友人とのやりとり
「死ぬ時に後悔すること」とか「死ぬときに後悔しないように」とか言う話は実は僕個人としては全く興味がないんです。
「死ぬとき」と言う定義が「死ぬ瞬間」なのか「もう後戻りができない時期」なのかが曖昧です。
なんとなく「売れる本のパワーワード」として扱われているような気がしてるんですね。
「死ぬ瞬間」だとしたら後悔しても仕方ないですし、「もう後戻りができない時期」だとしたら人生の一瞬一瞬がその時間なんじゃないかと思うんです。人生の選択肢って常に一つしかないですからね。
「歩まなかった人生」に想いを馳せるのはホビーとしてはいいと思いますが、深刻になるとどうしても病んでいきます。
僕は人生の場を「資本主義的な事業の場」とは捉えていない節があって、いい大人がこんなことを言うのはどうかと思うんですが「その時その時が幸せだったら良い」んじゃないかと思ってるんです。
「幸せな人生とは幸せな瞬間の連続だ」と言う感覚があります。
「アリとキリギリス」で言うと完全にキリギリス的な思想ですね。危険だ。笑
もちろん若い頃にはそんな思想には行き着いていなくて、(畳の目でも言いましたが)今の職業につながる勉強を必死にやっていました。
社会に出て会社員になり、5年ほどで退職しフリーランスになり今に至るのですが、もちろん山あり谷あり波風大いにアリという人生です。
しかしながら、無駄だったなぁという経験は一つもなくて、全ての点がいつか線としてつながるという経験を幾度となくしているのです。
すると、そのときは辛いと感じていたことの意味が数日数ヶ月数年後に氷解し、そのうちに「辛い、試練だ」と思っていたことがいつか訪れる答え合わせのための出題のように認識できるようになりました。
もちろん人知を超えたタイミングの結果に起きる答え合わせなので、僕などがいくら考えても回答は導けないのですが、待てば海路の日和ありなのです。
その答えが死ぬまでに訪れないとしたら?
いえ。過去の経験上全て繋がったときにこそ死が訪れるんだろうなと予感しています。
「メメントモリ(死を思え)」という言葉が座右の銘です。
人は必ず死ぬし、その時期は予測できない。だとしたら、人はいつでも死に対して待機すべきだ。
僕はそんな風に解釈しています。
死を思うと生の尊さがよくわかりますよね。
ポッドキャストで喋っています。