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「ありのままが美しい」という、呪いの言葉
「ありのままが美しい」「ありのままが一番だ」という言葉を聞くと、複雑な気分になる。きっと言っている本人は優しさや称賛の意味で言っているのだろう。人によってはありがたい誉め言葉として受け取ることもできるだろう。それでも私はきっと、この言葉をほかの誰かに使うことができない。
世間を見渡してみると、「ありのまま」や、それに近い言葉がそこらじゅうに溢れている。自然体。ナチュラル。純粋。ピュア・・・そしてその多くは肯定的な意味合いで、誰かの在り方を評価するために使われている。モデルの容姿、キャラクターの性格、恋人に求める性質。そういったものに、「ありのまま」という言葉が向けられる。もちろん、称賛と非難は紙一重だ。そのままがいい。下手にいじるんじゃない。あれこれ手を加えるな。汚すな。カッコつけるなんてダサい。加工は悪だ。装飾は偽りだ・・・。
ここで、いかにもありそうなおとぎ話をしよう。ある少女はごく幼いころに森の中に置き去りにされた。面倒を見きれなくなった両親にすてられてしまったのだ。少女は命の危機に瀕したが、幸い森に棲んでいた動物たちに助けられて、一人で生きるすべを身に付けた。少女は人間関係のいざこざも、残酷な階級社会の実情も知らず、自然の恵みによってすくすく成長した。昼は野原に遊び、夜は森の木々に抱かれて眠った。
そんなある日のこと、ある旅人が森の奥深くに迷い込んでしまった。戻る道もわからずに途方に暮れていると、そこへ例の少女が現れた。二本の足で軽やかに大地を駆けてきた少女は天真爛漫の笑顔、無垢の瞳で興味深げに旅人を見つめ、「どうしたの?」と口を開く・・・。
さて、ここで明らかに非現実的な事柄がいくつかある。少女が森で生き延びたのはまあこの際いいとして、少なくとも人間との接触のなかった彼女が、二足歩行や笑顔のつくりかたなど学べるわけがない。ましてや、「どうしたの?」なんて口が利けるはずがない。実際のところはどうかといえば、全身毛むくじゃらで、爪は長くのび、四つん這いで移動することだろう。人間と出会おうものなら警戒して、ものすごい目つきでうなり声をあげ、こちらを睨んでくるかもしれない。
話を戻そう。私は「ありのままが美しい」という言葉についての話をしていたのだった。上記は比較的厳密な意味で「ありのまま」な人物―いわゆる野生児の、私の見識の範囲内で想像されるすがたである。私たちは彼女に対して「自然体だ」「ピュアだ」という言葉を用いるだろうか? おそらく、多くの人はそうは思わないだろう。むしろ、これらの言葉から連想されるのは、程度の差こそあれ、先の「おとぎ話」で語られた幻想のほうではないだろうか? そしてその幻想とはまさに、私たちが人間社会の中で作り出すある種の「規範」に則って形成されたものなのではないだろうか? 自然な髪型、自然な話し方、自然な所作・・・「手を加えていない」「余計な要素がない」かのような印象を与えるこうした評価が示す性質は、実は私たちの社会において形成されているある種の規範に合うような形で「矯正」され「教育」された結果に過ぎないのである。
もちろん、世の中には偶然的な結果によって、生れ落ちたその瞬間からある種の美しさを獲得しているものもあるだろう。けれど、私たちの大半は、決してそうではなく、共同体の風潮や周囲の人たちないし自分自身の意思によってさまざまな性質を引き出し、矯正し、あるいは新たに獲得しようとする。そのうちのいくつかは、社会において標準化され、「普通」や「理想」として位置付けられる。そして私たちが普段「ナチュラル」「ピュア」と呼んでいる性質もまた、このようにして設定されたある種の目標や規範の一つなのだ。「自然さ」が基準としているのは先の例のような、いわば不作為の結果ではなくて、むしろある共同体において最も権威を持った、或いは最も一般的とされるステレオタイプなのである。
そのように考えると、「ありのままこそ美しい」のような言説は「その人そのもの」を肯定しているように見えて、実はすでに共同体において承認されているステレオタイプを追認しているに過ぎないばかりか、その規範をあたかも「所与のもの」とみなす形で強化していることになりはしないか。他の規範からの解放を促すような顔をしながら、その実、相手を今まさに従属している規範にさらに縛り付ける結果につながってしまってしまっているのではないだろうか。
私たちは様々な価値観の中で生きている。一部の、あるいは多くの人々の間であるものが美しいとされ、あるものは醜いとされる。もちろん、客観的あるいは科学的な理由で大多数の人間に好まれている特定の性質というものはあるだろうが、その多くはいわば「流行」であって、「美しいといわれるから美しい」ものに過ぎない。行き交うモノと情報のうねりの中で、私たちは「美しい」という言葉の使い方を学んでいるといってもいいだろう。そうした過程で「ある時点で美しいと評価されたために、当面そのままであることが許されたもの」が徐々に固定化し、あたかも「そのままであることが美しさの条件」であるかのように振る舞うようになる。結果として「ありのまま=美しい」という、倒錯した図式がもっともらしい響きを帯びて主張されるようになると考えることもできるだろう。
「ありのままが美しい」のは、「そう言ってもらえる人」だけであって、決して普遍的に成り立つ関係ではない。現状がどうであれ、それに手を加えること、そこから一歩足を踏み出すこと自体に「美しくない」という批判を向けることは不当でしかないのである。誰もが、今の自分にない「美しさ」を求めて当然なのだから、それをためらわせるような、変化を無条件に恐れさせてしまうような言葉があるとすれば、それはある種の「呪い」であるというべきだろう。もちろん、「ありのままが美しいのだ」という信念を誰かが抱くこと自体を否定するつもりはない。ただ、それを自分自身以外の誰かに押し付けようとするのはもってのほかだと思うし、何より、私自身にとってはおそらく、その信念は美しくないもののように思えるのだ。