親も、ただの人間だった
子どもの頃、親は絶対的な神様だった。
「この人たちと一緒にいれば、何があっても大丈夫」という圧倒的な安心感。常に正しくて、完璧。私にとって目標であり、憧れ、スーパーマン。そんな存在だった。
小さい頃、母は私の宗教だった
私は特に母が大好きだった。歌が上手で、絵も得意。母が作るご飯はどれも美味しかった。いつも優しく、怒鳴ったりしない。私のわがままを何でも聞いてくれ、私はよく甘えていた。温かくて、心強い人。そんな母の背中を、私はずっと追いかけていた。
母は30年前、今の自宅から車で30分ほど離れた市から嫁いできた。私の家族は父と母と姉、そして父方の祖父母で6人暮らし。
母は好き嫌いなく、何でも食べる。しかし唯一嫌っていた食べ物があった。それは、山形の郷土料理の納豆餅。母の地元で納豆餅は食べなかったからか、母は納豆餅を毛嫌いしていた。私は納豆餅自体、気にせず食べていたのだが、母が嫌っていると知った以上、好き好んで食べてはいけなくなってしまった。
「母が嫌いなものは、私も嫌いにならなければいけない」と思っていたからだ。なぜなら、母は神様だから。それに、母が嫌いなものを好きといった日には、母に嫌われてしまうと思っていた。
だから私は、同居していた祖母が嫌いだった。母が毎日のように祖母への愚痴をこぼすからだ。
「ばあちゃんがまた、お母さんの悪口を言ってたんだよ」。
「ばあちゃんが作る料理にはいつも髪の毛が入っているんだ」。
「ばあちゃんはお母さんに意地悪なことばっかりするの」。
私はその都度「なぜ、ばあちゃんはお母さんを苦しめるのだろうか」と、心を痛めていた。
私は、祖母がよく作ってくれた煮物が美味しくて好きだったが、母のいる食卓でバクバクと食べることはできない。夜、誰もいなくなったキッチンで、静かに冷蔵庫を開け、盗み食いをするしかなかった。隣の部屋から漏れる明かりが、私をひっそり照らしていた。
高校生になって
母は、相変わらず祖母の愚痴を続けていた。高校生になった私は、うんざりモード。「なぜそんなに愚痴ばかり言うのだろう」「何年も一緒に住んでいるのだから、こういう人だと認めて付き合っていくしかないのではないか」「家族なんだから、仲良くしようよ」そんなことを考えていた。
母はもう、完璧な神様ではなくなっていた。しかし、私の中で「普通の人」ではなかった。私よりも何かがすごくて正しくて、ご飯も洗濯も、送り迎えだって頼ってばかり。私は、母がいないと生きていけないんだ。
憧れなんだから、愚痴ばかり言わないでくれよと思っていた。
母も「普通の人」だった
私は大学進学を機に、一人暮らしを始めた。親がいない日常が当たり前になり、「母がいなくても案外生きていけるものなんだ」と実感していた。
そして周囲は恋愛、同棲、結婚の話もちらほら出てくる時期。結婚する未来も他人事ではなくなってきたとき、ふと「他人の親」と一緒に住むことを考えた。
私には無理だ。同居なんてしたくない。特に自由な一人暮らしが楽しすぎて、家族とまた一緒に住むことすら危うい。そう思ったと同時に、「母はどうなのか?」とふと疑問に思った。
母だって、嫌だったのかもしれない。
同居が当たり前の時代。嫁いびりだって、珍しいことではなかっただろう。
そして母は真面目で、世間体を気にする人だった。だからこそ一度始めた同居を、解消なんてできなかったのだろう。子どもたちに愚痴をこぼすことは、せめてもの救いだったのかもしれない。
そう思ったとき、「母も私と同じじゃないか!」と気がついた。今までは完璧で憧れで、母のすべてが正しかった。でも、本当は何でもこなせる完璧な母じゃなくて、母だって悲しむし、泣きたくもなる。同居から逃げ出したかっただろうし、義母に逆らえず、愚痴も言いたくなる。私と一緒じゃないか。
