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三人の女性

ほんの一週間で三人の女性と出会った。
32歳の僕はカメラマンとして独立し、一先ず順調。青山のマンションの一室を借りて事務所も構えた。
アシスタント時代は睡眠不足、低賃金、地獄の日々。何人かと恋愛関係になったが、長く続くことはなかった。そんなアシスタント時代を乗り越えた。
そして出会った女性たちは皆、琴線に触れるものがあった。

一人目は21歳の女子大生。
出会ったのはカフェ。
借りたばかりの慣れない事務所では仕事がはかどらず、行きつけのカフェでパソコンを開いて作業をしていた。
すると若い女が何も言わずに、電話番号とラインIDを書いたレシートを渡してきた。
このような出会いはよく聞く話で、「実際にあるのか?」と思っていたが、ついに体験してしまった。とは言え、イタズラかと思い、顔を覗き込むと、口を一文字に結んでいる。愛想を振りまく余裕がない顔。
たすき掛けをしたウォレットショルダーの紐を握り締めている手。崖から落ちないように掴まっているほどの力み具合。
それらが真実味を帯びていた。
そんな彼女があまりにも健気で、僕は優しい目になったに違いない。
化粧は控えめ。
無地の白Tシャツに青と白のギンガムチェックのロングスカート。ズルいと思った。
そんな彼女に広い公園に誘われたい。サンドイッチをベンチで並んで食べたい。「隣、座ろうよ」と言って、同じベンチに座らず、隣のベンチに座って、「隣って、隣のベンチってこと!?」と笑ってもらいたい。
性的なことではなく、公園で過ごす様子を想像させた彼女を褒めたくなって、またそんな想像をした自分が誇らしかった。
レシートを受け取ると、彼女は何も言わずに足早に出ていった。一歩ごとに、たすき掛けしたショルダーバックが腰をノックしている。それが、全力を出し切って疲弊した彼女の歩行を手助けしているように見えた。
この瞬間、32歳の男は21歳の女子大生に心が踊った。
レシートを見ると、ミルクティーとブラックベリースコーンと書かれていた。来店時間は10分前。僕がすでに店内にいた時間。
彼女の心の準備、決断、飲んで頬張る時間、全てが早くて、頼もしいと思った。その反面、彼女は今後たくさんの恋愛をして、たくさん傷付くだろなと無駄な心配をした。そして、彼女の期待に応えたいという願望が芽生えた。
それから彼女と連絡を取り合うようになり、2ヶ月で6回、食事をした。誘いは全て彼女からだった。

