356に乗った彼女
1993年の冬、彼女は突然僕の目の前に現れた。
全国チェーンのバイクパーツ屋で働いていた僕は、店の駐車場に真っ赤なポルシェ356スピードスターが心地よい排気音と共に滑り込んでくるのを見て胸が踊った。
まだマイカーを持っていなかったバイク乗りの僕だが、クルマには人一倍関心があった。
19歳なのに妙に分別臭かった僕は、ポルシェと見ただけで憧れこそあれ「一生買えることはないだろう」という諦観があった。
店内からガラス越しに凝視し続けた赤いポルシェから降り立ったのは、まだ幼さが漂う可憐な女性、いや女の子と言っても良い風貌の娘だった。
僕の頭は混乱した。
僕とあまり歳が違わないだろう女の子がどうしてポルシェ、しかも356スピードスターなんかに乗ることができるのか?
父親が大金持ちなのか?援助交際でもしているのか?あんな風に見えて実は水商売勤めなのか?
まだ社会経験の少ない僕のできる想像ときたらその程度の下世話なものしかなかった。
店内に入ってきた彼女に、僕は意を決して話しかけた。
「い、いらっしゃいませ」話しかけたうちに入らない。単なる接客だ。
「かっこいいグローブを探してるの。あるかしら?」彼女は言った。
当時は女性用のバイク用品にそれほど可愛いデザインのものはなく、男性用のバイク用品のデザイナーが「この程度でいいだろう」とピンク色や水色に染めただけという小さいサイズのグローブが2、3種類あるだけだった。
少し恥ずかしさを感じながら売り場へ案内すると、しばらく眺めた後「これにするわ」と言って男性用の無骨なデザインの黄土色のレザーグローブを手に取った。
「サイズはXSがいいわ。あるわよね?」
「あ、はい。探します」慌てて奥の棚を弄りXSサイズを引っ張り出し「ではこちらへ」とレジに誘導した。
「この冬空にグローブを忘れてきちゃったの。箱を開けてくれる?すぐに使うから」
レシートを渡す際にようやく「クルマ、かっこいいですね」と言い出すことができた。
「そうでしょ!可愛いでしょ!でもね、運転がちょっと大変なのよ」と嬉しそうにいう彼女に「歳は何歳なんですか?」と不躾に聞いてみた。
「19歳よ」全く衒いもなく答えた彼女に僕は錯覚ではなく本当に目眩がした。
一歳だけでも年上であって欲しかった。
19歳でポルシェ?356スピードスター?一体どうなっているんだ!
思わず口から漏れそうになったが、堪えた。
「ちょっと見てもいいですか?」そう言って一緒に店を出てクルマをまじまじと見させてもらった。
初めて間近で見るポルシェは新車のように綺麗で、しかもこの上もなく美しく、もう言葉はなくため息しか出てこなかった。
「1960年モデルなの。おじいちゃんだから、労わって運転してあげないとね」
「かっこいいっすね」我ながら気の利かない言葉にうんざりした。
「今度一緒に走りましょうよ」屈託無く彼女は言い放つと「じゃ、今日は約束があるから、これで。どうもありがとう!」そう言って颯爽と座席に乗り込み、走り去って行った。
「今度?一緒に?走るって?確かにそう言ったよな」
僕は彼女の残した言葉を反芻していた。
クルマの後ろ姿を阿呆のように突っ立ったまま眺めることしかできない僕の肩をいきなり誰かが小突いてきた。
「おい!あの娘、誰だ?彼女か?」
二つ年上の店の先輩だった。
「い、いえ。違いますよぉ」
「そうか。可愛い子だったな。っていうか、ポルシェに乗ってるって、すげぇな」
「そうですよねぇ」まだ夢から覚めないような僕は、彼女が走り去った方向を眺めたまま、上の空で返事をしていた。
続く。