「家族なんだから」で、まとめてはいけない感情があった。だって、家族といえど、他人の集まりだ。「家族なんだから、仲良くできる」のが、当たり前なんかじゃなかったんだ。
「母は普通の人」という事実に気づいた瞬間、この20年間抱いてきた幻想との別れがやってきた。しかし、それをあっさり受け入れられるくらい、どうやら私も大人になったらしい。
それまで祖母の愚痴にうんざりしていた気持ちも、何だか申し訳なくなった。母も普通の人なのに、私は母の苦しみに寄り添った返事ができていなかったように思う。今度の電話ではとことん愚痴を聞いてあげよう。
愛おしい、一人の人間
そんな母とは1年前、家のベッドで最期のお別れをした。神様ではなく人間なので、当然死を迎えるのである。医者から1〜2か月だと宣告をうけ、それから自宅で看取る準備をし、最期まで家族でケアに努めた。余命宣告は残酷なようで、お別れの準備期間を教えてくれる、ありがたいものでもあった。
母が今からこの世を旅立ち、もう戻ることはないのなら、旅支度をしなければならなかった。
つまり、物の整理だ。部屋には母の物が多すぎた。母から、捨てないでほしいという大事なものを聞きとり、捨てるのか、売るのか。はたまた姉や私が使うのか。さまざまな物の確認を取った。大量にあったバッグや衣類を一つずつ母に見せ、選別し、売りに行く。
その片付けの中で、一つの箱を見つけた。クローゼットの奥に隠されていた薄ピンクで長方形のクッキー缶。嫌な予感がした。急に上がった心拍数に心臓が苦しそうにしている。
これはまさにパンドラの箱。母の人間味に触れてしまうとすぐに理解した。場合によっては姉にも、父にも、見られてはいけないように思った。ショックな内容だったら、私が責任を持って隠し通すことにしよう。
心臓に空気が届くように息を吸い込み、吐く。そして蓋を開けた。
中にはメモ帳、便箋。姉と私が、子どものころに書いた絵や手紙。
ページをめくると、私と同い年、28歳の母がいた。
そこには、嫁いできてからの孤独が吐露されていた。SNSもない時代。心優しい母は、このつらさを紙に打ち明けることしかできなかったのだろう。
第1子の姉を妊娠中、初めて母になる前の気持ちも綴られていた。孤独だった母は、早く姉とお話しがしたいと願っていたようだ。メモのなかの母は、32歳で終わっていた。もしかしたら、第2子である私を妊娠・出産したことで、忙しくなったのかもしれない。
完璧なんかじゃない、不器用な一人の女性、一人の母、そして一人の人間がそこにいた。
母はこんなにも弱くて、小さくて、それでもこの人生を、踏ん張って生きてきたんだ。抱きしめたら壊れてしまいそうで、でも触れなきゃ崩れてしまいそうな、脆い小動物のようだった。
母の綴る言葉に心臓を握られ、喉がギュッと苦しくなる。その瞬間に頬が濡れた。
ベッドに向かい、母にひっそりと箱の話を耳打ちした。すると焦ったように、「お父さんには見せないで!」と言った。その約束は今もしっかり守っているから安心してね。
親はもう、神様なんかじゃない
母は59歳でこの世を去り、父はもうすぐ65歳になる。
増える白髪に、物忘れ。「しっかりしてよ!」「それ、前にも言ったよ?」
と、だんだん私が親に注意することも増えてしまった。
親は絶対的な神様ではなくなった。
「この人たちと一緒にいれば、何があっても大丈夫」という圧倒的な安心感は、ずいぶん減ってしまった。たまに間違って、不完全。私にとっての目標や憧れは今や違うところにある。
でも、だからこそ、人間なのだ。だから私は心から、精一杯、彼らが愛おしい。
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