動きが止まっていたのか、ケンタロウ君のほうが気がついてバツの悪そうな表情になった。
「……すいません」
「何謝ってんの。私こそごめんね。もう大丈夫なのに」
「……大丈夫って」
「だって、ポストカードも写真もきてるもん、約束どおりに。……だから、大丈夫」
「……そうですか」
そこからは外国の山の事、仕事の事、食事の事とか他愛のない事を話した。
それでも結局山の話になってしまうのは二人の共通点だからかしょうがない。
ケンタロウ君は営業の仕事をしつつ趣味で山登りと写真をしていたけれど、今は山に登りながらの撮影がメインなので、まるで趣味がなくなってしまったような気がするのに仕事が楽しくて仕方ないと言ってるのを見て、トオルも同じ事言っていたなと思い出した。
トオルが静ならばケンタロウ君は動だし、トオルは昇ってくる朝日のような静けさと穏やかさ持っている人だけれど、ケンタロウ君は昇りきった昼間の太陽のような明るさと大らかさがある。
トオルとケンタロウ君は全然似てないしタイプも違うのに、どうして一緒にいると落ち着くのは同じなんだろう。
いや、トオルの時よりもケンタロウ君と一緒のほうが安心してしまう。
ケンタロウ君の笑顔を見て、きっとこの笑顔には人を安心させるパワーがあって、そこがトオルとは違うのかもしれない。
そしてそんなケンタロウ君という後輩を誰よりも可愛がって気に入っていたのがトオルなんだ。
食べ終わるとケンタロウ君が「お礼です」と律儀にも食器を洗ってくれた。
そこまで気を遣うこともないのに、これも毎回の事だ。
私はその間に、まさか本当に床でケンタロウ君を寝かすわけにはいけないのでベッドを整えてておく。
もちろん一人用のベッドで狭いので私はソファで寝る事にした。
するとケンタロウ君が「何やってんすか、ヨーコさんの家なんで俺がそっちで寝ます」と慌てるも、その図体でソファのほうが寝苦しいに決まっている。
「いや、お客さんだし。私小柄だからソファで寝ても大丈夫だし、普段も疲れてここで寝ちゃう事多いからベッド使っていいよ」
「いやいや、そういうわけにはいきませんって」
「ソファなんてケンタロウ君には小さいから、結局下で寝るようだよ」
「だからそれでいいですって。俺が押しかけたんだから床でいいです」
この押し問答が続く間に夜が明けてしまいそうな気がして、面倒くさくなった私は自棄になって
「じゃあ狭いけど一緒にベッド入ればいいよ」
と電気を消してケンタロウ君をひっぱった。
* * * * * * *
私が先にベッドへ入るとケンタロウ君がおずおずと入って来て、気遣うようにして背中あわせにベッドにぎゅうぎゅうに寝る。
体温が元々高いからか、背中越しでもケンタロウ君は温かかった。
本当にこの人は太陽のようだ。
眠ろうとするけれど全然意識は冴えていて、ケンタロウ君も同じだったのか話しかけてきた。
「ヨーコさん、メシ、美味かったです。食わしてくれてありがとうございました」
何だ、そんな事か。けれどきっと本題はそれじゃないだろうと思った。
「別にいいよ。人の為に作るのは好きだし」
本当の事だ。仕事で沢山の人に作るし、仕事仲間にも料理をふるまったりもするけれど、プライベートで男性に作るのは久しぶりで、簡単なものでも作っていて楽しかった。
みんなの為と、たった一人の為に作るものは、していることは同じでも中身は全然違う。
「私のほうこそ、あんな風に美味しそうに食べてくれて嬉しかった」
「トオルさんのこと、まだ好きですか」
唐突にくるな、と思った。
それだけは私が嘘をつけないこともちゃんと知っているなということも。
「……忘れた……なんて言えたら良いのにねって思うくらいには」
5年前のことが蘇る。
トオルと会えなくなって、ケンタロウ君が泣きながら私の前で土下座して謝ったことを。
私は放心状態で誰からの言葉も頭に入らないほど悲しくて、どうやって過ごしていたのか分からなかった頃だ。
ケンタロウ君がふいにやってきて、トオルのポストに就く事になったことを私に報告した。泣きながら土下座をして謝って、私は何も言えなかった。
本当に何も考えられなかった。
トオルと会えなくなって悲しいはずなのに、心のどこかでずっとそうしたかったみたいに、私は泣きながらケンタロウ君を抱きしめて、そのまま抱き合った。
