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パッケージ化された「自由」に騙されるな

 私は極端な人間なので、人生における「幸福感」というものをあまり重視していない、というか、ほぼ完全に度外視している。

 私なりの理屈はこうだ。そもそも「幸福感」というのは相対的なもので、ごくわずかな利益や快楽であっても、それがあらかじめ厳密に抑制されていさえすれば、いくらでも大きくすることができる。要するに、極限までお腹の空いた状況であれば、たとえおにぎり一つでも天にも昇る気持ちになれるだろう、という話だ。

 だから、「幸福感」を覚えることを人生における目標にしようとしたり、「幸福感」を与えることを善として認めようとすると、奇妙なことになる。幸福感を与えるとはすなわち解放に先立って抑圧することであり、抑圧することは必ずしも正しいことではないからである。

 ならば、私たちが他者や自己の在り方についてめざすべき地点はどこなのだろう? もし私がそのように尋ねられたとするならば、「自由になり、自由であり続けることだ」と答えるだろう。

 とはいっても、単に選択肢の中から好きなものを選べる状態は見せかけの「自由」であって、真の意味での自由ではない。自由とは与えられた選択肢の中から好ましいものを選ぶ権利を指すのではなくて、その選択肢自体の是非を問うことができるということだからである。

 この自由が正当化され、そして私たちが目指すべきものとしての価値を持ちえるのは、ひとえに私たちが人間だからだ。人間とはいかなるように定義されるのか? そこに生物学や歴史学の複雑な議論を持ち込む必要はない。私たちが真の意味での自由を有すると判断した対象こそが人間である。逆に言えば、そのような自由をはく奪することで人間はいつでも奴隷や道具に身をやつすことがありうる。このことは歴史とそれに対する反省の中で繰り返し顧みられ、また今なお日本を含めた世界の各地でくすぶっている問題である。

 すなわち、「自由になり、自由でありつづけること」は実は人類の崇高な最終目標などではなくて、私たちが人間らしく生きていくための最低限の条件なのだ。ところがこの自由は両手でしっかりつかまえていないと、指の間からスルリと抜け出してどこかへ逃げて行ってしまう。現に私たちの身の回りでは、私たちの目をくらませようとするかのように、見せかけの「自由」がはびこっている。

 今、世間ではあらゆるものの「サブスク化」が進んでいるように思われる。一人で把握し処理するにはあまりにも増えすぎた選択肢の中から恣意的に選ばれた集合がパッケージとして売り出され、そこには「無制限」「使い放題」という魅力的なうたい文句が躍る。確かに定額を支払う代わりに一定範囲でのサービスやコンテンツが好きなだけ利用できるという仕組みは便利ではあるが、「無制限」「使い放題」という言葉に騙されて、自分が進んで籠の中におさまっていることに対して盲目的になってしまうことは避けたいものだ。

 ましてや、仮にも国家を「税金を一定額支払う代わりに「自由」を保障してくれるサブスクリプションの提供者」のようなものとして考えてしまうのは、恐ろしいことだ。そのようにもたされる「自由」は、単に為政者のために都合よく作られた選択肢の押し売りに過ぎない。

 そもそも私たち人間は、国家権力など存在する前から真の自由を享受している(というより、自由を享受することではじめて人間らしくふるまうことができている)のである。むしろ国家が担うのは、そういう自由が行使できるように、最低限のインフラや教育を提供することなのだ。したがって仮にそのような保障が不十分、あるいは不適切であると感じられる場合には、それについて公然と批判し、改善を要求する権利を私たちは自明に有している。

 ところが実際のところはどうだろう? 私たちは選択肢を吟味するどころか、もはや眼前の選択肢の内容すら精査することなく、偶然や運命のせいにして、漠然とした絶望の陰の中にうずくまってしまっているのではないか? そして力のあるものへの服従の対価として与えられる「幸福感」をよりどころにし、ただそのためだけに身を削ってしまってはいないだろうか?

 私が冒頭のように「幸福感」に対して一定の距離をとる、というよりある種の危惧を抱くのは、そのような「幸福感」が為政者ないしは権力者にとって、それを都合のいい形であたかもサブスクリプションのように「使い放題」の状態で提供することで、私たちの目をくらませ、壁一面に「お品書き」の貼られた牢獄のなかに閉じ込めておくのに格好の材料になりうるからだ。

 ディストピア小説の傑作として名高い『Brave New World(邦訳:すばらしい新世界)』では、発育段階で選別されたエリートたちがそれ以外の階層化された下等市民に対して、奴隷的な労働の対価として「ソーマ」とよばれる麻薬をふるまう場面がある。ソーマによって得られる快楽により、下層階級の欲求は完全にコントロールされ、その意思は勤めを果たしてソーマを獲得することに集中されるのである。これはまさに、幸福感によって「自由」の範囲を極端に制限してしまっている例といえるだろう。

 もちろん、時に快楽に身をゆだねることは何も悪いことではないし、できるだけ幸福に暮らすことができるならそれに越したことはないだろう。しかしながら幸福というのはじつは、ごくありふれた毒薬のようなものなのである。あくまでそれ自体を目的とするならば、私たちは家畜のようにだってふるまうことさえできてしまうだろう。私たちは真に自由を生きるために、常に目の前に開かれている選択肢の是非に注意を払うとともに、「そこにあるべきもの」を絶えず吟味していく必要がある。そのためには種々の分野における知識や考えかたを身につけるはもちろん、個人の学びを共有し深めていくためのネットワークが不可欠であろう。我々は我々自身の在り方について、常に目を向けなければならない。―私たちは人間であろうとする限りにおいて、はじめて人間たりえるのである。

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