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短編小説「あなたへの旅」

※以前に趣味で執筆していた短編小説です。元々はお題にそった短編小説なので、原題は「旅」という作品になります。
※短編小説「約束」「片戀」のアンサーストーリーになっています。

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彼女のところへ帰れたら。


ずっとそう想っている。


馬鹿な男だと思われても、俺にはあの人しか見えない。


【 あなたへの旅 】


* * * * *

ああ、俺は死ぬんだな。確実にそう思う。

深い裂け目に落ちて体もあちこち痛かったけれどそれはもう薄れて、既に感覚のない部分もある。
落ちてどのくらい経っただろうか。
そんなに経過していないはずだけれど寒さのあまりに余計な事が考えれない。

迂闊なんて言葉は許されないけれど、迂闊としか言いようがなかった。慎重に進んでいたはずだけれど、疲れもあってアイゼンの装着が甘かったのか、それに僅かに気を取られた。

いつもならそんな事はなく、ルーティン通りに準備したはずなのに、どこかで小さく注意力がそれた。雪の亀裂を見落とすほどに頭が働いていなかった。
いや、正直仲間の声も一瞬聞いていなかったかもしれない。
どっちにしろ小雪崩が起きることの予測も遅れたし、気付いた時にはそのまま滑落し、瞬時に反応ができなかった。

気がついた時に手持ちの携帯食を一齧りするけれど、感覚が徐々に鈍いので手もそのうち動かなくなる。
商売道具の手だ。いや、足だって商売道具だ。足がダメなのだからもうどこにも行けないし、カメラシャッターすらも切れない。

落ちた地点ははるか上のはずだ。
それでも頭上からは轟々と吹雪く音がこだましていて裂け目からは氷の粒が降ってくる。もはやこれをクリスタルなんて美しい言葉で表現できないなんて、自分は相当に余裕がないなと思う。
どうせ死ぬのだから最期くらいはそんな風に思うべきなのか。

青く薄暗い辺りを見る。どうやら俺一人じゃあないみたいだ。
凍ったままのお仲間は一体どこから来てはどのくらい前に命が尽きたのだろうか。むしろいつの時代にここへ落ちたんだろうか。
そしてこいつらもきっと俺と同じ事を思ったに違いない。

……―― ああ、本当に俺は死ぬんだな。

山で死ぬことはどこかで覚悟していたけれど、実際に自分の番がくるとは。早すぎるにもほどがある。
今までだって目の前で岩山から落ちて行った奴や、雪崩に巻き込まれて戻ってこなかった奴もいて、死はそう遠くなかった。遠くないと思っていた。

それでもどこか他人事のように思っていたことをこの状況になって分かった。当事者になってみないと分からないもんだ。
即死がいいのか、それかこんな風に徐々に自分の体も意識も機能しなくなっていくことを感じながら眠りにつくのがいいのか。

「くそっ……」

思わず口にするということは、俺はまだ生きたい。

生きたい。生きたい。生きたい。

親やヨーコには思ったより早く、悲しませることになりそうだ。
ケンタロウにも、帰ったら長野の山に登ろうと話したばかりだ。色んな約束も、叶えられないことばかりだ。

……いや、叶えられ始める約束が1つだけある。
ケンタロウとの約束。それはヨーコとの約束でもある。

ごめんな、ヨーコ。本当にごめんな。

ケンタロウ、すまない。どうか、ヨーコのことを頼む。

俺は本当は気づいてるんだ。
いや、そうなってほしいとどこかで思いながら二人を引き合わせた。

こうなることを想定してじゃない。ヨーコともケンタロウとも接していて、二人はものすごく合うんじゃないかと本当に思ったんだ。
恋人としてのプライドがないのかと思われても、純粋に、この二人ならすごく良いパートナーになるしお互い好きになるだろうなと思ったんだ。

そうでもしないと意地っ張りなヨーコはいつまでたっても独りで耐え続けようとするし、ケンタロウだって俺に遠慮して素直にならないだろう。
だから俺はケンタロウに話した。
酷い奴だと思われても、それが一番いいんじゃないかと思ったんだ。

色々考えるうちに体の感覚はすっかり消えていた。体ごと棒のようだ。頭がだんだん重たくなってくる。
沈んでくような感覚になってきたけれど、まだもう少しだけ浮上させてくれないか。

何となく、ヨーコの作った飯を、もう一度だけでいいから食べたくなった。
冬山に登攀した時にヨーコが作った鶏鍋をケンタロウと俺で囲んだ時が昨日のようにも思える。
食べた時に嬉しそうな顔をするヨーコが、本当に好きだった。
寂しいのに強がって、そんなところも可愛かった。

俺よりも、もっと温かい奴が傍にいてくれる。
そいつはきっと俺よりもずっと大切にしてくれるし、想ってくれる。そういう奴だから、会わせたんだ。
幸せがあるなら、絶対に遠慮なんかしちゃいけない。俺は恨んだりなんかもしない。
差し伸べる手を、どうか彼女が素直に掴んでくれるように祈る。

ごめんな。ごめんな。

でも俺は悔いはないよ。生きたいけれど、やりたいことをやってきて結果がこれなら納得しているんだ。こんなエゴの強い奴でごめんな。

耳鳴りと吹き込んでくる吹雪の音が一緒になって頭がやたらうるさい。
もう本当に体ごと沈みそうだ。重い、おもい……暗い幕が降りてくるようだ。

瞼が開きそうにない。けれどさっきだってひと眠りして起きたんだ。きっとまた起きれる。
そしたらまた考えればいい。

* * * * * * *


気が付けば、空を見上げる癖がついていた。
晴れの日でも、雨の日でも、雲の多い日でも、物思いに耽りながらしばし眺めているのが好きだ。
それでいてここ数年は、空を見上げながら、二つの事を考える。

他にもたくさん考えることはあるけれど(たとえば山に登りたいとか、デスクワークは億劫だとか、麻婆茄子が食べたいだとか)それでもよく考えるのは二つの事……いや、二人の事だった。

俺の笑顔を「陽だまりみたいだな」と言ったトオルさんと、初めて会ったにも関わらず同じように「なんだかお日様のようね」と微笑んでくれたヨーコさん。
トオルさんは俺の会社の先輩だった。仕事は登山具メーカー「シャイロ」の専属カメラマンをしていた。
ヨーコさんはコックの仕事をしていて、トオルさんの大学時代の後輩であり、恋人だった。
……恋人だった、ではない。

恋人なのだ。

トオルさんが亡くなった今でも。


「ケンタロウ、ここにいたのか。隣いいか?」
「あ、ああ。アサヒか。いいよ」

社内の休憩室でぼんやりしていると、同僚のアサヒに声をかけられた。
シャイロの専属カメラマンの俺と、PR広報部にいるアサヒはよく仕事で一緒になることが多い。
アサヒは年齢は俺より少し上だけど中途採用だから入社は俺より遅い。年上の後輩になるがウマが合うのか友達みたいに話しやすくて、プライベートでもよく飲みに行ったりする仲だ。

高層ビルの良い位置に作られたコーヒースタンドは、窓が大きくて見晴らしが良いのでそこらへんのカフェよりもずっと居心地がよい。
新社屋になってからコーヒーブレイクがくつろげると社員の中でも評判のスポットだ。