それからしばらくだ。トオルから各地の風景の写真やポストカードが私の元に届くようになったのは。
それは私が彼とした約束が叶えはじめられた瞬間で、今も続いている。壁に飾ってある写真はどれもトオルが撮ったものだった。
ケンタロウ君はこちらに向いて、逞しい腕で私を後ろから抱きしめた。
優しくて温かくて力強くて、心がきゅうっとなる。
それと同時にガラスの破片で突き刺されたような痛みも伴うのに、私はそれを振りほどけない。
「ポストカード、まだ待ってるんですか」
「……それが約束だから」
「ヨーコさん、こっち向いてください」
「……いや」
「あの人が、見てるからですか」
「見てるわけないよ……だけど」
「それでもいいです」
「何もしないって思ったけど、やっぱりそんなのできません、俺」
ぎゅうっと腕の力がこもる。耳元が熱い。
その先どうなるかなんて私はもう知っている。
ケンタロウ君の鼓動がより近く、大きく聴こえてきた。きっと私も同じだろう。
私は、抱きしめる腕に指先を這わせ、そのまま彼の手に重ねた。
そして手を私の口元へと持っていき、手のひらに軽くキスをした。それを合図にするかのように私はくるりと彼のほうに向くと、考える間もなく熱い唇がおりてきた。
いつも穏やかで控えめなのに、この時の彼ばかりは全く違う顔を見せる。
とても熱くて、せっかちで、ときおり激しくて、泣きたくなるほど愛おしい。
いつも言えない何かを伝えるかのように激しく気持ちをぶつけてくる。
熱い吐息の合間に舌を絡めるたび、その熱に頭も蕩けていく。
本当はどこかで惹かれていた。トオルと同じくらいに。
……嘘。それ以上だ。
それをトオルは見抜いてたのかもしれない。
むしろそうなることを分かってて、私とケンタロウ君を引き合わせたとさえ。
だってトオルはハッキリと言ったから。
『今日会わせる仕事の後輩のケンタロウ、多分……ヨーコと合うと思う』
その時のトオルは珍しく言い淀んで、私は「トオルより好きになったらどうしよう」って茶化したら「うーん、どうかな。……ありえるかもなぁ」と冗談っぽく笑いながらも否定をしなかった。
きっとトオルにもどこかで予感があったのかもしれない。
それなのに、どうしてわざわざ仕事の後輩と自分の恋人を引き合わせるような事をしたんだろう。
そして、ケンタロウ君と初めて会った時に、頭の隅で感じてしまった。
“ 私、いつか彼とどうにかなるかもしれない ”って。
その頃に一瞬で好きになっていたのかもしれないけれど、自覚する前に予感のように思っていた。
けれど実際にそんなことになったのはトオルと会えなくなってからだった。
トオルと会えなくなって、ケンタロウ君とそういうコトになっても、私はポストカードを待ち続けていた。
トオルの名前で届く、私が行った事がない国から届く手紙は、何も書いていなくても私を支えてくれた。
カラッポな私の柱になってくれた。
だからまた料理の仕事をすることもできた。
それが届くことで、どこかの山で見たいものを見ているんだと心に折り合いをつけていた。
それくらい本当の私は弱かったから。
だから、約束したの。
頭でちらつく記憶と気持ちに、無意識に逃げようとしてしまう。けれど彼はそれを許さずに肩ごと抱えて引き寄せられる。
逃げようとする私にケンタロウ君が余裕なく掠れた声で囁く。
「まだです。……だめです。ヨーコさん、逃げないでください」
「だめ……ちがう。……だめ」
「ヨーコさん……すみません。でも―……止められません。すみません」
謝るのはきっと私のほうだ。
それなのに、ケンタロウ君のほうが謝りながらも優しく、激しく、私と気持ちを揺さぶる。
それが余計に気持ちが良いのと苦しいのとが混ざって、泣きたくもないのに涙が出てきた。
こぼれた雫を優しく舐めて、目尻にキスを落とされる。その優しさが余計に痛いのだ。
私も本当はそうしたいのに、できないからどうしたらいいのか分からない。
私は終わりがきそうなのを感じて彼の首にしがみつくと、彼も同じなのかよりいっそう強く抱きしめ返した。まるで一緒に墜ちてゆくようだ。
……どこかなんて……どこだっていい。
こんなに悲しいのに、この瞬間だけ幸せだなんてどうしようもない。
それとも、トオルは分かってたの?
