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魔法

【元カレ】

4年前に別れた元カノが前から歩いてきた。ミナだ。
手を挙げて合図をすると、すぐに俺に気が付いた。
ミナは後ろを向いて、照れた顔を隠した。そのせいで俺は少しだけ緊張した。でも何食わぬ顔でいることが大人の男の立ち振舞いだと思った。

「ミナ! 久しぶり! すごい偶然。何してんの?」
「あ……久しぶり。えーっと、お茶してた」
「昼飯食った?」
「まだ」
「じゃ一緒に食べようよ。美味しいイタリアン食堂を知ってるからさ。久しぶりに話したいし」

店に入り、日替わりパスタを2つ注文した。
この店はチェイサーが、ガス入りかガスなしかを選べる。店員に尋ねられ、無論ガス入り。

「仕事は何してんの?」
「銀行」
「変わってないんだな。今はどこ住んでるの?」
「広尾」
「あれ? 前は確か池尻だったよな?」
「うん」
「そういえばもう27歳じゃない?」
「そう。27歳」
「そうか。俺の3つ下だもんな。俺は30歳。やべぇーな。もう30。なんか大人になったよな。なんも変わらないけど。あの頃はミナ、社会人1年目だったよな。ってかさ、ミナ、なんか緊張してない?」
「いや、してないよ。大丈夫だよ」
「まぁ俺たち久しぶりだもんな」

緊張していることを指摘したことが、ナンセンスな気がして後悔した。
でも緊張を誤魔化し強がるミナを見ていると微笑ましくて、笑えてきた。

「今は彼氏はいるの?」
「あのね……本当にさっき別れた。ついさっき。さっきカフェで別れ話が終わったところ」
「え!? さっき!? なんで!?」
「うん。さっき。なんか、疲れたみたい。私と付き合うことが……」

ミナは傷付いている。
失恋というモノは、私的には大それたことだが傍から見れば、とある出来事に過ぎない。
それを分かって欲しくて、声を出して笑った。つられてミナは笑顔になった。
さらにミナに言葉を与えて、癒すことが、俺の役割。別れて4年が経った俺たちはいい関係を築けるに違いない。

「恋愛ってさ、マラソンみたいなものでさ。スタミナなんだよな。最初からハイスピードだと、完走できないよ。きっとミナとその彼はペースが違ったんだよ。だから別れるべくして別れたんだよ。気にすんなよ。元気出せよ」
「…………なんか元気出た。ありがとう。再会できて良かった。お互い幸せになろうね」
「これからは、なんでも言い合える良き友達として会っていこうよ」
「そだね」

明らかに表情が晴れるミナ。
30歳になった俺は、大人の男に成長できている気がした。


【ミナ】

彼に正式にフラれた。
恋人期間は僅か半年。
以前から別れ話が続いていて、今日決着がついた。
要は、別れたい彼、別れたくない私。
初めて「別れたい」と言われたのは9日前、彼の家で。理由を聞くと「ミナのことが嫌いとかではなく、なんか付き合うことに疲れた」とのこと。それならハッキリと「好きじゃない」と言われた方が諦められると思ったけど、それは単なる嘘で、最も聞きたくない言葉だった。
別れたい理由が、疲れたなら、まだしがみつけると、ひたすらに「嫌だ。別れたくない」と言った。むしろ、それしか言えなかった。
別れたくなかったから。
好きだから。
とても単純なことだった。
私の少量の語彙力で、無理矢理言葉にするなら「今回の恋愛は過去最大級であり、次元が違う」だった。やっぱり語彙力は僅かで、幼稚さが全開だった。
結局その日は、私の「嫌だ。別れたくない」の一点張りで決着がつかず、家に泊まらせてもらうことになった。いつもは彼のベッドで一緒に寝たけど、この日は「おれはソファーで寝るから」と決意の強さを感じた。「それなら私がソファーで寝る」と言うと、「いや、いいからベッドで寝ろよ」と口調が少し強かった。
初めて彼の家に行った時はまだ付き合っていなかった。
27歳、同い年の私たちは「そういえば、『タイタニック』を見たことがない」と盛り上がり、一緒に家で見た。タイタニックが終わると深夜で終電の時間は過ぎていた。
彼が意味もなく首を回して腰に手を当てて、「泊まってく?」と言った姿がとてつもなく可愛かった。その前に、「終電ない。どうしよう」と、とてつもなく白々しく言った私も我ながら可愛かった。そして風呂を借りた後、彼が「ベッドで寝ていいよ。おれはソファーで寝るから」と言った。だから「申し訳ないよ。私がソファーで寝る」と反論した。すると、「なら、一緒にソファーで寝るか?」と聞かれ、「うん」と笑うと、「ってか、それなら一緒にベッドで寝た方が広いからオススメだよ」と、ベッドで並んで寝た。緊張した私は左向きになり、彼に背中を向けた。すると後ろから腰に手を回された。照れと戸惑いと喜びを隠すためにタイタニックのポーズをしようと両手を広げようとしたけど、左向きに寝ているせいで、右手しかできなかった。好きな、2人の些細な一コマ。
結局、その日に付き合った。
そんな淡い思い出に浸りながら1人でベッドに入ると、皮肉にも心地よかった。寝返りついでに、枕に顔を埋めたけど、彼の匂いを感じ取られなかった。そこで初めて自分が泣いて鼻が詰まっていることに気が付いた。涙はまだ出ていなくて、泣くときって先に鼻水が出るのかなって無駄なことを考えた。
朝起きると、まるで昨夜の別れ話がなかったように、日常だった。
やっぱり彼の寝癖が好きで、寝起きの少しむくんだ顔も好きで、167センチの私と同じ身長も好きで、いつもみたいに抱き付きたかったけど、多分それは駄目で、我慢せざるを得なかった。
別れ話の続きを言い出すのはどっち? と勘繰りながら、他愛もない話をした。別れ話は再開することなく、それぞれ会社に出勤した。
でも当然、別れ話は終わっていなくて昼休みにメールが届いた。