背の高い小さな丸テーブルとそれに合わせたスツールもこじゃれていて他にもソファ席があり、たまにそこでミーティングなんかも行われたりしている。
3時のお茶には少し過ぎたこの時間。ちょうど人もまばらでちょっとした息抜きにはくつろぎやすかった。
アサヒは俺の向かいに腰を落ち着けると、疲れたように腕を伸ばした。
彼の肩からゴキゴキと鈍い音が聴こえて思わず笑ってしまう。

「PRの外回りお疲れさん」
「は~、ほんと過密スケジュールすぎて死ぬ。お前デスク作業?編集部行くの?」
「さっき編集部と打ち合わせ終わって、このあと何もないから帰宅命令もらったとこ。有休もたまってるし」
「マジかよ。代われよ。もうほんと俺んとこが今一番忙しくて死にそう」
「あははは。まぁ俺が命がけで撮った写真だから今度はアサヒたちが命がけで売り出してくれよ」
「分かってるって。今度の新商品、ポスターの評判すげぇ良くてプレスから展示会の時点で予約すげー入ってるってきたし」

アサヒは今度売り出す新商品の営業にここ数日忙しそうだった。
これから冬の登攀に向けた、防寒・防風性と気密性にすぐれたウェアのシリーズと、日本人の足型に合った雪山用登山靴が目玉商品となる。

それらはメディカル系の専門機関と職人と繊維会社との共同開発で進められた製品なので当然自信のあるシロモノだし、決して値段が安いわけではないのに発売前から予約を多くいただいている状態で、大変とは口で言っても嬉しい悲鳴だ。

自分はその宣材写真を撮る事が仕事だけれど、元々営業にいたので俺自身営業に駆り出される事も多い。
もちろんそのほうがダイレクトに宣材写真の反応を確認することができるので手ごたえも感じやすい。実際に商品を着用しての登攀撮影に同行したのでPRだって説得をもってできる。
今回も販売業者や取引先の上役の感触は良くて、ひとまず胸をなでおろしたところだ。

本当なら今日あたりアサヒを飲みに誘いたかったが、この分だとスケジュールを合わせる事は厳しいだろう。
俺は密かに諦めてアサヒに「じゃ、これ飲んだら早速帰宅命令に甘えるかな」とわざと言ったらアサヒは頬づえをガクッと外し「ハイハイ、とっとと帰れ帰れ。俺はまだ馬車馬のごとく働きますよ」と恨みがましそうにした。

「じゃ、残業確定がんばれよ」
「そっちも有意義に過ごせよな。あと、俺じゃなく、ヨーコさんたまには誘って飲み行けよ」
「……ははは。バレてたか」
「お前分かりやすいんだっつーの。どっちにしろ仕事落ち着いてから改めて飲み行こうや。それまでヨーコさんに甘えさせて貰えよ」
「いやぁ……甘えさせてくれるにはなかなか厳しいかな。じゃあまた明日」
「おう。お疲れ」

アサヒは俺の恋の行方をだいぶ気にかけてくれている。
いつもアサヒに話を聞いてもらっているぶん、こちらも恩返しが出来たら良いと思う部分はあるだけに余計こちらの申し訳なさは募るばかりだ。
アサヒと別れてからデスクへ行き、退社支度をしてみんなに挨拶してからオフィスを出た。


一人で飲むにはいささか早いし、むしろそれなら早く家に帰ってのんびりしようと考えたところで、スマホがメッセを受信した。
ディスプレイを見ると、同じ会社で働く先輩のヨシダさんからの飲みの誘いだった。
早めに退社した旨を伝えるとすぐに既読になり、「じゃあ打ち合わせ先直帰にしてすぐ行くわ」となんと調子の良い返事が返ってきた。

ヨシダさんはシャイロの出版部門で編集者として山岳雑誌を作っている。最近は山歩きのことや新商品についてのコラムを任されていて、内容もユーモアに富んで結構読者がついているらしい。
編集者は忙しいイメージを持っていたけどこの人を見るとどうもそんな風に思えないから不思議だ。かといって仕事ができないわけでもないからきっと仕事の緩急つけ方がうまいのだろう。

ヨシダさんから指定された駅に着き、時間まで駅ビルの本屋などで暇をつぶしていた時にふいに肩を叩かれた。
もう着いたのかと思って振り向くと、そこにいたのは男性ではなく小柄な女性だった。
しかし、見知った顔に思わず俺の口元がほころぶ。
何故ならここの駅はその人の職場の最寄り駅で、時間帯的に会えるのはあり得ないと分かっていながらも、もし偶然会えたならと淡い期待をほんの少しだけ抱いていたからだ。

俺と目が合うと、ヨーコさんはすこしいたずらっぽく笑った。
思わず胸の奥がきゅうっとするような不思議な感覚になる。ストレートに言えば、彼女を抱きしめたい衝動にかられるほど。
けれどそんな俺の気持ちに気付かない彼女はいつもの朗らかな様子で訊いてきた。

「やっぱりケンタロウくんだった。何、休み?まだ早いよね」
「ヨーコさんこそ、この時間はもう店なんじゃないですか」

ヨーコさんは今は女性客限定ダイニングバーでコックをしている。
ダイニングバーと言ってもカフェやスイーツも取り揃えているので、たしか店は3時くらいから開店だったような気がした。
夕方はちょうど学校帰りの大学生、6時以降だと仕事帰りの女性客で賑わうのだという。
なにせ女性バーテンダーがスタッフにいるので、夜は夜でガールズトークに店は盛況なのだそうだ。
だからヨーコさんこそこの時間に、それも駅構内の本屋にいるのは珍しかった。

「今日は第1火曜だから臨時休みなんだ。定休日の月曜との連休なんだけど、ちょっと仕込みしたくてさっき終えたばっか。ケンタロウくんこそ、ここの駅になんでいるの?打ち合わせ?」
「今日は早退して、実はこれからヨシダさんと飲むんです。ヨーコさんもどうですか」
「えー!ヨシダ先輩と飲むの?……うーん、どうしようかなぁ」
「どうしようって、ヨシダさんはヨーコさんの先輩だし勝手知ったるやのような仲でしょ」
「なんか、『山音』でコラム任されてから妙にくどくて。それに山に絶対誘われるしさぁ。もうハイキングくらいしかできないよ」

ちなみにヨシダさんはヨーコさんの大学時代の先輩でもある。
ヨーコさんは大学2年生くらいに中退して調理学校へ入りなおしたのだと出会った頃に聞いた。
そして彼女が大学を辞めてからも、大学時代の山岳メンバーとはずっと付き合いが続いている。

トオルさんの仕事の後輩ということで俺にもヨシダさんは声をかけてくれて、飲み会に一緒させてもらうことが何度かあった。
みんな仲が良く賑やかで、今では俺もメンバーと一緒にパーティを組んで山へ登りに行く事だってある。
もちろん彼女も誘われているようだけれど、仕事が忙しくて最近はすっかり山から足が遠のいているようだ。

「今度落ち着いたら、行けるメンバーで焼岳に行こうって話出てましたよ」
「うげー!行きたいけどムリムリ!もっと近くの低山からトレーニングしないとキツいって」
「でも今日絶対にヨシダさんから誘われますよ」
「で、絶対にコラムのネタにすんでしょ~?しょうがないなぁ、相変わらず」

