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初めての一人暮らし
大学院を出て就職し、この春から一人暮らしを始めた。生活リズムと生活環境と生活場所が一気に変わったので、特に最初の三日間くらいは精神的な負担が結構大きかった気がする。夜は眠れないし、夜中に何度も目が覚めるし、ようやく寝ついたと思ったら悪夢を見て飛び起きたりして、何もしないうちにクタクタになっていた。
それから一週間が経ち、ようやく自分の中でリズムが掴めてきて、こうして朝早くに起きて文章を書ける程度には回復している。
二十年以上を実家の子供部屋で暮らしてきた私にとって、一人暮らしというのは初めての経験だ。家事はそれほど苦にならないが、むしろ自宅で「自分の他に誰もいない」という感覚が思っていた以上に新鮮であり、いまだに慣れられない部分でもある。
これまでの私の生活は、常に誰かの目の届く範囲内にあった。それは主として母をはじめとした家族の目だ。朝ちゃんと起きているか、何をどのくらい食べたか、一日どこで何をしていたか、自室でどう過ごしているか。たとえ直接見られていなくても、そうしたことはすべて物音や、気配や、買い物の状態、ゴミの出し方、洗濯物の量といった様々な手がかりを通じて母に把握されていたし、私もそのことをわかって生活していた。
ところが今年の春からの私の暮らしの様子については、両親含め家族の誰一人として知る者がいない。「誰にも知られていない」という認識は、もちろんある種の開放感をもたらすものではあるけれど、それ以上に「規範の無効力化」に伴う戸惑いの方が大きいと私は感じている。
たとえば食事の時、これまでの私であれば当然、作ったものをお皿に盛り付けて、キッチンからダイニングルームに運んで、食事が済むと空いたお皿をキッチンに再度持って行って片付けをしていた。ダイニングルーム以外の場所、たとえば自分の部屋などのいわば「私的な場所」では食事をしないことが長年我が家のルールだったのだ。ところが今の一人暮らしの1Kの部屋には、そもそもダイニングルームというものがないから、そのような「規範」はもはや意味をなさない。結果として、私は半ば釈然としない気持ちで自分の部屋の机で食事をすることになる。
あるいはお風呂から上がった時、浴室のドアを開けると目の前にいきなりキッチンがあって毎回のように驚いてしまう。もちろん、その場で身体を拭いて裸でウロウロしていたって何の問題もないはずなのであるが、これまでの私にとってはキッチンはいわば「公的な場所」であって、そこへ一切の衣類を身につけずに足を踏み入れることは当然、「規範」を犯すことを意味していた。ところが家中のあらゆる場所が「私的な場所」と化してしまった今、やはりそのような「規範」は空虚なものとなっているのである。
生活環境が変化した以上、かつての「規範」がこうして無効力化されてしまうのは当たり前なのだが、私はどうしても自分の部屋の机で食事をとることや、タオル一枚の格好でキッチンを通ることに対して後ろめたさを感じてしまう。そこに虚構のルールの存在を、ないはずの「目」の存在を意識せずにはいられないのだ。そしてそのような感覚と自らの置かれた物理的な状況とのギャップに気付かされるたびに、私は自分自身がひどく滑稽な存在のように感じられる。
しかしながら、同時に、こうしたいわば習慣のレベルで内面化された規範こそが、自分があらぬ方向に突き進んでしまわないためのある種のブレーキになっているのだとも思う。
私が「目」の存在を意識して行う振る舞いは、時に非合理的で、生産性のないものも含まれているのかもしれないが、中には科学的にも適当であり、効率化の考え方に照らして望ましい行動も混ざっているはずである。たとえばこうして朝早く起きること、食事は一日三回で、パンやご飯の他に複数のおかずをつけること、ベッドに入る時はパジャマに着替えること、など。
こうした行動は、もちろん私自身がその合理性・有用性を理解しているという部分もあるが、それ以上に、「そういうものだとされてきたから」「それが《普通》だと思っているから」という、習慣化された行動としての側面が強いように思われる。そしてこうした習慣はもちろん、家族の「目」の届く範囲で生活する中で自ずと身についてきたものなのだ。
「科学」と「宗教」という、よくある二分法を持ち出すのであれば、こうした「規範」の感覚はおそらく後者に属するものになるだろう。「目」の存在を(たとえそれが実在しない時でさえ)意識するということは、一種の信仰であると言えないこともない。しかしその「信仰」の本質は、「そこに「目」がある」という知覚そのものではなく、「だから習慣を守って生活しなけばならない」という行動の側面にあるというべきである。
現代の人間として私が行うべきことは、今一度こうした習慣を改めて点検し、時に科学の力を借りながら、望ましい習慣を自分の力で作っていくということになるだろう。行動の反復はやがて規範となり、私自身を感覚のレベルで適切に制御してくれるはずだ。
そのような意味で、私の持つ「目」の意識というのは、あながち滑稽でとるに足りないものなどではないのかもしれない。むしろその「目」に対して盲従するのではなく、自分自身の理性の目でしっかりと見つめ返し、新たな規範を提示していくことが必要なのだと思う。
・・・などという持論をつらつらと述べている間に、そろそろ朝食の時間だ。実家では毎朝のようにお茶漬けを食べていたし、私としてもなんとなくそうしたい気分なのだが、それだとタンパク質の摂取量が十分でないような気がする。目玉焼きでも拵えてみようか。あるいは冷蔵庫に残っているハムやソーセージを使ってみるのも良いかもしれない。