二人目は27歳の女優。
女子大生と出会った数日後。
大手プロダクションの企画。まだ日の目を見ない専属女優10人を集めた写真集〈エッググッドゴッド〉の担当カメラマンに選ばれた。
才能はあるのにまだ売れていない女優の卵は神様だ、という意味合いのネーミングはダサいと思った。とは言え、断るはずはない。
女優に気に入ってもらえると今後、撮影で指名してもらえることがあったり、あわよくば専属カメラマンになれることがある。
名前などは見ずに、プロフィール写真だけを見て、それぞれのイメージでロケ地を決めた。何事も直感で決める僕は素早い。その中でも即決したのが彼女だった。
写真を見た瞬間、ロケ地をコインパーキングに決めた。車が似合うわけではなかった。
時間によって駐車された車が変わるコインパーキング。特に表参道の裏路地にあるコインパーキングは車の出入りが激しい。時間によって背景は変化して、彼女だけは変わらない。そんな写真を10枚撮って、組み合わせて、見開き1ページにしたかった。他の女優たちは6ページずつに対して彼女だけは見開き1ページ。一見、不公平に感じるが、存在感が際立つに違いない。
一瞬にしてここまでイメージが湧いたのは彼女の顔が決して童顔ではないのに、幼い頃から変わっていないと思ったから。そこに、変わらない強さを感じた。
「ヤハタ アカです。27歳です。よろしくお願いします」
聞き取りにくい名前。5文字の母音が全て同じ。これが第一印象だった。
ヤハタアカ。言いたくなる名前でもあった。
写真よりも実物は華奢で、肉まんを持たせたら可愛いと思った。
朝8時から撮影を始めて、2時間ごとに撮る。深夜2時までそれを繰り返す。
退屈であり、ハードな撮影。
控え室は現場近くのレンタルルーム。
アシスタントのいない僕は1人。
ヤハタアカはマネージャーとメイク兼スタイリストの3人で来た。マネージャーは挨拶だけを済ませると帰った。つまり丸一日3人で過ごすことになった。
スタイリストには事前に「スカートでお願いします。靴はおまかせ。映画〈バック・トゥ・ザ・フューチャー〉のプリントTシャツの黒をこちらで用意しております。マイケル・J・フォックスが腕時計を見ているデザインです」とだけ伝えていた。
10人の女優の中で唯一、衣装を用意した。
自分の何度も着たことがあるバック・トゥ・ザ・フューチャーのTシャツ。サイズはヤハタアカには大きいが、絶対に似合うと思った。念のために自宅で、Tシャツを単体で二度も洗濯して、「古着屋で見つけたものです」と嘘をついてスタイリストに渡した。
15台ほどのスペースがあるコインパーキングでカメラをセッティングしていると、スタイリストと共にヤハタアカが現れた。
真っ白のふくらみのある膝下までのレーススカート、真っ白のハイカットのオールスター、黒のバックトゥーザフューチャーのプリントTシャツ。
髪の毛はミディアムヘアで、肩に触れるか触れないかの長さ。髪の毛と肩の隙間から背景が見えそうで、見とれてしまった。
「白のオールスターいいね」
彼女の表情をほぐすためにも最初から敬語は使わなかった。
「スタイリストさんと迷ってこれにしました。一応、赤のヒールも用意してもらったんですけど、カジュアルっぽい感じかなと。テーマが『変わらない』とも聞いているし」
「うん、いいね」
撮影は1回およそ15分。そして一時間半待機して、準備をして、撮影。これの繰り返し。
同じ画角で撮るために三脚を立たせる位置にテープを貼り、脚の長さは固定した。
ポージングも差が出ないように、両手を真っ直ぐ下ろして棒立ちにしてもらった。
「好きな言葉は何?」
「バックトゥーザフューチャー」
「え? 本当に?」
「いや、なんか言わなきゃって焦って変なこと言っちゃいました」
「じゃー、表情も変わらないようにしたいからさ、シャッターを押す度に『バックトゥーザフューチャー』って言って。『チャー』のタイミングで撮るから。きっと同じ顔になるよ」
「声に出してですか?」
「うん」
「なんか楽しそう。実は『バックトゥーザフューチャー』って言いながら撮ってる写真。現場にいる人だけが分かる」
「いや、それがバレちゃうくらいのリアリティーがある写真を撮ってみせるよ」
ヤハタアカが微笑んだ。他にどのようなことに微笑むのだろう。彼女への好奇心が横切った。
好奇心はいずれ恋心に変わる。そんなことは経験上分かっていた。好奇心の延長線上に「好き」がある。
このままでは他の女優を撮るときとヤハタアカを撮るときの気持ちが一致しない。10人の女優全員、同じ気持ちで撮りたかった。
誰1人として異性としての「好き」の気持ちを込めたくなかった。または、全員を異性として同じだけの「好き」で撮りたかった。
しかし10人の女性をまとめて「好き」にはなれない。よって前者を選択することになる。そのためにはヤハタアカにこれ以上の好奇心を抱いてはいけない。しかし悪気のないヤハタアカの振る舞いは、僕の仕事に対する思いに突貫してくる。
自分を抑制するように、合間の一時間半は「仕事がある」と適当な嘘をついて、カフェや事務所で待機した。
撮影は順調に進んだ。駐車される車は日本車だけではなく、表参道ということもあり、高級車、旧車、珍しい車、バリエーションが豊富だった。夕暮れ時に、〈ワーゲンバス〉と〈ダッジバン〉と〈初代? のフォードエコノライン〉が3台並んだ背景はヤハタアカを際立たせた。
深夜2時、最後の撮影前に提案をしてみた。
「最後だけ、赤のヒール履いてみない?」
紛れもなく、直感だった。
「いいですね」
スタイリストが嬉しそうに言った。