そんな風にヨシダさんの話をしていたら、タイミングというのは面白い。
ヨーコさんが断る前にすでにヨシダさんのほうから
「あれっ!?ヨーコもいんじゃん!なになに、新しい店でも開拓するか!?」
と、話しかけながら登場してきたのだから笑ってしまった。

……いや、笑ったらヨーコさんに軽く睨まれたので咳払いで誤魔化したのだけれど。


結局、ヨシダさんに捕まるかたちでヨーコさんも一緒に飲む事になった。



いつも洋食を作っているので和食の居酒屋が良いというヨーコさんのリクエストに、ヨシダさんが東北地方の郷土料理を出す旨い居酒屋が近くにあると言ったのでそこにした。

店内に入るとその地方を代表する三味線音楽が流れ、香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。炉端焼きの良い匂いが店内中に立ちこめている。
3人とも席に腰を落ち着けると、とりあえず生3つを頼んだ。
お通しにはホタルイカの沖漬が出てきて、なんとも言えない塩味のおいしさに唸る。イカワタのまろみが香りとともに舌の奥いっぱいに広がり、ビールが運ばれてくるとすぐに乾杯するやいなや、3人とも求めていたように勢いよく飲んだ。

「っは~!沖漬にビールって少し勿体ない感じだけど美味しいね」
「ここさ、こないだ仕事の奴ときたんだけどお通しも日本酒も何でも旨かったからまた来たかったんだよ」
「ヨシダさんって毎週どこかしらで飲んでますよね」
「情報収集、情報収集♪ おかげで仕事もやる気に満ち溢れるってもんよ」
「ヨシダ先輩はどっちかってーと情報収集といいつつ飲んだくれですけどね」
「なにを!?」
「だって登る時もビールしか考えてないし、下山の時も温泉と馬刺しとビールをすでに謳ってるじゃないですか」
「しょうがないだろ!だって山の醍醐味ってそれじゃん!」
「まぁまぁ。ところでヨシダさん、今度の新商品のポスター見てくれました?」
「当然。ハードシェルのジャケットすっごくいいじゃん!俺もちょっと試着させてもらったけど良かったよ。冬んなったら早速会社から借りて登りに行こうかと思う。次号でも新商品の紹介でページ数けっこう取る予定になってるし、お前の撮った写真広告も裏表紙に出るから楽しみにしてろよ」
「それにしてもヨシダ先輩、憧れの会社に転職できてほんと良かったですね。先輩の山行日誌のコラム、たまに立ち読みで読んでますよ」
「立ち読みせずに買ってくれよヨーコ~。……まぁ『山音』は山岳雑誌の中で一番好きな雑誌だったし、シャイロのグッズも愛用してたからな。それに……その、あれだ」
「あれ?」
「なんですか?」

ヨシダさんにしては珍しく口ごもったので、俺とヨーコさんは肝心なところをお預けされた気分になって先を知りたがった。
そして実にじれったそうにして一言唸ると、ビールを一気に呷った。

「……っつーか、もう別にいいか!俺、逆に話題に出さないのもしんどいから言っちゃうけど、トオルがシャイロにいたから入れたようなもんだし!
トオルが社長に俺の事をさ、前から面白おかしく話してたみたいなんだよ。大学時代の話も含めて」
「……トオルが」

トオルさんの名前が出た瞬間、俺はすぐに隣のヨーコさんの反応が気になった。
一瞬こわばった気がしたけど……少し間をおいて、

「……あのトオルが?面白おかしく話してたの?……やっだ。想像つかないんだけど」
と、ふやけたように楽しげに笑った。

俺はそんな彼女の様子に正直、心の底でものすごく安心したのと同時に嫉妬を感じた。
勝負うんぬんの話ではないのに、負けている気持ちがべったりと張り付いているようだ。けれどそんな事を感じてもしょうがない。

「トオルさんが面白おかしく話すイメージないっすよね」と言ったら、すっかり笑いのツボに入ったらしいヨーコさんはウケ続けながらコクコクと頷いた。

「てゆーかコネじゃん、ヨシダ先輩。トオルが社長と仲良かったからよかったものの、じゃあ逆にトオルがいなかったらヨシダ先輩の転職は失敗してたかもしれないってことじゃないですか」
「だから俺は運がいいんだって!俺だってそれ後から知ったんだぜ?ほんとトオルは普段から無表情で何考えてるか分かんない癖に、ほんと人の心を知らずに掴んでんだから羨ましかったよ」
「まぁ、トオルさんってほんと寡黙な人でしたけど、説得力ある人でしたよね。俺、トオルさんの写真に憧れてシャイロ入ったようなもんですから。ここ入社してまず動いたのが、トオルさんとのコネを作ることでしたし」
「え、ケンタロウ君も?てっきり入社してからトオルのこと知ったんだと思ってた」
「だってシャイロといえば広告じゃないですか!……けど、第一印象キツかったぁ~」
「なんだよ、聞かせろよ」
「いやぁ……単独好きのトオルさんを説得してもらって、4人でパーティ組んで八方尾根登った時に、昼休憩で初めて交わした会話が『お前、お人よしそうなのはやめた方がいい』だったんですよ。まぁ、たまたま2人でいたときにですけど」
「そんな事言われたの?なんで」

ヨーコさんは初めて聞く話に隣で身を乗り出すようにして訊ねた。
思わずついて出してしまった昔話にほんの少し恥ずかしさがこみ上げてきて苦笑する。俺は記憶をゆるゆると紐解いた。

「お人よしのつもりじゃなかったんですけど、まぁ下っ端だったし結構ヘラヘラしてること多くて。
……俺、シャイロの広告がずっと好きで憧れてたし、トオルさんみたいな写真撮りたいって思ってたんです。トオルさんがプライベートで投稿してた山写真もすごく好きでしたし。それでずっと憧れた人と話せた嬉しさで、浮かれて写真見てもらったら……そう言われたんです。
今思えばずいぶん中途半端な感じの写真みて、トオルさんなりに感じる事があったんだと思います。……でもそっから、トオルさんから俺に話しかけてくれたり誘ってくれたりすることも多くなったんですよね。何でか分かんないですけど」

トオルさんは元々山の写真を撮るのが好きで登山を始めたと言っていた。
トオルさんの山行に最初は無理やりついて行き、何を話すでもなく写真を撮っていたけれど、だんだんと回数を重ねるうちにトオルさんがわずかながら打ち解けてきてくれるのが分かった。
それに俺は営業職だったので、広告や雑誌に載るかもしれない写真をいち早く見せてもらえることにも昂揚した。
……――そうしてトオルさんとサシ飲みできるようになった頃に、恋人として紹介されたのがヨーコさんだった。
それも「お前と気が合うと思う」と前置きをして。

彼女の第一印象は「小柄な人だな」と、「瞳が綺麗な人だな」だった。

ガラス玉のような鳶色の瞳に映った光が反射しキラキラして、ほんのコンマ数秒だろうけれど俺は釘づけになった。
つまり、一目会った瞬間に感じてしまった。
この人の事が、好きだ、と。

