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構想メモ: SNS・note・商品=「私」: 2021年8月4日に/雑記

そんな感じで、三つのキーワードを含む文章をいずれ書かねばと思っている。出来上がる文章はたぶん、SNSやnoteを批判するものとなる。

懐古厨の誹り、大いに結構。それでも、かつてあったインターネットの魅力がもはや地上から――ウェッブ上から?——跡形もなく消えてしまったことを、私は時に嘆きたくなる。個人ブログ、個人サイト、あるジャンルを束ねたサーチエンジン。もう十数年近く前の記憶を私は未だに引きずっていて、かつて交流した本当の名前も実際の顔も知らないあの人の名前か、あるいは作品か、あるいはサイト名か、とにかくなにか記憶の断片のようなものを検索エンジンに落とし込んでみるのだが、かつての記憶を反映したものを拾えたためしはない。実家の電話回線を塞いでまで足しげく通ったサイトの管理人たちよ、いかがお過ごしか。コロナだ。でも、きっと健在だろう。文でも絵でもなんでもよくて、ただただ無心で、何かを創るということを、いまでも続けていてくれたら嬉しい、などという偉そうな感慨ばかりが沸き上がる。困った懐古厨だと私は私に思った。

SNSが広がった。何者かであることが強いられた。今も強いられている。これからも強いられる。「私」は何らかの名前を持ち、何らかの顔を持ち、何らかの価値を持つことが前提となる。ウェブ空間は生の下部構造となる。一挙手一投足がブランド「私」は常に商品となる可能性を孕み、空間を漂う。私にとって微塵の精華も感じられない例えば小さな文章が、ある人にとってはここでしか手に入らないプレミア品となるということが、いまや起こり得るのであり、実際すでに起こっている。らしい。

いま、noteを始める人たちがいる。「noteでワンチャン」…とは考えない人がそのうちいったいどれくらいなのだろうかと考える。私に関して言えば、やっぱりそういう思いがある。が、こんな文章で金がとれるとは思っていなくて、飽きるまでは愚痴を吐く場として存分に末席を汚してやろうという気持ちの方が強い。それでも続けていけば何か形になるのではないかという考えもまた、捨て去ることができずにいる。noteというシステムの中にいる以上、私は決してワンチャンを否定することができない。常に私は「私」という商品に飛躍する可能性と接しており、ワンチャンへと開かれている。開かせられている。意志や意図とは無関係に。

先刻私はnoteではなくブログをはじめようと思って、いくつかのブログサービスを見て回っていたのだけれど、もう私の知る「ブログ」はこの世にはなくて、noteもブログもほとんど同じように商品としての「私」を売る場、ワンチャンを求める場となっていたような気がして、味噌も糞もかわんねーなという結論に達し、noteでいいやということになった。あえて言えば、noteのシンプルな画面(インターフェイスというのだろうか)に軍配を上げたというところ。

自由、などというものがこれまで本当にあったのかどうか、私にはよくわからない。私はかつてのインターネット/ウェブ空間に「自由」を見ているわけだが、それとて本当に「自由」と言い切ってよいのかどうか。自信がない。ただし、かつてのウェブ空間と現今のウェブ空間が性質を異にしているということは、かなり強く確信している。現今のウェブ空間にある何らかの条件が「私」の商品化を可能にしている、あるいは促進している、ないしは強制していると、考える。もっとも、その条件の内実について語る言葉を私はいま持たないのだけれど。

ちなみに、現今のウェブ空間に感じる「自由」の欠如を、私は特に文体の画一化に見て取っている(ような気がする)。言い換えれば、ウェブ空間が人間の思考の様式や文体、語彙選択にもかなりの程度影響を与えているように思う。2021年現在、ウェブでワンチャン当ててやろうと企図する人間が、私が今書いているような文の書き方をすると私は信じない。こんな日本語の不自由な感じを醸し出す、他者への呼びかけや親密さを欠落させた文章が、現在のウェブ空間でもつインパクトなど考えるまでもない。単に流行の文体を皆が模倣しているという風に考えてもいいのかもしれない。それが一つの通りよい考えかもしれないけれど。ウェブ空間そのものが持つ何か特性のようなものが、思考・文体・語彙に影響を与えている、と考えるのは、あまりに下部構造規定説を愚直に受け入れすぎているだろうか。

およそこんなことを考えたいと思っている。考えたいと思っているらしいことに、この文章を書いて気づく。いま、勉強の必要を感じる。




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