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任侠映画と組織のモチベーション

古き良き昭和の世界

最近任侠Vシネマの「日本統一」にハマっている。
現時点でも40数話続いている超長編任侠モノだ。
私は10年ほど前から任侠モノが好きになり、菅原文太の「仁義なき戦い」、健さんの「唐獅子牡丹」などを見まくっている。
ここまで任侠モノと書いてきたがいわゆるヤクザ映画と言った方がわかりやすいだろう。
好きになるきっかけはまた別の機会に書くことにするが、なぜ好きなのか?というと、任侠モノには古き良き昭和を感じるからだ。

しかし実は「仁義なき戦い」はそれ以前、それ以後の任侠モノとは違い、実録路線と言われている。
その違いは仁義~がドキュメントタッチで文字通り仁義なきその道の世界を描写しているのに対して、任侠モノは仁義、情、筋を重んじる言わばファンタジーの世界を表現している点に違いがある。
知らない人から見れば、どちらもいわゆるヤクザ映画であり、似たように感じると思うが、実はそのテーマは180度違う。
ただ共通しているのは40~50年以上も前の映画なので、音楽とか風俗とか人情含めて古き良き昭和の匂いをそこはかとなく感じる点だろうか?

抗争とそのモチベーション

ご存じの通りヤクザの世界には敵対する組織との抗争が付き物である。
ヤクザの成り立ちや歴史、その稼業(しのぎ=収入源の違い)などの説明をし出すと本が一冊書けてしまうのでそこは割愛するが、要するにビジネスの世界に例えれば競合他社との敵対が暴力に発展するのが彼らの世界であり、最後は命のやり取りをするのがこの稼業の行きつくところでもある。

もちろん現代においては暴対法の効果もあり、そのようなあからさまな暴力も抗争も極端に減っていると思われるが、それでもヤクザの矜持として最後は文字通り「命を張る」という価値観は現存しているのではないだろうか?

ではなぜ組織やメンツのために命を賭すほどのモチベーションが維持出来るのだろう?
ビジネス系noteでこんなことを書くのはいささか場違いだとは思うのだが、簡潔に言えば根底には上司たる親分と所属する組織への忠誠心があるのは明らかである。

モチベーションは金ではない

先にも書いたがヤクザ映画、とりわけ任侠モノは実は人間がこうあったらいいな、と思えるようなファンタジーの世界である。
その意味ではディズニーアニメやジブリアニメと何ら変わらない。
しかし、同じファンタジーと言っても表現が生々しい分、わかりやすい面もある。

今回、ハマっている「日本統一」という映画は実録風任侠映画と言ったところで、タッチは実録風でありながら、実態は親分子分、兄弟分の義理と人情の世界を描いた青春ドラマとも言える。

あくまでも映画の中の話しであるが、彼らは最終的には金では動かない。
いやもちろん抗争や行動の原理は金絡みである。
あくまでも「最終的には、、、」である。
もちろんリアルなヤクザには金だけで動くやつもいれば、金では動かないヤクザもいる。
その点では結局、一般社会と同じである。

しかし映画では金で敵対勢力に寝返るやつが悪役として描かれ、主人公とその仲間たちは金ではないもっと大切なものを守り、組を全国一の組織に発展させる。

何度も言うが、これはファンタジーである。
あくまでもフィクションである。
映画の中で描かれる「強い組織」は金だけでは動かない組織という建付けになっている。
しかしそれは本当に単なるファンタジーなのだろうか?

実際に企業でも本当に成長する企業、伸びる企業というのは例外に漏れずトップの才覚や人間性が素晴らしく、仕事を通じて社会貢献したいと本気で考えている人が率いている場合が多い。
企業にはそういうキーパーソンと一緒に仕事がしたい!そう考える社員が集まるからこそ、その企業は成長するのではないか?
それは本当にファンタジーでありフィクションの世界なのだろうか?
私はそうは思わない。

日本式経営を取り入れた欧米企業

ご存じの通りGAFAと言えば「Google」「Apple」「Facebook」「Amazon」を指すが、彼らの今の躍進が実は日本型経営にあることをご存じだろうか?

アメリカンハードロックの帝王「KISS」のベーシストであるジーンシモンズはアメリカでは屈指のビジネスマンとしても知られているが、彼は『GAFA』をはじめ成功しているアメリカの企業の多くが90年代以降日本式の家族的経営を取り入れている。アメリカは80年代の日本企業の成長に学んだのだ」とオフィシャルにコメントしている。

ここで言う日本式家族的経営とは個人のお金だけに依ったモチベーションではなく、共通の目的意識や社会貢献意識を持った組織力による経営を指す。

例えばオフィスの形態にしても社員と上司、経営者が分け隔てなく同じフロアーで仕事をし、また同僚とはいつでもコミュニケート出来る環境を作っている。
もちろん今はコロナ禍でもあり、リモートワークも増えているだろうが、個人は組織や上司、同僚との強い結びつきの中でモチベーションをアップさせ、それを維持していくやり方だ。
かつてのアメリカではやらなかった朝礼や始業前の体操なども取り入れていると聞く。

結局、給与額や歩合額だけに頼るモチベーションは短期的には良くても長続きしない。
例えそこで能力を発揮し、お金をたくさんもらったとしてもその社員はより良い待遇を求めていずれ離れていく。
また自社が危急存亡の折にも踏ん張れない社員を量産することにもなる。

金(給与)は社員の評価を可視化するツール

ただ企業の責任として社員が十分に暮らしていけるだけの待遇や保障は与えなければならない。
私は人間的つながりだけでタダ働きさせよ!と言っているのではなく、根底には経営者が社員に対する想いを行動と結果で表す必要があるということを言っているつもりだ。
その意味ではモチベーションは金ではないと言っても、十分な待遇を与えなければそれがモチベーションの低下につながるのは当然である。
しかし、金がモチベーションアップの全てであってはならないし、それに依存するのは間違いであろう。
その意味では金は豊かな生活を送るためのツールであると同時に社内(組織内)では社員の評価を可視化するツールであるとも言える。

現在の日本企業の多くは成果主義という制度を会社に都合の良い解釈で片務的な運用をしている気がしてはならない。
実はそれが日本の経済成長を阻んでいるのではないか?とさえ思っている。

親は子供のために、、、

話しを任侠映画に戻そう。
任侠の世界では親子、兄弟と言った疑似家族の関係性は絶対である。
それは儒教に基づいた精神だが、かつての日本はそういう関係性を重視してきた。
この「日本統一」という映画でもそうだが、いわゆる親子の盃を交わすと子は親に絶対服従というのが不文律だ。
もちろん理不尽な親も存在し、そんな場合、子は従わない忠義という価値観で敵対することもある。

しかし、映画では親は子のために、子は親のために、、、という原理、つまり組織の発展は親の器量と子の献身ですべてが決まると言うニュアンスを誇張して描いている。

つまりは疑似親子愛なのだが、実際の親子でも親が子育てをし、頑張って働くことのモチベーションは将来的に自分がわが子から経済的な恩恵を受けるためではない。それを考えても人間にとっての根源的なモチベーションはお金だけではない、ということを社会も企業も再認識すべきだと思う。

確かに任侠映画はファンタジーであり、誇張されたフィクションではある。しかし、親が子のために、子が親のために命を賭すという究極の覚悟は金の多寡ではないという表現が多くの人琴線に触れるとすれば、人にはそういう価値観を共有する土壌があるということの証左でもある。

強い組織には普遍的な価値観とチームとしての強い絆が必須であると確信している。この映画からそれを実感させられた。

どんなものからも学びはあるものなのだ。


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