握手に差し出された彼女の手は、背丈と同じようにとても小さく、指先が少しひんやりしていた。
まっすぐと見つめてくる瞳に不意にドキドキしてしまった俺はそれを隠したくて笑顔を作った。
すると「ホントにトオルの言ったとおりだね。なんだかお日様みたいな笑顔ね」と言われたものだから、俺はびっくりしてトオルさんのほうを見た。
トオルさんは慈しむような目で彼女に「だろ?」と言う。もちろん彼女も同じように見つめ返し頷いた。

もちろん、彼女がとても魅力的にうつったことは確かだ。
だけどそれ以上に、二人一緒にいるこの光景のほうがもっと魅力的だった。

だって尊敬する人と、一目会っただけで素敵だと思う女性が一緒だなんて、こんな素敵な組み合わせはないと思うからだ。
俺はこの二人が、大好きになった。
大人なのにこんな感情は変な感じだけれど、すごく好きだった。ずっとこの3人の関係が長く続けばいいなと思っていたほどに。


仕事の事、山の事、トオルさんの事を散々話して、いぶりがっことクリームチーズのおつまみや山菜の天ぷらなんかを食べながら日本酒をちびちびと皆で飲んでいたとき、ヨシダさんがたまりかねたように突然切り出した。

「ところでお前らって、ぶっちゃけ付き合ってんの」
「「……え……」」
「……おいおい、二人してハモんなって。っつーか、山岳メンバーみんなそう思ってるけど」
「はぁ!?べつに、そんな……ねぇ!?」
「……そんなっていうか……俺は正直ヨーコさんのこと可愛いって思ってますけど」
「はぁああぁ!?それここで言う!?」
「あははははは!ケンタロウ、やっと正直になった感じでいいじゃん。言え言え、どんどん言え」
「ちょ、ヨシダ先輩も酔っぱらってそんなこと言わないで下さいよっ!」

ヨシダさんがニヤニヤしているのが分かる。
もちろんヨシダさんも山岳メンバーも、ヨーコさんとトオルさんが恋人同士だったことは在学中から知っているし、トオルさんが亡くなったことも知っている。
そしてどこで気付かれたかは分からないけれど、俺がずっとヨーコさんに懸想していることも。
慌てるヨーコさんにほんの少しだけ腹が立ったので、言わずにはいられなかった。

「ヨーコさん、俺まだ全然酔ってないですけど」
「だからって……こんなとこでさ、」
「じゃあどこならいいんですか。ヨーコさん、俺との時間作ってくれないじゃないですか」

さっきまで和やかだった空気もぶち壊しだな。そう思うくらいには静まり返ったと思う。もちろん店内は賑やかなままの三味線民謡のBGMが流れているので周りには気取られてはいないが。


「……お前ら、ちゃんと二人で話した方がいいと思うぞ」

ヨーコさんとお互い目が逸らせないでいると、ヨシダさんが間を割るように大きくため息をついた。

「もう俺達もずっとお前らにヤキモキしてんの疲れんだよ。
……それに、俺だからこれ言えるけど……トオルは絶対にお前らの事嫌いになったりなんかしないから。あいつはそういう奴だから」

ヨシダさんの言葉に、ヨーコさんは一瞬泣きそうな瞳になった気がした。けれど、それは本当に一瞬の事でその後は気まずそうに俯いた。

「だからヨーコも。……とにかくちゃんと二人で話せ。……ってーことで、ここは俺が持っとくから先に帰るわ」

ヨシダさんはそう言って、伝票を手にして「よっこらしょっと」と座席を立ち始めた。

「あ、ヨシダさん。俺も」と会計のことを言いかけたら「二人が丸く収まったら良い酒飲ませろ。ヨーコに振られたらまたそんときは慰めてやる。貸しだ貸し。もちろん仕事で返してくれても良いからな」と、断られてしまった。そうして颯爽と俺達の前からいなくなる。
テーブルには俺とヨーコさんの二人だけが残った。

ヨーコさんはさっきから目線をテーブルに伏せたままで何も言わない。
さて、どうするか。とりあえず、この空気を変えるために場所を変えようと思った。
すると「……いぶりがっこ」と、急に彼女が呟いたので、俺は少し拍子抜けな気持ちで見ると、
「ケンタロウくん、これ食べてないでしょ。美味しいよ」と何もないように続けた。

「……は、あ。たしかに、まだ食べてないっす」
「クリームチーズあったまってやっこすぎちゃうから食べなよ。そしたら、移動しよう」

何でもない風にしながらも、やはり俺と考えている事は同じだったようだ。

「そうですね。じゃあ、これ食べたら移動しますか」
「2件目……ワインバーとかにする?それとも近くに日本酒バーってのも出来たけど。賑やかなHUBのほうがいい?」
「俺の部屋、きませんか」
「え……」
「だっていつも、ヨーコさんのとこお邪魔してばっかだし、たまには。……って、そんな片づけてないし何もないですけど」

二人きりでわざわざ会う事なんてそんなにない。出張に行ってお土産を渡す時くらいで、それも毎回彼女の部屋に行くわけじゃない。
だからこそ、自分の部屋に招くのは内心すごく勇気を出したつもりだ。

口に放り込んだつまみは、なかなか頑固そうな音をたてた。燻製の煙くささとキツイ塩みに濃厚なクリームチーズがねっとりと絡んで喉を通過する。正直、少し緊張していたから味わうには余裕がなかった。
激しいリズムの三味線の響きも賑やかな笑い声も、どこか遠いもののように感じた。

「……じゃあ、たまにはお邪魔させてもらおうかな」

ヨーコさんはそう答えると、残ったお猪口に再び口をつけた。伏せた目が、ほんの少し寂しそうに見える。
自分で誘っておきながらホントに彼女が乗っかってくれるとは思わなかったので、断られたかと勝手に脳内変換していた俺は、「はい……え!?」と、間抜けな声を挙げてしまった。
そんな俺を見てヨーコさんが「なぁに、そのリアクション」とわざと眉をひそめて笑ったその時に、ようやくカマンベールチーズの後味が舌いっぱいに広がっているのを感じた。

* * * * * * *

あの日も、今日みたいな炉端焼きの居酒屋だった気がする。いや、焼き鳥屋だ。仕事が終わってトオルさんに誘われて二人で飲んでいた。

炭火に鶏肉の脂が落ちて香ばしい匂いと煙たさが一緒になって、その時はなぜかいつもよりやたら酒が美味しく感じた。
炭のにおいとタバコの煙。飲んでいる焼酎のツンとした香り。いろんなものが合わさったこの心地よさは大人になってよかったと思えるものだ。
他愛もない話を散々して気持ちよく酔っ払ったところに、ふと、トオルさんがいつになく真剣な声で言った。

「ケンタロウ。お前に頼みがある」
「何ですか、急に」
「もし俺に何かあったとしたら、ヨーコにしてやってほしいことがある」

さっきまでの話と何の脈絡もない、思ってもみなかった発言に俺は声をつまらせた。冗談なんか言う人じゃないのは分かっていたけれど、俺は冗談だと信じたくてトオルさんを見返す。
アルコールが入っているからわずかに瞳は潤んでいるけれど、酔っ払ったそれではない。表情は真剣そのものだった。
何だかいつもの様子と違うのに気付いた俺は言葉をつげないでいると、トオルさんは静かに続けた。