「私もいいと思います。でも、良かったら理由も教えて下さい。言葉にできる理由だったら嬉しいな」
直感という理由は、彼女には通用しない。心にある感覚を言葉にしてみた。
「……白のオールスターから赤のヒールに変わる。これって大人になるってこと。でも27歳のキミはすでに大人。つまり、赤のヒールを履くことは普通。赤のヒールを履いたら大人になれる気がするって発想が子供。要は、キミは、子供の頃の感覚を取り戻すために、赤のヒールを履いている。子供の頃のおもちゃで遊んで昔に戻るのではなく、子供の頃の感覚を思い出して昔に戻る。バックトゥーザフューチャーだ……どう?」
ヤハタアカは口元を手で隠して笑った。
「すみません、無理矢理、言葉にしてもらって。ありがとうございます。なんか面白かったです」
「あれ? 伝わらなかった?」
「伝わったような、意味不明なような、長々していたような」
「恥ずかしい。簡単に言うと、直感」
ヤハタアカへの好奇心は止まらなかった。
撮影が全て終わり、機材を片付け、彼女は控え室で着替えを済ませると深夜2時半だった。
「お疲れさま。長い撮影に付き合ってくれてありがとう。絶対にいい写真になるよ。デザイナーがきっと素敵な見開き1ページにしてくれる」
「チャーさんがデザインするんじゃないんですね。デザイナーさんがいるんだ」
ヤハタアカは僕を「チャーさん」と呼んだ。シャッターを押す度に〈バックトゥーザフューチャー〉の「チャー」と言っていたから。
「そう。だいたいデザイナーってのがいるんだ。表紙とか全部デザインするんだ。こちらは撮るだけ。あとはデザイナーのセンス。信頼している人だから大丈夫」
「どんな風になるのかが、楽しみです。赤ヒールの効果も」
ヤハタアカが両肩を竦めながら言った。すると肩にミディアムヘアが当たって、髪の毛がふわりと持ち上がり、曲線を描いた。そこを撫でたくて仕方がなかった。勿論、我慢した。
「長い時間、本当にありがとう。打ち上げがいるほどの長丁場だったね」
軽く言ったつもりが、この言葉にヤハタアカが食い付き、別日に三人で打ち上げをする約束をした。
そこから2週間で女優全員の撮影を終えた。やはりヤハタアカだけが一際ハードな撮影だった。
毎度、華やかな女優に会うたびに心はふわふわした。自分は生粋の面食いか? と自問自答したが、好奇心に占領されたのはヤハタアカだけだった。
撮った全てのデータをデザイナーに託す。直接デザイナーにそれぞれのテーマを伝える際、ヤハタアカの説明の語気が強くならないように気を付けたのは余談だ。
打ち上げはスタイリストおすすめの焼肉屋になった。
しかし、当日、スタイリストが急な仕事で来れなくなった。
ヤハタアカはわざわざスタイリストとのラインのやり取りを見せてきて、証明してきた。
2人っきりになるとあからさまに緊張した。しかし高揚感に似た鼓動は心地よかった。
〈エッググッドゴッド〉の撮影を終えた僕は好奇心を止める必要がなかった。
自分を主張することよりも、ヤハタアカを知りたい。それだけだった。
ありとあらゆることを尋ねた。
2時間が経過したころには、綺麗に剥がせないシールの煩わしさについて尋ねていた。ヤハタアカはどんなことにも楽しそうに答えた。
「最初はゆっくりと剥がして、あっ、これちゃんと剥がせる系だと思って、そこから勢いつけたら、ビリってなって、剥がせない系かーって。最悪ーってなりますよね。チャーさんもそうでしょ?」
ありふれた日常を話しているヤハタアカの話を、ソファーで寝転んで聞きたい。そして、これが日常になることを望んだ。しかし現段階で、これが非日常であることに泣きそうになった。
ヤハタアカの何気ない仕草は胸ぐらを掴むように、僕の感情を脅してきた。
翌週、スタイリストと3人で改めて打ち上げをした。それからは、2ヶ月で4回、2人で食事をした。誘ったのは、最初の3回が僕、直近の食事がヤハタアカからだった。
仕上がった〈エッググッドゴッド〉を見た彼女は「ありがとうございました。初めて女優としてやっていける気がしました。本当にありがとうございました。今までドラマ、映画、雑誌にチラッと出るくらいで人数合わせにしか過ぎないし、自信なんてなくて家族にも言わなかった。でもチャーさんが撮ってくれた写真を見たとき、初めて自分が作品になれた気がしました。そして作品の力になれた気がしました。家族に自慢できます。ありがとう」と言ってくれた。
最後に敬語ではなく、「ありがとう」と言った姿はミュージックビデオのワンシーンみたいだった。
ヤハタアカが言った通り、〈エッググッドゴッド〉の仕上がりは予想以上だった。デザイナーとの意志疎通も完璧。10人の女優それぞれが目立った。
さらに、表紙は手書きのフォントで、一文字ずつ色を変えて〈エッググッドゴッド〉と大きく記していた。それがネーミングのダサさを華やかにしていた。
「こちらこそありがとう。あと、赤のヒールはどう思った?」
デザイナーは見開きで左のページに写真9枚を組み合わせ、右のページは最後に撮った赤のヒールを履いた写真を単独で載せた。背景と空が変わっていくのは美しかった。
「とても良かったです。左のページは子供時代の思い出でアルバムみたい。右が大人になった今。だから写真が1枚しかない。勝手に、こんな風に受け取りましたけど合ってます?」
「おれもそう受け取ったよ。全く同じ解釈。デザイナーには意図を聞いてないからわからないけど。そうゆうのを聞かれることを嫌がるタイプだから。解釈はご自由にってタイプなんだ」
「本当に素敵でした」
同じ写真を見て、同じ解釈をした。こんな単純な出来事を味わっている心は、複雑にうねっていた。

