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「せっかくの大学生活なんだから」に思うこと
「せっかくの大学生活なんだから○○しなさい」「大学生は~したほうがいい」。大学生として過ごした4年間の中で、私より年配の方から、直接あるいは間接的にそんな言葉を掛けられることがあった。
おそらく当人は、あくまで親切心からアドバイスを与えているつもりなのであろう。しかし私はこうした発言に対して、違和感と反感の入り混じったような複雑な感情を抱かざるを得ない。
私の―そして私と同世代の大学生たちの生活は、2年前の春を境に様変わりした。突然キャンパスへの立ち入りを禁止され、授業はすべて遠隔方式になった。今でこそオンラインでの授業の形態というものがある程度確立されつつあるが、当時の混乱ぶりには目を覆うものがあった。私が履修していたある授業は、「対面授業になるまで、これを読んで待っていてください」という連絡とともに論文2本を寄越したきり、結局そのまま夏休みに入ってしまった。一応こちらも安くない学費を支払っている身だ。さすがにこの時ばかりは「何のための授業料だったのか」と思わずにはいられなかった。
課外活動はさらに強い影響を受けた。もっと言えば、いや、正確を期して言えば、その影響はほとんど壊滅的といっていいものだったと思う。もともと勢いを失い気味だった大学のサークル活動は、一も二もなく停止に追い込まれたことで存続への道を絶たれてしまった例も少なくない。課外活動を単なる「遊び」ととらえる人もいるが、実際には学部や学年を超えた交流の場として、また伝統的な文化を継承する共同体として、あるいは地域社会への貢献を行う際の拠点として機能していたと思う。そしてこうした活動は現在も、様々な制限の中でそのあり方の模索を続けている。
もちろん、新規感染症の未曽有の大流行という事態にあって、実際になされた対応はある程度妥当であり、またそれが多少過剰あるいは不十分であっても、仕方のない部分はあるだろう。しかしながら、その過程で様々な制約を受ける若い世代―それは大学生に限ったことではなく、小中学生や高校生、労働者、家庭人などさまざまな立場の人々を含むわけであるが―に対する配慮が、十分になされたとは言えないのではなかろうか。
こうした対応の指揮を執ったのは、かつてそういった立場であったはずの、私たちより上の世代の人たちだ。実際に権力を握った人もあれば、選挙などを通じてそれを容認してきた人たちもいる。もちろん、私たち自身がそういった営みに関わっている側面もあるし、それが十分だったとは必ずしも言えないのかもしれないが、裏を返せば、そうした世代を含むだれもが「せっかくの学校生活」を形作る制度的あるいは社会的な枠組みの形成にかかわってきたということなのだ。
そして実際のところ、そのような中で営まれる私たちの学校生活が「せっかくの」というほど大切にされたという実感はない。むしろ「社会に迷惑をかける」という理由で、一方的な「自粛の要請」という形で押さえつけられてしまったように思う。
私は何も「感染症対策は必要ない」などと言いたいわけではない。私たち自身を含む多くの人の命を守るためにそういった対策は必要だし、大半の大学生はそのことを理解している(と思う)。けれど、そのやり方が「せっかくの~」という言説に表明されている態度と整合性のあるものだったのかについては疑問が残るということだ。
小学生や中学生、高校生たちの学校生活についてもまた、同じように矛盾した対応がとられたのではなかっただろうか。「青春」をはじめとした、若い人たちの学校生活を神聖なもののようにみなし、そこに(ある方向に偏っているとはいえ)高い価値を見出す視線が向けられる一方で、いざ彼ら・彼女らの平穏な日常生活が損なわれそうになったとき、実際に大人たちがとった態度は驚くほど冷たいものだったように思う。結局のところ、世の中で本当に大切にされているのは「若者のイメージ」であって、「若者」に該当する人々それ自体を顧みる人はそんなに多くないのではないかと考えずにはいられない。
私たちの生活のありかたについて、確かに私たち自身が選択し、あるいは創造することのできる部分はある。しかしそれ以外の多くの部分は、私たちの力だけではどうしようもないような構造によって規定されているし、それを受け入れなければならないような合理的な理由が存在することもある。そういった外的な制約の中で、私たちは自身の学びを深め、他者と交流し、新しい価値を生み出していくために様々な工夫をしてきた。そうやって試行錯誤の末に何とか形にしてきた学校生活を誇ることができるのは、ほかでもない私たち自身なのである。それを(あえて厳しい言い方をするなら)押し付け、あるいは否定し、一方的に制限してきた側の人たちに「せっかくの」という価値判断を差しはさむ資格はないだろう。
「せっかくの学校生活」をよりよくしていくために、ああした方がいい、こうするべきだというような「上から目線の助言」。果たしてそれが相手にとって本当に必要なものだと言えるのだろうか? 社会全体において本来欠かせないのは、あらゆる人々の「せっかくの人生」をより素敵なものにしていくために、対等な立場で話し合い、協力していくことだと私は思う。―大学生という立場を離れていく今後の自分自身への戒めを込めて、気持ちを新たにしたい。