「国内でも、海外でも……とにかく良いと思った景色があったら写真に撮ってヨーコに贈ってほしい。旅先のポストカードでもいい」
「何言ってるんですか。トオルさん……そんなわけないでしょう」
「はは。俺だってそう思ってるしそのつもりだ。……けど、絶対はない。何事も」
「……変な冗談やめてくださいよ」
「俺が冗談言う玉に見えるか?」
「……」
「なぁ。頼むよ。ケンタロウ。お前に頼みたいんだ」
「……ヨーコさんに写真送るって……」
「お前が良いと思うのでいいんだ。……ヨーコに贈ってほしい。ただし、差出人は俺の名前で出してほしいんだ」
「は?……それって……」
「ヨーコとの約束なんだ。……何があっても、どこにいても、俺が見たものを送るって」
「けどトオルさんが言ってんのは、トオルさんが見れなくなった状況が“おきてから”の事でしょう!そんなこと……」
「だから、お前にしか頼めないんだ」

突然の無茶な願いに、俺は唇を噛んだ。心臓が嫌な音を立てながら頭の中で不安がじんわりと広がる。

「わけわかんないっすよ。そんなのできるわけないじゃないですか。っていうか、死ぬようなとこには行くわけじゃないですよね」
「仮にもしそうなったらの話だよ。……頼む。ケンタロウ」
「そんなのっ……ヨーコさんが辛くなるだけじゃないですか」
「……あいつが辛くなったら、お前はヨーコの傍にいるだろう?」
「え……」
「お前だから、いいんだ。……お前だから頼んでるんだ」

年季の入った木のカウンターテーブルに焼酎のコップを置くと、こもった音を立てた。水のように透明な液体はただ静かに揺れていた。
トオルさんの射るような視線に、観念するしかなかった。それにそんな目をされたら、武器も何も放り投げて両手をあげるほかない。

俺がはじめから彼女の事が好きだということに、気付いているから出来る瞳だった。

何て人だと思った。初めて尊敬するこの人を恨んだ。

だって、あんまりじゃないか。
人の心を分かっていて彼女に会わせて、おまけに自分がいなくなった後の事を頼んでる。正気の沙汰じゃない。
そもそもどうしていなくなる人の名前で手紙を出し続けなければいけないんだ。
これは「俺はいなくなるかもしれない」というメッセージなことは確実な気がした。
だからといって彼女との約束だろうがなんだろうが、そんなことは間違っているし、俺を巻き込む事じゃない。

……それなのに、巻き込まれても良い。

口では否定しながらも心のどこかで、むしろ巻き込まれたがっている俺がいるのを、トオルさんは見逃さなかった。
どんな形でも彼女と接せられれば、いつか俺を見てくれるんじゃないかという期待なんか虚しいだけなのに。
頭では善良な自分が必死に否定していた。もちろんこんなことは断るつもりだった。それなのに心はあっという間に引っ張られて、考えとは裏腹な言葉を既に口にしていた。

「……俺でよければ、分かりました」 と。


その3週間後、トオルさんは消えた。

個人的に依頼された登山家の撮影でトオルさんが海外の山頂付近で、小雪崩により滑落しクレバスに落ちたまま見つからないと連絡があった。


当然、もう二度と連絡がつくことはなかった。


* * * * * * *


駅から出ているバスに乗って自宅へと向かった。
なんて事のない単身者向けのマンション。途中でコンビニに寄ったけれど、何となく酒もつまみもお互い買わなかった。酒を交えてするような話じゃないという気がしたからだ。

部屋の前に着き、ヨーコさんに少しだけ玄関外で待ってもらう事にした。
俺は部屋に入るなり電気をつけ、部屋の散らかっているのが目立つところを簡単に片づけた。
キッチンを見ると、シンクには空になったカップ麺が置いたままで、慌てて中をゆすいでゴミ箱へ入れた。

部屋は全体的に白と黒と飴色のウッド調のもので無難に統一していた。壁には自分の撮った写真と、トオルさんから貰った写真。それと初めて自分が撮った写真が使われた商品ポスターを飾っていた。

ひと通り片付けると玄関を開けてヨーコさんを招き入れた。
ヨーコさんは「おじゃまします」と言うと、どこか遠慮がちにしてスリッパへ足を入れた。余ったかかと部分が何となく目に入り、俺なんかよりもずっと小さい足だと思った。

「テキトーに座っててください。コーヒーでも大丈夫ですか」
「あ、うん。ありがとう」

多分、彼女が俺の部屋に入るのはものすごく久しぶりだと思う。トオルさんが生きてた頃に1回か2回くらいきただろうか。
遠い記憶なのもあって、まるで初めて入った風にきょろきょろと俺の部屋を見渡していた。ひととおり写真を見ると、部屋の真ん中に敷いたやわらかな白色のラグにちょこんと座った。
黒いアイアンが足になったウッドテーブルにコーヒーカップを置くと、彼女は両手でそれを包んで「ありがとう」と愛想笑いの頬笑みで見上げたけれど口はつけなかった。

「ヨーコさん、さっきの話の続き、いいですか」

ここで余計な話を前置きにすると、二人してずっと誤魔化して触れない気がした。
ヨーコさんは小さな声で頷き、俺は自分のカップをテーブルに置くも、彼女の正面には座らず、すぐそばにパソコン机の椅子に腰かけた。
この微妙な空気にどう切り出そうかと少し迷っていると彼女の方から先に口を開いた。

「……はは。なんか、みんなが変に心配してたみたいだね」

自嘲気味なセリフに俺は「多分俺がダダ洩れだっただけです」と返すとヨーコさんはしばらく黙ってから「……もっといるじゃない。他に」とぽつりと言った。
それは、一番言われたくない言葉だった。

「もっといるかもしれない。たしかに。……でも、それでも俺はあなたが良かったんです」

俺の言葉に、ヨーコさんはびくりと肩を震わせる。表情はどこか戸惑っているようで、彼女の迷いに自分の心がひりつくのが分かった。
そしてその表情は、俺がヨーコさんに頭を下げたあの日を思い出させた。



トオルさんが消息を絶ってから、色々な事が目まぐるしく変化していった。

頂上前で登攀を中止にし戻ってきた登山家が謝罪に来て、ベースキャンプに残っていたフィルムやデータを手渡された。

消えたところの場所が場所なだけに引き上げは不可能に近く、莫大な費用もかかるのでトオルさんの両親は諦めると言った。そもそも初めから登山の趣味には反対していたようだった。
遠く離れた山間部の実家でごく内輪での形だけの葬儀と連絡がきて、それでも俺と社長と、他の社員も行ける人間だけ行った。

葬儀場につくと、親族席にヨーコさんが座っていた。
いや、ご家族のご厚意により『座らせられていた』というほうが正しいのかもしれない。そのくらい何となく居心地が悪そうに思えた。

ヨーコさんは、見た事のない表情だった。
空を見つめるようにしながら、しかしその瞳には何にも映していなさそうで、多分参列している見知った顔や、俺にもほとんど気付いていなかったと思う。
悲しむでもなく、怒るでもなく、困るでもなく……つまり、何の表情のない空っぽな顔をしていた。それがひどく気味が悪いと感じた。
それと同時に、心が無になった時の人間の表情はこういうものなんだと漠然と思って、不謹慎だとは思いつつも彼女から目が離せないでいた。