三人目は33歳の会社員。
ヤハタアカと出会った数日後だった。
夜、アシスタント時代の同期に誘われてバーに行くと女性が二人いた。
どうやら同期は一人の女性に好意を抱いていた。気を利かせて、もう一人と会話をした。
それが1つ年上の33歳の会社員だった。
彼女が勤める青山のオフィスビルが、事務所と近いことが分かり盛り上がった。
「そのオフィスビルってもしかして、家具屋のアクタスの並びじゃない? おれの事務所、すぐ近くにある」
「そう! そこのビルに勤めてる。すぐ近くなんだ! すごい偶然。……え? アクタスって、アルファベットでA、C、T、U、Sの?」
「そうだよ」
「家具屋なの? 入口、観葉植物しか置いてないから植木屋さんかと思ってた」
「あー、確かに入口、植物しかない」
ネイビーのパンツに、第一ボタンまで閉めた白のブラウスをタックインしている彼女は、色気というものから遠い気がした。ただ両目を閉じて笑う姿が、妖艶だった。視界を閉ざしてまで笑う姿は隙だらけに見えて、胸の谷間をちらつかせる女性よりも遥かに強い色気を醸し出していた。この珍しい色気を、勝手に「珍色気」と心の中で呼んだ。
ちんいろけ。
響きが変でニヤけてしまうと、「何がおかしいの?」と問われ、説明できる自信もなければ、するつもりもなく「今が楽し過ぎて。幸せ過ぎて」と適当なことを言うと、彼女は頬を赤らめた。
そこを舐めたら、頰の赤みが取れて、昔のかき氷を食べた後みたいに舌が赤くなるのかなと変な想像をした。
珍色気は僕に珍思考をもたらした。
ちんしこう。
またニヤける僕に彼女は何も言わなかった。いつもより酔っているせいで、僕は変になっているかもしれない。正常の状態で珍色気を感じられるのかを調査したくなった。
それから2ヶ月で15回、食事をした。誘いは全て彼女からだった。ただし、全てが昼食。昼休みの彼女に呼び出されランチをしたり、コンビニで買ったサラダなどを事務所に持って来て、作業をする僕の横で食べていた。食後は必ず「ここに来ればコーヒーが無料で出るから嬉しい」と遠回しにコーヒーをせがむのである。
やはり両目を瞑りながら笑う彼女。まるで、お腹を見せる犬みたいに無防備だった。
昼、素面の僕は彼女が目を閉じて笑っている隙に、唇を凝視していた。そこを舐めると、唇の赤みが取れて自分の舌が赤くなるのを想像していた。珍思考。やはり、珍色気。