(今夜、また話そう。どこがいい?)
(分かった。仕事終わりに家行く)
(了解。また泊まるとややこしいから、10時になったら必ず帰ること)

固まっている決意が怖かった。
それからは毎晩彼の家で話し合いをして、相変わらずの平行線を辿り、自分の家に帰った。
何度も泣いた。彼が「もう諦めてくれよ」と呟いた時は、泣きながら叫びたくなった。
自宅の風呂場では毎晩、シャワーの勢いを強くして、口の中にお湯を突っ込んで大声を出した。
7日目にふと、私たち別れ話をしているけど毎晩会ってるじゃん! 以前より会えてるじゃん! こんな関係でもいい! 別れ話を毎晩する関係でもいい! とポジティブな考えにもなってきた。ランナーズハイならぬ、別れ話ハイ。それほどに会いたいと思わせる彼が凄くて、褒めたくなって、頭を撫でたくなった。勿論、そんなことはしたら駄目で。
そして8日目の金曜、話し合いが終わって、彼の家を出た直後、メールが届いた。

(明日はカフェで話し合おう)
(わかった。どこがいい?)
(じゃ表参道の一度行ったカフェにしよう。骨董通りのドトールの並びの)
(あっ! やたらと高い焼肉屋でお肉食べて、デザートも食べようとしたけど高いからやめて、それならどこかのカフェでスイーツ食べた方が安上がりって言って、寄ったカフェでしょ!?)
(じゃ昼1時で)

私たちの思い出に触れてこなかった彼が怖かった。共有しない意志が恐ろしかった。
カフェに着くと、店内の中心のテーブルに彼がいた。土曜日の昼過ぎ、店内は程よく混雑していたけど、窓側のテーブルも空いていた。それでも、ど真ん中に居座る彼を見て、私が泣かないための対策だと深読みしてしまった。
メニューを見て、抹茶ラテを注文しようとした。でも呑気な飲み物に感じて、あまり好きではないホットコーヒーにした。
角砂糖を5個も入れて甘くしてやった。全てが溶けず、底にザラザラとした感触がスプーン越しに伝わってきた。それを飲むことを想像すると、憂鬱になった。
彼はすでにアイスコーヒーを飲んでいて、ストローをくるくる回して氷の音を鳴らしていた。これは彼の癖。厄介なほどに好きだなと思った。

「どう?」
「どうって聞かれても」
「おれは疲れた。別れたい。一人になりたい」
「嫌だ。別れたくない」

いつもと同じやり取り。
唯一違ったのが、「嫌だ。別れたくない」の私の言葉が、一瞬で消え去ったこと。
彼の部屋でこの言葉を発すると、宙に残る。他に物音はなく、聞こえる音はそれだけで、空気にも溶けず、床に溜まっていき、部屋が淀んだ。そして憂鬱になる。

「おれはミナにも別れ話にも疲れた。頼む。本当に別れよう」

カフェの空間は恋人のいざこざごときでは淀まなかった。たくさんの客は変わらず過ごしている。
斜め前の4人組の女子大生。3人はパンケーキで、1人だけが苺パフェ。
パンケーキの3人はスマホで何枚も写真を撮って。
苺パフェの彼女は、早々と食べ始めていて。
そんな彼女の意志が強くて。
それが私を不安にさせて。
何故か彼女を守りたくなって。
パンケーキの3人が悪者に見えて。
でもそんなはずはなくて。
苺パフェの彼女も同じだけ笑って、同じだけ話していて。
心の底から安心して。
泣きそうになってきて。
でも今泣いたら、彼と別れるのが嫌だと思われそうで。
この涙を説明するのは難解で。
だから、ぐっと堪えて。
周りにはたくさんの日常があって。
この別れ話も所詮、カフェの雑踏の音に少しだけ厚みを出す程度で。
彼の決意は固まっていて。
苺パフェの彼女が半分近く食べたところで、やっとパンケーキの3人が食べ始めて。
やっぱり3人が悪者に見えて。
でも苺パフェの彼女は笑っているから安心して。
彼女の意志の強さに泣きそうになって。
だからもう一度ぐっと涙を堪えて。