しっかりした彼女でもトオルさんの死はじわじわと彼女の心を蝕んでいたのか、葬儀の前後からヨーコさんは仕事に行けなくなった。

当時はホテルのスーシェフで、女性シェフとして将来を期待されていただけにホテル側も事情を汲んで休職扱いにしたようだが、彼女の座を狙う同僚はごまんといるのだから戻れる場所なんかないのは誰にだって予想がついた。
トオルさんの死によってそのキャリアは白紙になったも同然だった。

しばらくして、退職したようだとヨシダさんから聞いたのと同じ頃、突然の異動辞令が俺にやってきた。

トオルさんのいた、社の専属カメラマンのポストだった。

どう反応していいか分からない俺に、トオルさんの後押しも予めあった事と、それを踏まえていずれここへ配属するつもりだったと言う事を社長が自ら説明しにきてくれた。

このタイミングで告げるべきかは分からなかったけれど、俺はそれを彼女に告げることにした。
写真を撮っている事も当然知ってくれていたし、おまけにトオルさんの後任だからこそ会わずにはいられないと思った。
ヨシダさんにヨーコさんの家を教えてもらうと、玄関に出てきた彼女は少し痩せたように見えた。
中に通されると綺麗好きのヨーコさんらしく部屋は片付いていた。逆に整然とし過ぎて、俺は急に不安になったぐらいだ。

後任の件を言うと、戸惑うように瞳が揺れた。

俺がポストにつくことでトオルさんがもういないという現実に、彼女が泣いたり取り乱したりするかと一瞬思った。けれど、ヨーコさんは声を失ったまま立ちすくんだままだった。
そして小さな声で「……そう」とだけ言った。まるで自分に言い聞かせるみたいに。

感情が止まったままの彼女を前に、俺は気がつけば土下座していた。

どうしてそんな事をしたかは分からない。トオルさんがいなくなったからゆえに拓けた自分のキャリアのへの後ろめたかもしれない。
ただ、彼女に顔向けができない、と思ったのは確かだった。
それもトオルさんがいなくなる前に俺は会っていたのに、強く引き止めることも断ることもしなかった。罪悪感となって一気に胸に押し寄せた。
感情が止まった人を前に、自分のほうが耐えられなくなったのは事実だ。

なんで人は、両方を手に入れる事ができないのだろう。
多くを望んだわけじゃないのに、手にする為に手の内にあるどれかを失わなければいけないなんて、あんまりすぎる。

俺はこの仕事が欲しかった。憧れだった。だから追い続けた。
けれど、その為にあの人の死が用意されてたなんて思わなかった。望んでなかった。

何も言えずに頭を下げたままでいると、細指がかすかな力で、肩に、次に背中に触れた。
そしてそのまま包み込むようにして俺を抱きしめた。
まさかそうされるとは思わなかった俺は顔を上げると、同じように涙にぬれた顔がすぐ目の前にあった。
自分の薄情さに、呆れるほかなかった。

……どうしようもなく、彼女のことが好きだ。

確信してしまった。

理性が外れるっていうのは一瞬で、何を考える間もなく彼女の濡れた頬を両手で包み、唇をおとしていた。

それからしばらくして、俺はトオルさんとの約束を守り始めた。
ヨーコさんも仕事を再び始めた。親戚が女性客専門のダイニングバーを開きたいとのことで、彼女はそこで働く事になった。

トオルさんの名前で彼女のもとにポストカードが届き、俺が出張土産を持って彼女へ会いに行く。
忙しくて会えない事もあるけれど、会えたら飲みに行ったり、時間がある時は何となく一緒に夜を過ごす。
そういうことが何回かあり今日まで至るも、お互い本音は晒さなかった。

彼女と終わりたくないから、俺は言えなかった。
言葉にする事で、本当に彼女に拒絶されるのが怖かった。
自分の「本当はそうなりたい」という未来からずっと逃げていたのは、俺だったんだ。

* * * * * * *

トオルさんがいた頃の記憶と、いなくなってからの記憶が時系列関係なく、めまぐるしくフィードバックされる。
もしかしたらどの場面だって俺の思いこみやねつ造で現実のものとは違うかもしれない、とさえ思う。
それなのに、どれもヨーコさんの表情だけは嘘がなく、すべて好きだと思うなんて自分はバカだ。

「……私がいい、だなんて嬉しいけど勿体ないよ。っていうか、いつまでも昔の人引きずってるようなのなんかやめたほうがいいのに」
「そんなこと言ったら俺の方が引きずってますよ。トオルさんは、今でも憧れの人ですから。だから誰だってあの人の代わりなんかなれないし、俺もなれない。なるつもりもないです」

すると俺の一言が癇に障ったのか、ヨーコさんは初めてヒステリックな声をあげた。

「だから私はトオルの代わりなんか求めてない!」
「でもポストカード、信じてるじゃないですか!?」
「あれはっ……たしかに、トオルじゃない。わかってる……全部、ケンタロウ君の優しさなのはずっと知ってるよ」

優しさ、というワードに何故だか無性に腹が立って、それに対して今度は自分が反論した。

「優しさ?そんなわけないじゃないですか」
「はぁ?どういうことよ」
「優しい奴だったらあんなの贈るわけないじゃないですか。……トオルさんとの約束を、守ってるだけにすぎないだけです」

彼女を好きな気持ちと、こんなことをやめにしていっそ傷つけてやりたくなる気持ちがぐちゃぐちゃになって、どんどん嫌な言葉が口から溢れてくる。二人の間の空気がやけにひりつく。
一瞬おりた静寂のあと、彼女がぽつりと言った。

「……知ってるよ。それくらい。だって、私がそう頼んだんだもん。トオルに」
「え……」
「どこにいても、何してても、貴方が見たいものを送ってほしいって」

“だってあなた、山の神様に好かれていそうだから。だからきっと、見たいものが見れるよ。”

「だけど!……こんな風になるなんて、思わなかった。こうなるんだったら、ケンタロウ君を傷つけることになるなら言わなきゃよかった。トオルに何にも、言わなきゃよかった!!」

叫ぶようにしたヨーコさんの瞳がら涙がどんどん溢れて、こぼれた。
涙でぐしゅぐしゅになりながらも、まだどこかに彼女の本音が隠されているようにも思えて、それを見たところで俺の腹は収まらなかった。椅子から立ち上がり、自分でも驚くほどの冷たい口調で言い放つ。

「それで?トオルさんにも俺にも、あんたは結局本音言わないじゃないですか」

何も言い返さないということは、やはり図星なのだ。それが分かった俺は言葉が止められなかった。

「俺はっ……!……トオルさんがいなくなってから、卑怯かもしれないけれど貴方に心を見せてきました。けど貴方は絶対に見せてくれなかった。
ホントは会った時からずっと同じ気持ちを持ってる癖に、見ないふりばっかりして!俺がいらなきゃ、じゃあ今ここでハッキリ言って下さいよ!」