21歳の女子大生。
27歳のヤハタアカ。
33歳の珍色気。

何も隠すつもりはない。
僕は三人全員を好きになっていた。
複数の女性と同時に交際する人の気持ちを初めて理解してしまった自分がいた。
極論、三人を合体させて一人にしたかった。そして、その一人を愛したいと思っていた。
全員に気持ちを伝えたかった。
それぞれと好き合う気持ちに溺れたかった。
何度も抱き合って、寝る時間が勿体ないと思いたかった。
三人を思うと自分にしか分からない感情に襲われた。
変な夢を見て、寝起きに夢占いを調べたい。
夜道、消えかけの街灯を見て泣きそうになりたい。
不安になって、不安になって、頭がおかしくなって、眉毛を全部剃ってしまうほど壊れたかった。
全員が魅力に溢れて、一人を選べない僕は最低な男である。
決して「三人、同じくらいに好き」、という甘い考えではない。
それぞれに対して、それぞれの好きがあった。

女子大生に対しては、彼女の期待に応えたい気持ち。
食事に行く度に、僕と行きたい場所を言ってくる彼女。
「一緒に浅草で人力車乗りたいな」「恥ずかしいから嫌だよ」
「高野山のぼりたい」「頂上で写真撮らせてよ」「一緒に撮ろうよ」
「群馬とか行きたいな」「なんで群馬? とか? って何?」「車で遠出できたらどこでもいい。遠出するのにベストな場所ならどこでも。サービスエリアとか楽しそう。理想ばっかり言ってごめんね。こうやってご飯いけるだけで嬉しいから。仕事忙しいもんね。まぁいつか休みがあったら連れてって」
僕は彼女の理想を実現できる立場なのだ。
願い事を叶えられる魔法使い。
彼女に仕えたい。
そして「好き」が芽生えた。
彼女が僕に好意を寄せてくれていることは分かっていた。彼女がそれを具体的な言葉で伝えてくることはなかった。
万が一、伝えられていたとしたら許諾していたかもしれない。
むしろ、ヤハタアカと珍色気に出会っていなければ、3回目の食事で自分から気持ちを伝えていたに違いない。店を出た後に彼女が「明日大学休みだし、私は帰らなくてもいいと聞いております」と言ったときに。
僕はすぐに、ヤハタアカと珍色気の顔を思い浮かべて、「誰から聞いてるんだよ」と笑って誤魔化しながら思い付いたように「仕事あるから」と言って、彼女を帰した。

ヤハタアカに対しては、学生時代に味わうような純粋な「好き」だった。
偶然手が触れて動揺したり、共感する度にやたらと嬉しかったり、沈黙に焦ったり、過去に嫉妬したり。

珍色気に対しては、僕はまともではなかった。
僕は変態ではない。しかし彼女を舐めたいと思い続けていた。本当に変態ではない。でも色味がある部分を舐めたい。やはり僕は変態だ。ノーマルではない。珍色気は僕に、僕の新たな一面を分からせた。そもそもノーマルの基準は分からない。自分の変態の一面を隠すことがノーマルなのかもしれない。そうなれば、珍色気を舐めたい気持ちを、隠している僕はノーマルだ。やっぱり僕はノーマルだ。
僕を変態にしてくれる珍色気が「好き」だった。

