エンターテインメントが担うべき役割
僕は中学時代まではそんなにお笑いに興味がなかった。バク天とかエンタの神様とかはねとびとかは観ていたけど、好きなテレビと言えば基本ドラマで、めちゃイケじゃなくて世界一受けたい授業を観ていた人間だった。それが高校に入ってから生活が変わって、それから急にバラエティ番組に異様にのめり込み始めた。だから、実生活がエンタメへの嗜好を左右するという感覚がある。
エンタメが実生活での鬱屈を晴らす気晴らしの機能しか持たないのであれば、エンタメはむしろ有害だろう。実生活を充実させるべきであって、エンタメに逃避すべきではない。だから、エンタメを供給する側として考えると、実生活から逃避させる機能しか持たないコンテンツは作るべきではない。
作るべきエンタメは、価値観を断定するものである。基本的に欠乏を感じている高校以降と比べると基本的に充実していた中学以前であるが、そんな中学以前でもエンタメには夢中になっていた。クレヨンしんちゃんやデジモン、ポケモン、名探偵コナン、ルパン三世などのアニメであるとか、ポケモンやロックマンエグゼ、レイトン教授などのゲーム、あるいはごくせんやマイボス、ガリレオなどのドラマや踊る大捜査線や20世紀少年などの映画である。これらはごく一部ではあるが、総じて何らかの価値観を断定する物語である。
逃避する必要がない充実した生活であれば充分だが、それでもなおエンタメが必要だとすればそれは価値観の断定的主張であるはずだ。一時的に逃避させて番組が、ネタが、曲が終わったら現実に返すのではなく、現実そのものを軋ませるようなエンタメは常に必要である。別に革新的な表現である必要はない。保守的な表現であっても十分軋轢を起こすことはできる。
そういう意味では、お笑いというのは軋轢を起こさないように笑って済ませる点で完璧に現実逃避のエンタメである。僕はお笑いは好きなのだが。
歌詞を除いた音楽とダンスも、現実を軋ませることはない。現実を軋ませるためには基本的には言語表現が必要である。でなければ、たとえ没入をもたらす凄みや周囲との一体感があったとしてもそれは曲が流れている間だけで、終わった後は元の日常に戻るしかない。僕は演奏するのも踊るのも好きなのだが。
言語によって現実を軋ませ、持続的に変容させてしまうこと。それこそがエンタメ供給者がやるべき仕事である。