東京と東京論

東京という都市はおもしろいと思う。
僕は卒論で東京について論じた。建築畑の陣内秀信と思想畑の中沢新一の著作を参考にしつつ、社会学者の吉見俊哉の著作も補助的に用いて卒論を書いた。山の手と下町の違いについて渋谷や浅草など具体例を挙げて論じたのだったと思う。
それで、彼らの著作を読んで気づいたことがあった。陣内秀信は80年代の『東京の空間人類学』においては基本的に山の手に重点を置いて論じていたように思う。中沢新一も2000年代の『アースダイバー』では山の手に重点を置いていた。それが陣内の近著『水都東京』も、数年前に出た『アースダイバー』の増補改訂版で追加された章も、明確に下町を評価する立場をとっている。吉見も完全に下町の方を高く評価している。
陣内も中沢も吉見も江戸から明治(寛永寺境内縮小など徳川時代の否定)、戦前から戦後(旧軍施設跡地が米軍施設を経てオリンピック会場に)の2段階で東京の中心は北東(上野、浅草)から南西(赤坂、渋谷)へ移動したという認識で共通している。2000年代までは高速道路建設等による暗渠化などは指摘されていたが、中心移動については特段問題視されていなかった。それがどういうわけか、2010年代以降その移動をネガティブなものとして捉え、江戸の都市構造を理想的だと見なす趣味が流行っているのだ。
そもそも中沢の論によれば、山の手には縄文以来の歴史があり、台地のへりや坂の周辺に人が集まるのは当然である。山の手の方が街として優れている。それなのに単調な低地でしかない、せいぜい400年程度の歴史しかない下町を評価するなんて何事だろうか。
ただ、気持ちはわからなくはない。山の手は下町に比べて転出入が多く、人の繋がりが希薄である。それに比べると下町は素晴らしい。下町には人情があるではないか。ということなのだろう。
とはいえ、下町とされる地域もかつてのような人の繋がりが維持されているわけではない。商店街組合も単なる補助金と政策減税の維持装置に成り下がった。
だから、僕たちは山の手を自分ごととして革命しなければならない。山の手を僕らの街にしなければならない。渋谷から活気が失われた時が東京の終わりである。おそらく、下町は家賃の安さや家屋の老朽化等から、フロンティア的扱いを受けている。ゆえに希望がない。下北的なコミュニティごっこはウンザリだ。
沖積低地に臨む洪積台地のせり出し。沖積低地へ向かう斜面。川そして池。そういう場所に腰を据えて向き合い、東京を繁栄させようではないか。

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