「わかった。諦める。別れる」
「ありがとう」

彼に感謝されたことが辛くて。でもそんなことよりも即答されたことが悲しくて。必死で苺パフェの彼女の笑顔を見て泣くのを堪えて。

「お会計はおれがするから。今までありがとう。じゃ先に出ていいよ。本当にありがとう」

彼の顔が安堵に浸っていて、やっぱり彼の一重瞼が好き。耳たぶにあるピアスの穴みたいなホクロが好き。ストローをくるくると回している姿が好き。ストローを持つ短くて太い指が可愛くて好き。
私は彼に魔法をかけられたの? と思って。
やっぱり私は幼稚で、子供染みていて、だらしないほどに彼が好きだった。
彼への未練を置いていくように、残った甘ったるいコーヒーは飲まなかった。

「ご馳走さま。じゃ、バイバイ。ありがとう」

彼と別れることをずっと怖がっていたせいか、思っていたよりも怖くなかった。でも家に着いてから泣いてやろうとは、決め込んでいた。そして、たらふくスイーツを食べてやろうと決めた。
カフェを出てしばらく歩いていると前方から日焼けした背の高い男が歩いてきた。細長い身体がチュロスみたいだった。
するとチュロスは手を挙げた。
後ろを振り向いたが誰もないない。確実に私に向かって手を挙げている。あれ? 見覚えがある男。何故。あっ、元カレだ。社会人になったばかりの頃だったかな。

そうだそうだ、モデル体型と思って友達にもたくさん自慢していた。今はチュロスにしか見えなかった。

チュロスは私を強引にイタリアン食堂に誘ってきた。そういえば、チュロスはいつも強引だった。

そうだそうだ、チュロスが大好きだった。女同士で好きな男のタイプの話題になると「引っ張ってくれる人」と答えて、いつもチュロスの顔を浮かべていた。
そうだそうだ、チュロスと次に会う約束が決まると、すぐに服を決めた。その時点で、次の次に会う服も決まった。同じジャンルのコーディネートが続かないようにした。足りないアイテムは買った。新品はあざといし見抜かれそうだったから、一度だけ洗濯をするのが決まりだった。

パスタ屋に入るとチュロスは勝手に日替わりパスタを注文した。そして、チェイサー? お冷やのこと? を、私が苦手なガス入りにした。ガス入り? 炭酸水のこと。ガスなし? 〈ガスなし〉なら〈ガス入り〉じゃなくて〈ガスあり〉にするべきでしょ。
チュロスは仕事、自宅、様々なことを聞いてきた。

そうだそうだ、チュロスに質問されることが、私に興味を持ってくれている証で嬉しかった。今は単に無神経に思えた。
そうだそうだ、チュロスを思うと言葉が湧き出て作詞家になれると思った。今は「チュロス」しか思い付かなかった。
そうだそうだ、チュロスと会えない日があることは迷惑だと思っていた。
そうだそうだ、チュロスに会えない夜は風呂場で、涌き出る想いを食べるように、シャワーから出るお湯を口に突っ込んだ。今はシナモン味のチュロスを頬張りたい。
これから一人でディズニーランドに行って、チュロスだけ食べようかな。チュロスのキャラクター、誕生しないかな。人形が発売されても、買わないけど。

チュロスに「緊張してる?」と聞かれた。緊張するもしないも無かった。ただ生きている感覚だった。
まぁ食べ物のチュロスと話している気分で、メルヘンの世界を味わえて、少しは緊張しているのかなと思った。

チュロスが笑った。

そうだそうだ。笑うとき、鼻の下に曲げた人差し指を当てる癖が大好きだった。今は指を臭っているみたいで下品だった。
そうだそうだ、チュロスの長い指と存在感のある爪に色気が溢れて、よく見惚れた。今はただダサい指に見える。

チュロスに、さっきの別れ話を打ち明けると、やたらと笑われた。

そうだそうだ、チュロスに悩みを相談すると、とりあえず笑うんだ。そして、アドバイスをくれるんだ。当時、笑ってくれることによって心が浄化された。今はその過去が恥ずかしくて、ニヤけた。

チュロスが長々と話した。

そうだそうだ、チュロスが私に届けてくれる言葉が好きだった。今はただ長たらしくて、要点を捉えてなくて、イマイチ理解できなかった。
そうかそうか、私はチュロスの魔法にかかっていたのだ。今はその魔法が解けたのか。
そうだそうだ、いつだってチュロスに抱きつきたかった。頭を撫でたかった。今はシナモン味のチュロスが食べたくて仕方がなかった。
そうだそうだ、チュロスと付き合っていた頃も「今回の恋愛は過去最大級であり、次元が違う」と思った。
そうだそうだ、毎回思ってる。

そうかそうか、さっき別れた彼にも魔法をかけられているんだ。いずれ解けるんだ。どうせ。
そう思うと元気が出てきた。

「なんか元気出た。ありがとう。再会できて良かった。お互い幸せになろうね」

いくら考えても、チュロスの名前が思い出せなかった。
さぁ、早く、この場を終わらせて、一人でディズニーランドに行こうっと。
ディズニーの魔法にかかろうっと。