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珈琲豆の話

これが我が家の珈琲キット。


この抱き合うムーミンは僕たち夫婦にそっくり。笑

(キットをキッド、マット(艶消し)をマッド、ジュラシックをジェラシックと書く人もいるがそれはまた別のお話)

ドリッパーはカリタの安物。ペーパーは100枚100円のダイソー。お湯を注ぐヤツはダイソーの500円のヤツ。マグはアラビアムーミン。

これだけでどの喫茶店でも飲むことができない素晴らしく美味しい珈琲を淹れることができる。

いや、これだけでは無かった。

珈琲豆が必要でした。

そして、それが最重要でした。

どなたもそうだと思うけど、僕たちの珈琲豆行脚もかなり長いものだった。

ここでは省くが、移住の多い僕たちは移り住んだ先の地元周辺に美味しい蕎麦屋と美味しい寿司屋と美味しいカレー屋と美味しいラーメン屋と美味しい中華料理屋と美味しいパン屋と美味しいケーキ屋とそして美味しい珈琲屋を探すことに割と重点を置いている。

そしていつも最後まで見つからないのが珈琲屋なのだ。

珈琲の味の趣味は百人百葉と言っても良いほど広い。

それに比べればラーメンや寿司や中華料理の誰もが美味しいと感じる幅は狭い。

それは他の食事と違い珈琲が嗜好品だと言われる所以だろう。

ではどうやって自分の好みの味の珈琲に辿り着くのか?

方法は至極簡単で、野生の勘の赴くまま「ここは美味しそうだな」という珈琲屋の門を叩きその店自慢の豆を100グラム買って帰って自宅で淹れると言うことをひたすら繰り返すだけだ。

こう書くとストイックな作業みたいだけれど、そんなことはまるでなく大変楽しい仕事であり、もちろん他の買い物の合間についでに織り込まれた行動なのでなんの痛痒もない。

それどころか、自分好みの美味しい珈琲を探すための冒険なのでそれはそれは愉しい道程なのだ。

今回5年ぶりに鹿児島に帰って来て評価を更新するために美味しいお店の再点検を行なった。

変わらぬ店は変わらぬまま。

新たな店は口に合うか試しに行く。

実は珈琲はかなり早い段階でバチっと決まった。

大型ショッピングモールのイートインにあるテイクアウト専門の珈琲ショップにまったく、それはもう本当にまったく期待せずにただただ苦いお湯が飲めれば良いという希求だけで2人で一杯のホットコーヒーをオーダーした。

一口飲む。

「あれ?」

もう一口。

「え?なんで?」

もう一口。

「すごく美味しいくない?」

もう一口。飲み終わってしまった。

「すみません。今のと同じのを二杯ください」

再び紙コップに口をつける。

「これ物凄く美味しくない?」

「こんな美味しい珈琲飲んだことない」

「もう二杯ください」

どんどんおかわりする僕らに珈琲屋の人は本当に驚きながら喜んでいた。

でも本当に美味しいのだ。

頼んだのはその珈琲店のブレンドだけで、それ以外にも単一種も何種類もあるのだが、浮気をしなかった。

珈琲豆を挽かずに豆のまま200グラム買って帰る。

家に帰りグラインダーで挽き落としてみる。

膨らむ膨らむ。モコモコと豆が膨らむ。淹れていてこんなに気持ちが良い豆は初めてだ。

蒸らし終わり二杯分落とす。

お味はどうか?

とんでもなく旨い。

紙コップではなく、きちんと温めたマグで飲むと天にも昇る美味しさだった。

いや、でも紙コップでも相当美味しいんですよ。

「もう珈琲はここで決まりだね」

引っ越して来て2週間目くらいの事だった。

すこしだけ遠方にあるこの珈琲豆屋は、豆が突然切れてしまった時にはすぐに仕入れに行けないことがあって、近場でセカンドいやサードベストの豆を買うのだけれど、申し訳ないが、emergencyの苦いお湯でしかなく、遠くても無理してあそこに買いに行くべきだったとまさに泥水を飲むような思いを何度かした。

考えようによっては、セカンドベストサードベストだった豆を泥水呼ばわりさせるずば抜けた味の珈琲を知ってしまったことは不幸なのかもしれない。

もちろん僕はそんな考え方はしない。

美味しいものはいつだって正義である。

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