人並みにあると思っていた罪悪感がそれほどないだなんて、分かりたくなかったよ。
そんな薄情な自分に嫌気がさしてたまらないの。
私は、愛される資格なんてない。誰にも。
たとえ愛されても、自分でそれを許すことができない……。
いい大人なのに、何をやってるんだろうか。
終わっても、指先はお互い強く繋がったままだった。
翌朝、目が覚めるとケンタロウ君は隣にはいなかった。
するとすぐにベッド下から健康そうな寝息が聴こえてきて、やっぱりこのベッドに2人は狭かったじゃない、と心の中で叱った。
そっとベッドから抜け出してシャワーを浴びる。
バスルームから出てもケンタロウ君は気持ちよさそうに寝ていたので朝ごはんを作ることにした。
ご飯をといで早炊きのスイッチを押し、昨日の夜から解凍しておいた塩鮭をグリルに入れる。
ほうれん草をさっと茹でるとそれを胡麻と砂糖と醤油で和えて小鉢に盛り付けた。玉子丼からの卵続きになっちゃうけれど玉子焼きも外せない。
砂糖多めの甘い卵焼きは少しきつね色になったところで楕円の平皿に乗せて一口大に切った。
お味噌汁は昨日の残りがあるし、あとは納豆を出せばいいかと思ったところでグリルからイイ匂いがしてきた。
「ヨーコさん、おはようございます」
ケンタロウ君が起きてきたのか、寝ぐせをつけて部屋から出てきた。まだ眠そうだ。
「シャワー借りていいですか」
「いいよ。出たら朝ごはんだから」
「ふぁあい」
あくび交じりの返事。何だか手のかかる弟のようで笑ってしまいそうだった。
ちょうどタイミング良く、炊飯器からご飯が炊けた事を知らせる音が鳴った。
「今日はゆっくりされるんですか」
「うーん、何だかんだでメニューの新作考えるかな」
「ははは。休みじゃないじゃないですか。って俺も何だかんだ仕事ですかね。荷ほどきも途中ですし」
「お互い仕事人間だね」
「まぁ、人生のほとんどが仕事ですしね」
テーブルを二人で囲んでの朝ごはん。
時間は意外にもまだ9時過ぎだった。外を見ると良い一日になりそうだ。
ケンタロウ君はさっきまで眠そうだったのに、シャワーを浴びたら復活したみたいだ。いつもの穏やかで律儀な彼に戻っていた。
ケンタロウ君の食べっぷりは昨夜と同じく、おかわりまでして2杯目を納豆ご飯にしていた。全て完食するとやはり食器洗いをし、きちんと拭いて食器棚にまで戻してくれた。
「じゃあ、お世話になりました」
「あはは。そんな言われるほどお世話してないって」
「いや、メシ2食もごちそうになりましたし」
玄関先。昨日の姿でケンタロウ君は立っていた。
いつも外までは見送らない。ここで別れる。恋人でもないのだから。
「今度海外行った時は、お土産送ります」
「私、食べ物ならうるさいよ」
「現地の人のおススメリサーチするんで!」
「楽しみにしてる。そしたらまたご馳走してあげるよ」
「……えーと、……それはどっちですか」
「……え?あ、あぁ」
自分で言ってから気がついた。このまま無言になっては気まずくてしょうがない。私は何でもないふりをする。
「美味しいものに決まってんでしょうが」
「……!……じゃあ、またご相伴に預からせていただきます」
こんなずるい会話。どこまでが本気なのか、どこまでなら許されるのか、許せるのか。
お互い手探りでもどかしいけれど、先へ進めないのだからしょうがない。
だから私は彼をハッキリと引き止めることができない。
それに料理を食べて欲しいのは本心だ。
