[読書雑感]真渕勝『行政学[新版]』
少し前に、真渕勝『行政学[新版]』(有斐閣、2020年)の気になった個所をパラパラと読みました。
(chapagiは法律学はともかく、政治学・行政学に関しては何ら専門的な教育・訓練を受けてはおりませんので、以下は素人の感想の域を出るものではありませんことをご了承ください笑)
真渕先生の教科書は、旧版の頃から、「社会科学としての行政学」(同書・序章)を目指して、行政に関する様々な論点・トピックに関して、実証的・客観的な分析がなされており、非常に読み応えのある書物です。
行政学という学問の性質上、一般には馴染みのないような事柄も多く取り上げられてはいますが、真渕先生の軽妙洒脱な筆致により、600頁というかなり大部な教科書ではあるものの、(法律学の教科書と比較して笑)結構サクサクと読み進めることができます。
また、chapagiは法学部を卒業しているため、あまり社会科学的な方法論に関する教育を受けておりませんでしたが、同書の序章では、「因果的推論」、「観察可能な含意(observable implications)」、「反証可能性」などの社会科学的方法論の基礎的なキーワードが端的にまとめられており、その他の行政学や公共政策学の教科書を読むうえでも非常に参考になりました。
さて、真渕先生の教科書には知的好奇心をくすぐられるような多種多様な論点が解説されているのですが、chapagiは、「公共的人間」(public person)という概念に非常に興味をそそられました(同書190頁-196頁)。
「公共的人間」という概念を知るためには、まず、この概念が前提あるいは批判的検討の対象としている「経済的人間」(economic man)や「経営的人間」(administrative man)について知る必要があります。
「経済的人間」とは、社会経済の事象に関する仮説検証をするうえで、人間を「全知的な合理性をもつヒト」と仮定するもので、平たく言ってしまえば、人間を全知全能の神様のようにみなすものです。
これに対して、「経営的人間」とは、人間を「全知的な合理性をもつヒト」ではなく、知識は不完全であり、将来の不確実な出来事に関する予測能力は限られており、取り得る行動の選択肢を考えつくす想像力をもたない「限定された合理性しかないヒト」とみなすものです。
「経営的人間」の概念を提唱したハーバート・サイモン曰く、「経営的人間」は、目標を可能な限り効果的かつ功利的に達成しようと心がけるため、意思決定の「意図」においては合理的ではあるものの、先に述べた「限定された合理性」しかもたないことから、決定の「過程」ではこの「意図」が完全には実現されず、またそれゆえにその意思決定の「結果」も不完全なものにとどまるとされています。
サイモンが提唱した「経営的人間」の概念は、経験的社会科学の分野では広く受け入れられているとされていますが、しかし、真渕先生は、「経営的人間」を前提とするモデルが公共空間における人間の行動を十分にとらえられているかは否かは大いに怪しいとされています。
(前略)公共的人間は、自分の下した決定が正当なものであることを事後的に説明できるように準備したうえで、決定しているからである。「過程」において、あらゆる事態を想定して決定したわけではないにもかかわらず(そもそも、そのようなことは不可能である。)、あたかもあらゆる事態を想定して決定したかのように、事後的に説明することを要請されているからである。(中略)このような人間モデルを「公共的人間」(public person)と呼びたい。-同書191頁
引用した真渕先生の定義からも明らかなように、「公共的人間」とは、「善い人間」ということでは決してありません。自らの行った意思決定を事後的に正当化する、そのような傾向をもつ人間を記述する(批判的)概念に過ぎません。
そして、ここからが真渕先生の教科書を読んでいて、「なるほどな。」と非常に感銘を受けたところなのですが、真渕先生によれば、現代社会において、「公共的人間」という概念を用いて政策策定・実施過程を分析することが重要となる契機として、次の3つの概念ないしはアイデアが重要視されるようになったことが挙げられています(同書・191頁-193頁)。
① 説明責任(accountability)
② コンプライアンス(compliance)
③ 透明性(transparency)の要請
これら3つの概念を暴力的なまでに要約してしまえば、きっちり法令を守って(コンプライアンス)、意思決定の過程を見える化して(透明性の要請)、自分の決めたことの理由やそれがもたらす影響をきっちり説明できるようにしておく(説明責任)というものでしょう。
法律学(法解釈学)の教育を受けてきたchapagiにとっては、これらの3つの概念は、現代の法の解釈・運用の拠るべき指針となる「善い」概念であって、法令が守られず、密室ですべてが決められ、釈然としない説明がなされる世界観よりははるかにましです笑
(なお、真渕先生は行政過程を主に念頭に置いていると思われるので、(司法行政を除く)司法的決定・判断の文脈における説明責任やコンプライアンスなどとはまた少し意味合いが違うことには留意が必要かもしれません。)
これら3つの概念が重要視され、「公共的人間」が幅を利かせるようになった社会では、非難の回避や社会的閉塞感、社会的要請への無関心といった弊害が生じるとされています(同書193頁-195頁)。
自戒を込めてですが、自らの下す決定や判断の基礎となる「真の価値や理念」をよく理解していないにもかかわらず、時流に流されてただなんとなく、ポーズとしてやってしまうということがありますよね(「働き方改革」や「DX」etc)。
普段慣れ親しんでいる(概念それ自体としては「善い」ものとして考案された)説明責任やコンプライアンス、透明性といった概念も、それらが現実の人間の思考様式や行動様式にどのような影響を与えるのかということの冷静で実証的な考察をすること抜きに盲目的に従うのでは、それこそ真渕先生のいう「公共的人間」に陥る危険性があるのだということを考えさせられました。先が読めない時代だからこそ、様々な政策やアイデアの「真の価値や理念」を今一度見つめなおすことが必要なのだとも思いました。
その他にも、行政や現代社会を見るうえで参考になる記述がたくさんありますので、気になる方は是非目を通してみてください。