『岩井喜一郎と竹鶴政孝』 ともに摂津酒造を退社したのち 《岩井と竹鶴③》
■前回からの続きです。
ここまでが、前回のお話です。
ただ、ここで問題発生です!
竹鶴が帰国した時には、不景気もあり摂津酒造のウイスキー参入計画は立ち消えていたのでした。
竹鶴は摂津酒造を退社します。
■壽屋に入社した竹鶴政孝
中学校の教師などのアルバイトをしたのち、壽屋(現サントリー)創業者の鳥井信治郎に請われて、壽屋へ入社。同社の日本初の本格ウイスキー蒸溜所=山崎蒸溜所の初代工場長に就任します。
そして、ポットスチル2基を据え、日本初の本格モルトウイスキーの蒸溜を開始するのです!
このうちの1基は、今も山崎蒸溜所のウイスキー館(ショップと資料館のある建物)の奥に展示されています。
山崎蒸溜所 新蒸溜釜発表会 | WHISKY Magazine Japan
これは再溜の方のスチルです。
(ウイスキーは通常2回蒸溜しますが、その2回目の蒸溜に使うスチル)
渡辺銅鉄工所という会社につくってもらったもので、写真中央のスチルの真ん中に楕円形のプレートがありますが、そこに「渡辺銅鉄工所」と書いてあります。
ここで話が逸れますが、いきなり『激ムズ・超マニアッククイズ』の出題です!
初溜器と再溜器は、別の会社に発注していたんです!
当時、ポットスチルをつくったことのある会社はなかったので、納期短縮&リスクヘッジの観点からそうしたのでは、ないでしょうか?
それにしてもこれを答えられた人は、超のつくウイスキーマニアだと思われます。
この山崎蒸溜所の初代ポットスチルの詳細は、こちらをご参照ください ↓
JWIC-ジャパニーズウイスキーインフォメーションセンター|JW物語
■独立する竹鶴政孝
壽屋と10年契約で入社した竹鶴は、その10年間の仕事を全うして、自分のつくりたいウイスキーにとって理想の地:北海道で起業します。
それがニッカウヰスキーであり、余市蒸溜所です。
操業当時のニッカウヰスキーは、「大日本果汁株式会社」という社名で、りんご果汁100%ジュースなどを販売していました。
(ニッカとは、元々は大日本果汁の短縮系のニックネームです。)
ウイスキーはつくってから熟成の期間が必要なので、極めてキャッシュフローの悪いビジネスです。
原酒が熟成するまで「売るものがない=売上が立たない」ので、竹鶴が最初に販売していたものは、りんご果汁ということになります。
(サントリーの場合は、赤玉ポートワインの売上・利益で、ウイスキービジネスに参入しました。)
このりんごジュースは、ビジネス的にはあまりうまく行きませんでした。
それ主に下記の理由からです。
ただ、今もニッカにはアップルワインなんかがありますから、その歴史というか創業の心意気は残っていると言えますね!
アップルワイン|ブランドサイト|アサヒビール (asahibeer.co.jp)
■本坊酒造のウイスキー参入をサポートする岩井喜一郎
竹鶴は摂津酒造を退社したわけですが、竹鶴が摂津酒造への入社でお世話になった
も竹鶴が退社してかなり経ってから、摂津酒造を退社します。
その後、岩井は縁あって昭和45年(1950年)に本坊酒造の顧問に就任。
昭和24年(1949年)、本坊酒造のウイスキー事業参入を顧問として指導。
昭和35年(1960年)、同社の山梨県・石和工場でのウイスキー事業への本格参入に際しては、ウイスキーについての知見のあった岩井が生産設備をプロデュースすることになるのです。
(この山梨県・石和の蒸溜所は、1985年に長野県・駒ヶ根の今のマルス駒ヶ岳蒸溜所の場所に移設されることになります。)
といっても、岩井は「蒸溜酒=特に新式焼酎=今の甲類焼酎」のプロフェッショナルでしたが、本格ウイスキーについては、自分ではつくったことはありませんでした。
その岩井が参考にしたのが、摂津酒造時代に竹鶴から受け取った『竹鶴ノート』の内容でした。
■なんとなく繋がる3ケ所の蒸溜所
なんか時代は違えど、この3つの蒸溜所が、なんとなく繋がってきたような気がします。
次回へ続きます!