……というか最初から私はそのつもりの発言だし、勝手に勘違いしてるのは彼だと人のせいにする。やっぱりどう考えても男のほうがスケベだ。
「じゃあ、俺行きます」
ケンタロウ君がドアノブに手をかける。
この離れて行く瞬間が、少しだけ寂しくもあり、ホッとする瞬間でもある。
ケンタロウ君といると時折苦しくなる。
嬉しく思うのに思っていけないと思うからだ。それを望まないようにしているからだ。
そうさせているのは私の中のわずかな罪悪感なんだと思いたい。
引き止めるためにこの手を伸ばせたらどんなにいいか。
けれど、そんなことをしたらそれこそ恋人ごっこだ。
すると、家を出る直前にして、ケンタロウ君は私のほうに向き直した。
忘れ物だろうかと思っていると、何か言いたげだった。
じっと注がれる視線は昨日の夜に見たものと同じで、胸が震えそうになる。
見つめ合った刹那、ケンタロウ君は息を吸い、言った。
「先輩がヨーコさんにした約束を守りますし、先輩との約束も守ります、俺は」
それは私じゃなくて、ケンタロウ君自身と……トオルに向けて言っているような気がした。
ケンタロウ君は緊張していたのか息をつくと、頭を下げて玄関から出て行った。
バタン、と空気を閉じ込めるかのようにドアが閉まる。
それと同時に昨夜のことを思い出した。
今までそんなこと、言わなかった。
一度だって言わなかったことを。
『代わりにはなれません。だから、代わりじゃなくて、俺を ――――……』
その先を、私は都合よく遮断した。思い出すのを、やめた。
だって思い出してしまえば、収拾つかないところでこぼれてしまうと思ったから。
そうしたら、約束も、それに支え続けられていた私も嘘になるような気がしたから。
どれだけ自分の気持ちにたくさん嘘をついても、トオルとの約束も、気持ちもまだ破りたくなんてないの。
* * * * * * *
何があっても、どんな事が起きても貴方の名前で送り続けて欲しい。
どこでもいい。どこかの山で生きてるって信じていたいの。
そんなのヨーコが寂しいだけだろ。
だから。……信じていたいの、たとえ嘘でも。
愛してるから、忘れたくなんてないの。それでもいいの。
仮に俺がもし死ぬようなことがあっても、俺は多分後悔しないよ。天職だと思ってるから。それがヨーコをいつか悲しませたとしても、ごめんしか言えない。
それでもいいよ。分かってる。……だから、写真でもポストカードでもいい。何でもいい。それがあれば、私は大丈夫。トオルのこと、絶対に忘れたくないの。
ヨーコ。
なに?
愛してるよ。俺も。
* * * * * * *
最後の会話が頭にリフレインする。
望んだのは他でもない私なのだ。
どんなに願っても私には手に入れる資格なんてないのだ。
それにトオルとした約束を後悔したことなんてない。
飾ってある写真の前に立った私は、トオルの名前で彼から送られてきた一番新しい写真を見た。
どこまでも広く青い空。
雲間から差す太陽で雲が銀色に光って、手前の白い斜面は小さな輝きをいくつも放って煌いている。遠くの山脈は太陽の強い光で陰になり、シルエットを作っている。
厳かで、神々しくて、どこか温かみがあって彼みたいな1枚だった。
涙で揺らめいて、雪の光がますます煌く。とても綺麗だった。
一粒、二粒と涙がこぼれてしまうのに、私はそれを止めることができなくて写真を濡らし続けた。
流れ続けるのは涙なのに、まるで心のようだと思った。
( 本当は、この人の熱にとかされてしまいたいの )