言い終わった俺の言葉にヨーコさんは何か言いたそうにしたけど、結局言葉をつまらせたままぐっと一の字に結んだ。
相変わらずの彼女の頑固さに、俺は自嘲的な笑いが思わず出た。

「……ほら、やっぱ卑怯だ。……“いらない”って喉まで出かけてるし、そう言いたいんでしょ、ほんとは。
……でもヨーコさんはそれを言わない。言えない。……何でだか当ててあげましょうか。
……俺の事が好きとかじゃなくて、独りにされたくないからだよ」

「違う!!」

たまらずに立ち上った彼女は、俺に詰め寄るようにして小さな拳で俺の胸を叩いた。
意外と強いその力に驚いたけれど、俺は踏みとどまりそのまま彼女に胸を叩かせた。

「……じゃあ、トオルの気持ちはどうなるの……?」
「え……?」

思ってもみない言葉に、俺は彼女の顔を見た。
涙顔で見上げたヨーコさんは、初めて見る感情に溢れた顔だった。
さっきまで叩いていた拳は胸のとこで止まり、力なく握ったままだ。まるで頼りない小さな女の子が泣いているみたいに。

「私が、ケンタロウ君を好きだと思ってても、それを言ったら、トオルの気持ちはどうなるの?トオルといた私の本当の気持ちも嘘になるみたいじゃない……そんなの差し置いて、貴方が好きだって言えるわけない!

……だからっ……だから、いっそ私なんかほっとけばよかったのに!なんで優しくしてくるの?甘えたくなっちゃうに決まってるじゃん!私はそこまで強くなんかないっ……!」

言い終わり、ドン、とひとつ胸を叩かれる。ちっとも痛くなく、かえってそれが辛かった。

「でも、それで素直になれたらいいのに、それもできない。……だって、こんな重い自分じゃケンタロウ君を幸せにしてあげることなんてできるわけない……それなのに、貴方来るんだもん。
……好きなのに冷たい事なんか、どうしたって言えるわけないじゃない。……でも、ケンタロウ君がもう辛いなら、いい。
傷つけるんなら、全部いらない。……だから、」

「全っ然分かってないな!」

俺はヨーコさんの肩を掴んで向き直らせる。彼女はきょとんとしながら俺を見つめた。頬に雫がぽろりと伝っている。

「トオルさんが俺に託したのは、ヨーコさんに手を差し伸べやすくする為じゃないですかっ!どう考えてもっ!
だって、最初から俺がヨーコさんを好きって分かってて頼んできたのがトオルさんなんですよ!
トオルさんが……たとえどんな形であれ、ヨーコさんが俺を頼ってくれるようにしたんじゃないですか。……だから、トオルさんの気持ちなんて、初めっから……」

こうなる事を、きっと知ってたんだ。

気持ちを言わない俺達の事を初めから知ってたんだ。もちろんトオルさんは自分が死ぬつもりなんて思ってもない。そういう人じゃない。

だけど、“もしもの時”として、俺にああ言ったんだとしたら――……。


ずっと前の夜に、耐えきれずに彼女に一度だけ言った事がある。その時は最後の告白のつもりだった。
二度とこんな事、言わないと思ったほどだ。

けれど今、もう一度伝えるべきだと思い、決めた。
彼女の肩に置いた手に、ほんの少し力がこもる。服越しに彼女の体の熱が伝わり、生きている温度を感じた。


「トオルさんの代わりにはなれません。だから代わりじゃなくて、俺を――……見てください」

言い終わると、彼女の表情が歪んだ。
けれどそれは彼女が泣いたからじゃなくて……俺が泣いていたからだった。

ほとほととこぼれ落ちる涙に、一瞬誰のものか分からなかった。
それが自分の涙だと自覚した瞬間、漏れた息と一緒に心の底に沈めていた感情が一気に浮上して抑える事ができなくなった。
瞬きをすると涙の粒が一緒に落ち、床とラグの境に染みていったのが見えた。

「トオルさんにずっと憧れてます。好きです。尊敬していたし、いなくなってほしくなかった。ずっと俺の前を歩いていてほしかった。写真を見続けたかった……あなたと幸せになってほしかった。
トオルさんの前で幸せそうにしているあなたを見ていたかった」

涙が止まらない俺の頬を、ヨーコさんは何も言わずに両手で優しくぬぐう。
それでも止まらない雫は彼女の手のひらから腕にそのまま伝い落ちた。

「でも、半分、嘘ついてました。……俺、ずっと嫉妬してたんです。
トオルさんに。あなたの傍にいられたらいいのにと思ってたのは……いたいのは……俺のほうだったんです。
……俺がそんなこと思ってたからっ……そうしたら、あの事故で……っ……」
「違うよ、それは違う」

咄嗟のヨーコさんの否定に、俺は首を横に振った。

「違わなくない!……だから……ヨーコさん、……俺をっ……許してください」

最後はほとんど嗚咽になっていた。

許して欲しい、という言葉と、愛して欲しいという想いは同じ叫びだった。
あなたのことが、好きなんです。どうしようもないくらいに。

けれど、トオルさんがいなくなって少しでも手に入るんじゃないかと思ってしまった自分が、卑劣で、弱くて……こんなことになるなら最初からトオルさんに宣言するべきだった。
初めて会ったその夜に、正々堂々トオルさんにメールでも何でも伝えるべきだった。

こんなかたちでしか告白ができない俺を、トオルさんにもヨーコさんにも……許してほしかった。


ここで強い風でも吹いたらそのまま持っていかれるんじゃないかと思うくらいに、自分の立ち位置は頼りないものだった。
今まであんなに失くしたくないと思っていたのに、今では失くしても仕方ないと思う。そのくらいに酷いことを彼女に言った事は承知している。
俺は、途方に暮れていた。

それでも、俺をここに留まらせてくれようとしたのは、ヨーコさんだった。
ヨーコさんは俺の背中に腕を回して、しっかりと俺を抱きしめてくれていた。
まるで初めて口づけをしたあの時のように。

温もりに気がついて涙が先ほどより落ち着いた俺に、ヨーコさんは子どもに言い聞かせるみたいにゆっくり、落ち着き払った声で言った。

「……トオルは、怒ってないよ。ケンタロウ君の事。
たぶん、何があってもあの人はケンタロウ君に怒らないと思う。……怒られるのは……私のほうだよ」
「ヨーコ、さん?」

見下ろすと、ヨーコさんは俺の胸にうずめていた顔をそっと上げ、同じ泣き顔のまま優しく微笑んだ。

「俺の大事な後輩、泣かすなって」

親指で優しく俺の頬や目尻を拭う。
さっきまでは彼女のが頼りなく見えていたのにすっかり逆転してしまったと思い、かっこつかない自分に思わず小さく笑った。

「トオルさんの、大事な後輩なんですから、俺の事大事にしてください」
「代わりなんて、思った事、ないよ。ケンタロウ君は、はじめからケンタロウ君だった」

まさかの言葉に返す言葉が見つからなかった。ヨーコさんは続けた。

「……どこまでもトオルに見透かされてたなんて、やんなっちゃうね。……もう、いないのに」

もう、いないのに。
寂しそうな響きだったけれど、まるで自分自身に言い聞かせているようだと思った。
もう、いないんだ、と。

俺も同じようにしてヨーコさんの頬に触れる。涙はまだ乾いておらず、濡れたあとを感じた。

どうして素直になれなかったのか。
許さないはずがないトオルさんを、二人してどうして怯えていたのか分からない。

二人して泣きに泣いて言うだけ言ったら、なぜ本当の気持ちを打ち明けない事に拘っていたのか、ほんの少し前のことなのに自分たちの事が分からなかった。
もしかしたら案外、ヨシダさんの言った「トオルは絶対に嫌いになったりなんかしない」という言葉が、“思い込み”の呪いをとく言葉だったんだろうか。