自分の気持ちが整理できずに、誰も、食事に誘えなくなってしまった。誰を誘ったらいいのかが分からなかった。自分の直感がどこかに隠れているようだった。
そんな矢先、人気急上昇中のとあるロックバンドのCDジャケットの依頼が来た。事務所のスタッフから、「うちのボーカルが〈エッググッドゴッド〉を見て、感動したようで、是非、ジャケットをお願いしたいと。ただボーカルは、自分たちを撮って欲しいのではなく、アナタが撮った女性をジャケットにしたい、と言っています。どんな写真でも構いません。CDも聞かなくていいくらいです。いかがでしょうか?」と言われ、二つ返事で引き受けた。
信頼されている。嬉しかった。
しかし、あまりにも自由度が高過ぎてイメージが湧かなかった。隠れたままの直感。
次の日、ヤハタアカに食事に誘われた。5回目。しっかり数えている僕は少々気持ち悪い男だ。
いつも通り他愛もない話をしているとヤハタアカが、人差し指でテーブルの縁をなぞりながら言ってきた。
「チャーさんと出会って、仕事へのモチベーションが大きく変わりました。私が女優として売れたら、絶対にチャーさんに専属カメラマンになってもらいたい。『ヤハタアカの専属カメラマンです』って挨拶するだけで、周りの人に『すごーい』って言われるほどの大女優になりたい」
「うん。絶対になって欲しい。『ヤハタアカの専属カメラマンやってんだよ』って自慢したい。させてよ」
「絶対になります。チャーさんの期待に応えたい」
これは、女子大生に対する僕の気持ちと似ていた。
「楽しみだ」
「チャーさんと食事に何回も言ってるのに毎回とても緊張します。なんか慣れない。ずっとソワソワ。チャーさんの昔の恋愛話とか聞いて、ヤキモチみたいなものを感じたし」
「それは聞かれたから答えただけだよ」
「そうだけどー。そうだ! 一回もつ鍋食べに行ったとき、鍋の中で、チャーさんのお箸と私のお箸がぶつかったの、覚えてます?」
「あー、なんかあった」
「たかがあんなことで私、ドキッとしましたからね」
これは、ヤハタアカに対する僕の気持ちと似ていた。
「煮沸消毒されてるから大丈夫だよ」
「そんなんじゃなくてっ。あと、チャーさんの匂いが、異常にたまりません」
「匂い?」
「うん。〈バック・トゥ・ザ・フューチャー〉のTシャツ、自前でしたよね?」
「あっ……バレてた? ごめん」
「最初着たとき、古着って聞いてたから、古着屋さんの匂いか、前に着てた人の匂いかなって思ったんですけど、撮影の日に何度か近付いた時に同じ匂いがして。私、鼻とっても利くんです。実はその匂いが最初からすごく好きで。落ち着くとか、そんな浅はかなことじゃなくて、『これこれ。この匂い』って思ったんです。『これこれ』って思う方が浅はかか」
「おれ匂いするんだ」
「臭いとかじゃないですよ! むしろほぼ無臭ですよ。でもなんかその匂いを記憶してからは、チャーさんと会う度にもう変になって、その匂いに包まれたいって思ったし、なんかチャーさんの身体の周りの空気だけを持ち帰りたくなったり、自分が自分じゃなくなるようで」
これは、珍色気に対する僕の気持ちと似ていた。
「どんな匂いなんだろ」
「普通の人からしたら無臭なんで安心してください。とにかく好きなんですよ。チャーさんのことが。チャーさんのことが好きなんです。チャーさんのことが好きなんですよ。二回目、ドン! 誰よりも群を抜いて。私とどうにかなりませんか? ……変な言い方。付き合ってくれませんか?」
女子大生、ヤハタアカ、珍色気の三人それぞれに僕が抱いている気持ちを、ヤハタアカは一つの束にしてぶつけてきた。
返事を待っているヤハタアカはテーブルの縁をなぞっていた人差し指で、水滴がついたグラスをなぞった。そして、僕の目を見ながら濡れた人差し指の腹をこちらに向けてきた。
この行動の真意は分からない。照れ隠しで、ただふざけただけなのか。
直感だった。
CDジャケットはこれに決まり。画角は、濡れた人差し指とヤハタアカの顔。そして、奥にテーブルがあり、その上に僅かに見えるように肉まんを置く。指が濡れてる原因は肉まんの蒸気。インパクトがあって、可愛げがあって、ポップ。
「決まりだ」
「決まり? 何がですか?」
「CDジャケットの依頼があって、それをキミでお願いしたい」
「本当ですか!? 嬉しい」
「でも僕は自分の恋人をモデルに起用するようなカメラマンにはなりたくない。だから付き合えない。ごめん」
「あっ……」
「だから、その仕事が終わってから、付き合って欲しい」
「あっ、えっ、はい」
「よし、決まりだ」
僕は手を差し出して、ヤハタアカと握手を交わした。

後日談。
女子大生から「彼氏が出来ましたー! 同じ大学の人から突然告白されて、付き合うことに! だから、これからは連絡できないです……!」とラインが届いた。
珍色気とは変わらず、昼に何度も会った。
「私の彼氏がさ、今度会ってみたいって」
「え? おれに? え? 彼氏いんの?」
「いるよ。あれ、言ってなかった? で、『昼休憩に、いつも事務所に居座らせてくれるカメラマンがいるの。ちょっと変な人だけど、面白いよ』って言ったらさ、『会ってみたい』って」
「じゃ、今度、ごはん行く? 晩ごはんにしよう。おれたち昼ばっかりだから。そうだ! おれの彼女になる人を連れていくよ」
「彼女になる人!? なにそれ!?」
青山の事務所に、すっかり慣れた自分が嬉しかった。