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鳥取砂丘
ゴールデンウィークも後半に差し掛かったある日。張り切った様子の父が早朝からハンドルを取り、朝9時を過ぎた頃には車は鳥取砂丘の見える駐車場に停まっていた。
やはり連休中だからか、パーキングの大半が県外ナンバーで埋まっている。この調子だと昼頃には満車になってしまっているに違いなかった。
人混みがピークになる前にと、とにかく海を目指して砂浜に足を踏み入れる。目を凝らすまでもなく、普段の海岸なら水平線が見渡せるであろう場所に、巨大な砂の壁が聳え立っているのがわかった。
どこかめまいに似た感覚を覚えながらも、ひたすら前に向かって歩を進める。見た目の変化に乏しいためか、距離の感覚がうまく掴めない。もう目の前だと思っていた砂山はさっぱり近づく様子がなく、かと思えば遠くに見えている人たちの声が意外なほど近くに聞こえてハッとする。
足元はきめ細やかな砂で、体重の圧力から逃げるように靴の底をサラサラと流れていく。必死に繰り出す脚の動きとは裏腹に、体はゆっくりゆっくりと斜面を登っていった。
情報の発信が容易になった現代においてさえ、写真や動画では伝わらないことがたくさんある。「時間の流れ」は、その一つだろう。
本来、時間と空間はセットなのだと思う。ある場所にはその場所にしかない時間がある。鳥取砂丘の時間と空間は、限りなく雄大で、余白に満ちていた。
だからこそ、人はその広い大地にこうして遊ぶのだろう。子どもだけでなく大人たちまでもがバランスを崩しそうになりながら急斜面を降りては、四つん這いで登って戻ってくる。
不要不急、全くもって生産性のない行為だといえば、そうなのかもしれない。けれどもそのような論理は、人間の理解を超えた規模のものごとに対しては完全に無力だと言える。何しろ私たちのなすこと全ては、「長期的に見れば」あらゆるものが無駄だからだ。
こうして人は、自分より途方もなくスケールの大きなものに出会った時、まるで子だもに帰ったかのように無邪気になる。いや、むしろそのようなあり方こそが人間にとっては自然なのであって、けれども多くの人は日々の忙しさにそれを忘れていただけかのかもしれなかった。
歩き始めてから長い、ゆったりとした時間が過ぎて―やっとの思いで辿り着いた巨大な砂山のてっぺんで、私は呆けたように眼前に広がる海を眺めていた。
よく晴れた空の青を、際限なく広がる水面が映す。寄せては返す波のザザーンという音が、やけに大きく響いていた。
鳥取砂丘には三つの砂丘列があり、そのうちの二番目の砂丘列が最もよく知られたもので「馬の背」と呼ばれている。高さにしておよそ45メートル。この「馬の背」の迫力もさることながら、鳥取砂丘の魅力はさらに2つの砂丘列を抱えるある種の「無駄」にあると思う。
実際、「馬の背」の頂上にこそ多くの人が集まっており、ほとんどの観光客がそれを目指して斜面を登ってくるが、それ以外の広大な砂の丘には人影もまばらで、特に気にかけられる様子はない。
もしもこれが人工的に作られたエンターテイメント施設であったとするならば、その計画は完全に失敗だっただろう。なにしろ「馬の背」以外の部分は採算の取れない、いわば「赤字」の空間になってしまっているからだ。
けれども、砂丘は確かに「馬の背」を越えて広がっている。それは、人々の期待の先に砂丘があったのではなく、むしろ砂丘の方が人々に様々な行動や信念を抱かせてきたという、あくまで自然優位の力関係の証拠の一つであるといえるのではないだろうか。
人気の少ないところを歩いて、私は砂丘に刻まれた天然の縞模様である「風紋」の綺麗に残っているところを探して回った。
足元を注意して観察してみると、ついさっきここを通ったであろう人の足跡が重なり合って残されているのがわかる。振り返ると私の足跡もまた、なだらかな砂の斜面に点々と浮かび上がっている。
私はお気に入りの場所を見つけると、まずは風紋をカメラにおさめ、それから思い切って足を踏み出し、そこにくっきりと靴の跡を一つつけた。小さい頃、夜の間に積もった新雪に一番乗りで足跡をつけた時の高揚感が、なんとなく思い出される。
きっとこの跡も明日の朝には、いや、今日のうちには風や他の足跡にかき消されて消えてしまうだろう。私は今しがた作った足跡にレンズを向けてシャッターを切った。
「無駄」な砂地につけられた、「無駄」な足跡―そうしたものたちを大切に思えるように生きてみたい、なんていうのは、その後日常に帰ってこの文章を書きながらふと思ったことだ。