なんだか、ずっと長い旅をしてきたような気分だ。
じゃあずっと長い旅をしてきたようなら、もうここが終着点と思っていいだろうか。
失っても仕方がないと諦めていた。けれど、彼女はここにいてくれた。それがもう答えなんだ。

俺は何も言わず、もう一度彼女を抱きしめる。
するとしばらくして、背に彼女の手のひらを感じた。
その温度にジンと再び目頭が熱くなりながらも、今度はそれを悟られないようによりいっそう強く抱きしめた。

唯一諦められなかった愛しさを、もう逃がしたくないと思いながら。


* * * * * * *

「ヨーコさん、これでいいと思う?」

俺は礼服の胸ポケットに入れたチーフをヨーコさんに確認してもらおうと、ドレッサー前でメイクを仕上げる彼女に訊いた。
ヨーコさんはちらりと俺の姿を確認すると少し呆れたように笑った。

「いいんじゃないかな。似合ってる、似合ってる」
「ほんとですか?」
「第一ケンタロウくんは人に聞いたって自分の中で初めから決めてるタイプじゃない」
「だって今日は俺スピーチすんですよ!一応カッコイイいお墨付きほしいです」
「はいはい、カッコイイ、カッコイイ」
「ヨーコさんテキトーすぎ。って、まぁ最初からこのチーフって決めてましたけど」

俺の答えにヨーコさんは「ほらね」と分かったように微笑んで仕上げのリップを唇に引いた。
鮮やかな薔薇が咲いたような色に、妙にドキッとする。

いつもとは少し違うメイクに、他の男性の目が少し心配になるだなんて言ったら呆れられるに違いないと思って、言うのをやめた。
彼女はそんな俺に気付かず、必要最低限のメイクグッズを小さなポーチに入れると、それを結婚式用のこれまた小さなバッグにしまった。

電車の時刻と時計を確認すると、もうそろそろ家を出る時間だった。
改めてお互い身だしなみやご祝儀などの持ち物を確認し玄関へと向かう。 

「……にしても、ヨシダ先輩もほんっと憎いわぁ。計ったように私たちの記念日に結婚式挙げなくたっていいのに」

「あははは。けど授かり婚ってとこがヨシダさんらしいっすよね」
「ほんとほんと。マタニティドレス選びも私んとこに写メで相談されたんだから。どれが似合うか女子目線で教えてくれって。ネタバレもいいとこよ」
「でもホームパーティーでもすごく良い人でしたね」
「ヨシダ先輩にはお嫁さんみたいなしっかり者がぴったりよ。山登りにも理解があるしね」

「そういえば記念日の埋め合わせの来週は、天気も良いみたいだよ」
「ほんと?本格的に寒くなる前に登りたかったから快晴なんてご褒美みたいね」
「あ!……今日、あれも一緒に持ってっちゃ駄目かな?」
「あれ?」
「ちょっと待ってて」

俺は慌てて引き返し、テレビ台キャビネットに飾ってある色々な写真のひとつから、小さな写真立てに入ったそれを取り出した。
俺が持ってきたそれを見て、玄関で待っていた彼女は微笑んだ。

「……そうだね、うん。きっと、祝いたがってると思うし、トオルも」
「それにヨシダさんの転職の恩人ですしね」
「あはは。そうだ。トオルに怒られちゃうわ」

あれから、トオルさんの名前で送られてくる写真は無い。
二人の部屋には彼の写真だけでなく、俺の写真も飾られるようになって、二人の写真も増えた。

そして今日は俺と彼女が付き合って、ようやく1年だ。

本当なら今日、記念日のお祝いをしたいところだけど、結婚式の予定が入ったのでゆっくり二人で過ごす事は叶わなくなってしまった。

だから翌週の平日、ヨーコさんの定休日に合わせて俺も有休をとることにした。
なんたってうちの社長は理解が深いので、登山休暇なんてものがあるんだ。
今回はそれを利用させてもらうことにした。
おまけにさっきテレビで見た天気予報ではその日はちょうど快晴になっていたからラッキーだ。

本当はトオルさんの墓参りの話も上がったけれど、何となくトオルさんはそこにはいない気がするというのもあって、せめて3人がよく一緒に登った山へ行こうということになった。

それにヨーコさんがトオルさんの実家の方へ顔を出すのは、何となく気が進まなさそうに感じたので、きっとトオルさんの葬儀の時に何かがあったんだろうなと察したのもあった。


トオルさんの遺体はまだあがっていない。
もしかしなくても、この先も手元にくることはないと思う。
だから、二人で山へ行くのだ。

前よりも彼女はよく笑うようになった。仕事も相変わらず楽しそうだ。

店の方も女性の方が意外とジビエ料理が好きらしく、新しいレシピのおこぼれをしょっちゅう預かっている俺は毎回舌鼓を打たせてもらっている。
まぁ、何でもかんでも俺は美味しいと言ってしまうので「試食の張り合いがない」と嘆かれる事もしばしばなんだけど。
寂しい表情はふとした時にするけれど、それはきっと俺も同じだろう。

マンションから出ると、秋晴れが広がっていた。
彼女と並んで歩きだした時に指先がお互い触れると、歩み寄るように彼女が指先を絡める。
少しひんやりした細い指先が愛しくて、俺はそっと絡めていたそれを恋人繋ぎにして握る。
彼女もそれにこたえてくれて、何だかやけに嬉しくなる。

「電車も遅延してないみたいだしスムーズにつきそうだね」
「あ~~。緊張してきた。緊張すると噛みそうになるから気をつけよ」
「そしたらアサヒ君がエール送ってくれるんじゃない?」
「ヨーコさんとアサヒ、二人揃うと最強ってくらい俺のことあおってくるんだもん。気、合いすぎ。緊張するってば」
「なんかアサヒ君とは妙に気が合うんだよね~。きっとアサヒ君も私に負けないくらいにケンタロウ君のこと大事に思ってくれてるからじゃない?」
「まぁ、アサヒすげぇ良い奴だから否定しないけど」
「私もアサヒ君も応援してるし、大丈夫!今日のケンタロウ君は噛まずにスピーチ立派に言えるよ」

頼もしい彼女の一言が俺よりもずっと男前すぎるなんて情けないとこだけど、今日は確かに失敗するわけにはいかない。
なぜならこの緊張の一日を乗り越えられれば、次に待っているもっと緊張しそうな事にも挑んで行けそうな気がするからだ。

彼女と肩を並べて歩く中、どこまでも高く広い青空に、俺は一つの事を想う。

彼女に告げるつもりの “俺と結婚してください” という言葉を――……。



( ずっと貴女のところへ帰りたいと思っていた  )