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意外な関係! 「ボンドのコニシ」とウイスキー

■日本のウイスキーのはじまり

日本における本格的なウイスキーづくりは、サントリー創業者(当社の社名は寿屋)鳥井信治郎が、竹鶴政孝(のちにニッカウヰスキーを創業)を山崎工場長に起用し、明治時代の「早く欧米に追いつくんだ!」という気概のもと、産業としてはじまりました。


1923年にこの二人がウイスキーづくりを発表した時、鳥井さんは赤玉ポートワインで勢いに乗る「洋酒の寿屋」の大将でした。

ところで、大阪商人である鳥井さんは「社長」と呼ばれることを嫌いました。
この当時ようやく世間に知られた会社となり、組織上も株式会社になったわけですが、実態はまだ個人商店であるという気持ちが本人にはありました。
自分が「社長、社長」と呼ばれていい気になっていたら、お得意さんが気を悪くするかも知れない、という思いがあったようで、1921年に社内に以下のようなお触れを出します。

「対外対内を問わず主人又は大将と呼ぶことに定められたく候」
サントリー百年誌 P72  サントリー株式会社発行

簡単にいうと
「社長と呼ぶな、大将と呼べ」
ということです。

商いの町・大阪の中でも、さらに商いの中心「船場」で鍛えられた、鳥井さんならではの人間性商売センスが垣間見える逸話だと思います。


一方で、竹鶴さんは、スコットランドでのウイスキー留学を終え、リタ夫人とともに帰国したのが1920年。
その後、ウイスキーづくりをはじめるチャンスをつかめないまま、中学校の化学の教師をしていました。

この2人は1923年の日本初の本格ウイスキーづくりを前にして、出会うべくして出会ったわけですが、その時にはすでにベテランの酒類業界人でした。
だだ、2人にも初々しい社会人としての駆け出しの頃があったはずです。
そんな鳥井さんと竹鶴さんの、社会人人生の始まりを確認してみたいと思います。


■竹鶴政孝と摂津酒造

ウイスキーに詳しい方なら、竹鶴政孝は「摂津酒造の命で、スコットランドでウイスキーづくりを学んだ」という話はご存じだと思います。

広島県の造り酒屋に生まれた竹鶴さんは、大阪大学醸造科を卒業後、大学の先輩の岩井喜一郎(当時の摂津酒造・専務)を頼って摂津酒造に入社。
その後、その能力を認められて、本格ウイスキーづくりへの参入を検討していた摂津酒造の阿部社長の計らいによりスコットランドへウイスキー留学します。
ただ、これは今でいうところの「留学」と全然違って、簡単に言えば、会社が旅費を出してくれたので「とりあえずスコットランドまで行ってみた」というレベルでした。
この先達がいない異国での逆境下、竹鶴さんが自身の頑張りでスコッチウイスキーづくりを学んでくるわけです。すごいですよね!
これについては、またいつか記事化したいと思います。

その後、帰国しますが、その時には景気が悪くなっていて、摂津酒造は「ウイスキーづくり」を断念していました。竹鶴さんは社内でも居場所がなくなってしまい、退社して中学校の化学教師していました。

この摂津酒造ですが残念ながら、今は存在していません。

結論を言ってしまうと、摂津酒造は、1964年に宝酒造(現・宝ホールディングス)に吸収合併されています。

・竹鶴さんは、摂津酒造の出身。

・その上司だった岩井喜一郎さんが、摂津酒造を退社後に本坊酒造の顧問に就任。

・岩井さんは、竹鶴さんのスコットランド研修の報告書をベースに、本坊酒造のウイスキーづくり参入をコンサルした。

ということが有名なので、私もそちらばかりに目が行っていました。

そのため、何となく
「摂津酒造→本坊酒造マルスウイスキー」
という流れが頭の中にありましたが、
「摂津酒造→宝ホールディングス」
が正確な企業産業史となります!


■鳥井信治郎と小西儀介商店

両替商をしていた家に生まれた鳥井信治郎は、13歳の時(1892年/明治25年)に、大阪船場の一角、道修町の「薬種問屋=小西儀介商店」丁稚奉公に入ったのが社会人人生の始まりです。
この道修町(ドショウマチと読みます)には、当時の薬種問屋が集まっていた流れで今も多くの製薬会社が存在しています。(例えば塩野義製薬など)

この「鳥井信治郎=小西儀介商店で修行」を知っている方は、相当なウイスキー通かと。

当時、元号が明治に変わってからは、日本へ次々と西洋のお酒が入って来ていました。
ビール、ウイスキー、ワイン、リキュール、ブランデー、シェリーetc.

この輸入した西洋の「お酒そのもの」を売ったり、日本にある材料で「それっぽいお酒」に調合して「模造商品=イミテーション商品」として売るのは、当時は薬種問屋の仕事でした。

◇海外のお酒     = 滋養強壮
◇イミテーション酒類 = 調合

といった点が、薬と距離が近かったのだと思います。

その西欧風の酒類を販売する薬種問屋の中でも、小西儀介商店は最先端でした。
ハイカラな小西儀介商店では、明治初期から洋酒製造を手がけ、ビールや、ウイスキー・ワインを製造していました。

ウイスキー・ワインは、アルコールに色々なものを調合したイミテーションではありましたが、特に「赤門印葡萄酒」は、養命酒のように薬用として飲まれることで一定の知名度を得ていました。

このような日本最先端の洋酒文化に囲まれながら、鳥井さんは様々な洋酒の知識を身につけ、調合の技術を養っていったのです。


■小西儀介商店って・・・

この小西儀介商店ですが、社名は少し変わっていますが、現在も道修町に存在しています!

それが、「ボンドのコニシ」で有名なコニシ株式会社です!!

(ちなみに、コニシ株式会社さんのHPで沿革を確認すると、ボンドの販売開始は、第二次大戦後の1952年となっています。)
沿革|企業情報|コニシ株式会社 (bond.co.jp)

この「鳥井信治郎=ボンドのコニシ」を知っている方は、もはや相当なマニアの域かと・・・


◾️すごいぞ! ボンドのコニシ!!

先ほど、リンクを貼ったコニシ株式会社の沿革に、気になるフレーズがあると思います。
それについて、次回、解説したいと思います。

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