アイデンティティ・クライシス
親に対しては過剰なくらい従順な私にも反抗期があった。高校一年生の夏から秋にかけてのころである。と言っても大したエピソードがあるわけでもなくて、母親の説教に対して言い返してみたりとか、父親の旅行の計画を断ったりとか、今思い返してみれば可愛いくらいの、ちょっとトゲトゲした私がそこにいた。
もちろん当時は「私は今まさに反抗期を迎えている!!」みたいな確固たる認識があったわけでもなくて、ただ親が間違った考えや言動をしていると思ったときに、自分の正しいと思うことを持ち出してぶつけたり、あるいはそれを盾にして閉じこもったりと、自分なりの「正当な」行動をとっているのだという気持ちでささくれた日々を過ごしていたように思う。それまで自分を守り、正しい方向へ導いてくれる存在だと思っていたはずの親たちが突然、自分より少し年上なだけのただの人間に見えてきて(それは当然のことなのだけど)、その現実を受け入れられずに、自らのおもちゃみたいな理想でもって抵抗しようとしていた─それがいわゆる「反抗期」という枠組みの中で見た時の、私のいかにも子供らしい葛藤だった。
しかしながら、そんな反抗期の私が実際に直面していたのは、おそらくそれよりもっと重大な問題だったのではないかと思う。つまるところ、私自身がどのようにして生きていくべきか、という迷い、いわゆるアイデンティティ・クライシスとかいうやつだ。
高校に入学したころの私は、大変よくあることではあるが、いわゆる「キャラづくり」に苦労していた。中学校のころはひたすら勉強ばかりしていたおかげで「優等生キャラ」を張っていればよかったものの、いざ第一志望の高校に受かってみると周囲は自分より賢い子ばかりで、当然そんな「キャラ」は通用しそうにもなかった。そればかりか、早くも大学受験に向けて週に何度も塾に通っている同級生たちを見ていると、「自分はどうすればいいんだろうか」という不安と焦燥のようなものを感じずにはいられなかったのである。
「自分のキャラが定まらない」という問題を通して、当時の私は「自分の人生に正解がない」という、それまで見向きもせず、あるいはある意味覆い隠されてきた現実に直面しつつあった。それはまさに、それまで「正解」じみたものを提供してきた両親の権威の相対化に通じるものでもあったと思う。結局誰を頼っていけばいいのかという疑問、そして裏を返せば、それまでの自分が常に大人という他者の意向に頼って意思決定をしてきたという、苦々しい羞恥を伴った実感。そうしたものの結果が、私の親に対する反抗だったのだろう。反抗する相手が親に限定されていた時点で、そこにはすでに親に対する甘えがあるのだけれど、そんなことには気づきもせず、ひたすら行き場のない不満をぶつけていた─というのが、現時点の私が振り返る限りにおける、当時の自分自身の姿だ。
どうして急に高校時代のことなんかを思い出したのかというと、私が今まさに、その時と同じような悩み方をしているような気がしてならないからだ。ざっくばらんに言えば、進学か就職かという選択肢を前に、とりあえず自分にとって楽な方を選んでみたはいいものの、そこから先どうしていけばいいのかわからないという状態─周りの人たちと比較して、自分だけ何も決められていないような気がして焦る、正しいとは限らないと分かり切っているものに正しさを要求しようとして当然のように挫折する、などなど。さすがに今回は両親との関係を悪化させるようなことはしていないし、するつもりもないが、本質的には似たり寄ったりの状況なんだと思う。
きっとそのうちそういうことも言っていられなくなって、何かに追い立てられているうちに悩みなんかどこかに行ってしまうのだろう。だからある意味、私は追いつめられることを望んでいるのかもしれない。
目の前に危機が迫っているなら、そこから逃れる道をおのずと選択することができる。けれどその逃げた先でまた、行く宛てを失って立ち尽くしてしまう。結局のところ私の人生というのは、いわば同じようなシナリオをセリフを変えながら繰り返し演じているにすぎないのではないだろうか。