SHE-01

僕は過去のことを思い出していた。大学時代のこと。僕はあの時に人生を、世界を変えるはずだった。しかし、実際にはそうならなかった。僕は、戦地から撤退した。

兵士たちが前線から逃げ出していく。山の斜面をおびただしい松明が移動していくのを見たのだろうか。

僕は日々を過ごすことにした。生きるのではなく過ごすのである。しかし、何もしないわけにはいかない。それなりに将来を考え、それなりに布石を打った。本人としてはそのつもりだった。しかし、その布石が意味あるものだったのかはいまだによくわからない。体感としては、人生が下り坂を転げ落ちているようだった。

人生をもっと早くからもっと効率良くもっと正しく生きれていたら良かったと思いそうになる。しかし、僕も何も考えていなかったわけじゃない。むしろ考えすぎるくらい考えていた。高校生の頃から、高校時代のうちにやっとかないと後悔することはないかと思いを巡らしていた。むしろ人に比べれば意識は高いはずだった。だから、後悔するのは違う。人間は間違う。人生も世界も不条理だ。ほんの少しのきっかけで劇的に人生が良かったかもしれなかったが、今の結果が現実だ。ひどく怠けていたわけじゃない。自分なりにもがき苦しんで考え、それなりには動いてきた。その結果が今なのだから仕方ない。ああ、僕は今家で寝転びながら考えを巡らしているところです。

そう。振り返ってみるとそんなに変な判断はしてこなかった。今思えばあの時あっちを選んでおけば、みたいなことはあるが、それもその当時の判断としては愚かではないし、というか、その都度その時の経験や情報に基づいてかなり正確に道を選んできた。だから、道を間違えないことだけでは不十分で、やはり努力して結果を出すことが重要なのだ。道筋が正しいからと言って困難がないわけではなく、むしろ正しい道筋ほど困難である。だからそこは、戦いだ。勝って先に進むしかない。それは思考の問題ではなく、行動の問題だ。

では今の自分は戦っているのだろうか。いや、最前線にはいない。一応戦場とされる場所に踏み入れているようだけど、ここは長く戦火を交えていない場所であり、事実上休戦状態と言っていい。そんな余裕はないはずなのに。僕はまだ、勝ち取れていない。しかし、戦場に戻ろう、と思い立って自分を奮い立たせようとしても、もうそれにも慣れてしまっている。今日から頑張ろうと思っては戦場の手前で萎んでいくということを何度も繰り返した結果、意気込むということもできなくなっている。かなり深刻な病気だ。

病気だろうがなんだろうが、僕は戦場に戻らねばならない。それは揺らがない。やる気が出なくてもやる。自分をロボットのように動かす。操作する。

なぜ人は戦場に行くのか。人は単に生きたいのではないからだ。単なる生は意味がない。命には使い方がある。何も有意義に使わずにすり減らすんじゃあ本末転倒だ。だから手に入れたいもののために戦う必要があるなら、たとえ命の危険があっても戦う。そこに本来躊躇いはあり得ない。そこで躊躇うのはもう死んでいるようなものだ。

戦おう。武器なんかない。素手で戦おう。外に出て街に出よう。約束の場所に向かおう。対峙しよう。

そう。もはや楽に書くことにすら飽き始めている。文字数書けたからなんなのだろう。濃くなければ何の意味もない。でも戦い方がわからなくなってる。どうやって戦うんだっけ。社会ってどう生きたら良いんだっけ。よくわからずに迷い出てしまってる気がする。距離を取ろうとしてる。何をしているのか。ここで何を温存しようとしているのか。よくわからん。

自分の熱量の出し方がわからなくなっている。熱量の出所がわからなくなっている。だから虚な目で空っぽの文字をかさ増ししているだけ。意味のないふくらし粉。炭酸水素ナトリウム。

結局人間はインプットに従ってアウトプットしてるだけの存在のような気がする。そして、インプットとは、よほど濃いものでなければ意味がない気がする。画面越しに何かを観ても世界は変わらない。最低限自分の目で見る。でも並大抵の日常じゃなんのエネルギーにもならない。特異な高エネルギーを目の当たりにしなければ、何もする気になれない。

しかし、自分から出てくる申し訳程度のエネルギーのカケラのカケラをその1割を少しずつ表に出していって、その積み重ねで徐々にエネルギーが上がっていく、その様を見てエネルギーが上昇することはないだろうか?どれだけ緩やかにでもエネルギーが上昇していく。上昇し続ければ、いずれお眼鏡にかなう水準に達するだろうか?

水辺を眺めていると、空から流れ星が落ちてくる。水面にぶつかって、そのまま走り抜けて行ってしまった。

論争が起きている。今日日論争を間近で見ることはない。論争とはTwitterで起きる病気の呈し合いのことになっている。しかし、今ここは違う。大の大人が、唾を飛ばしながら怒鳴り合いをしている。こんなことはあり得ないのだろうか。フィクションなのだろうか?

どうしても、光のもとに行きたいのに、一歩目すら踏み出せていない。

ここで爆発が起きる。文脈と無関係に。あああれは大事だな、と一目見てわかった。ここは夢の中の世界かもしれないが、社会の描写はリアルだー。救急隊員が駆け抜けていく。きっと何人かは助からないのだろう!

大事になって欲しいと思っていた。あいつが今日ミスをした。どんな状況かは詳しくは聞いてない。あいつがミスをするなんて珍しい。非日常だ。大事になればいいな。そうしたら、俺の気持ちも少しは休まるのに。

1話3000字は書きたい。

図書館、図書館にこもって、あまり読まれていないだろう本を読んだ。夏。図書館は夏に行く場所。今は暑すぎてそんなことも言えなくなったのかな。6年前可能だったことのいくつが今も許されている?

自由になりたいかと言うと、自由という概念自体にはそんなに価値がないのかもしれないとか思う。今いる場所じゃない場所にいつでも行けることが爽快なのであって、どこにいるのかどこに行けばいいのかわからなくなることは望んでない。与えられるものがあって、そこから抜け出す権利が欲しいだけで、縛られること、固定されること自体は、前提としてむしろ望んでいるのかもしれない。それを自由なら良いんでしょとか簡単に済ませようとするのは醜悪なことだ。断固反対だ。軽蔑だ。

具体的なことを書くのは苦手だ。でも、それは密度主義を捨てられていないからだ。具体的な出来事は無駄がほとんどだ。計算されつくしてなどいない。それでも、どれだけ密度が薄くても時間が経過して、映像が撮れていってしまうのが現実。書くことはそうはいかない。筆を進めるのは自分がやるしかないから、でも、どんどん描かないといけないから、だから薄くても飛んでもどんなであっても書く。

壊す。普通を装っても何も良いことはない。勝負どころでは自分を出すしかない。社会を壊すしかない。こいつは社会を壊すと思われないと評価してもらえない。取り繕って範囲の中に収まっても誰も評価してくれない。助けてくれない。とにかく壊す。世の中結局はみ出せないやつばかりだ。悪態をつくことはできる。でも根本から壊す勇気のあるやつはほとんどいない。でも根本から壊す勇気がなければ良いと思ってもくれない。だから、みんな無理して範囲の内側に抑えてるんじゃなくて、自由にやらせても内側にこもるんだろう。僕は?僕は、無理して収めている。社会の要求とエネルギーのベクトルの向きが異なる。でも実はベクトルの向きは見られていない。大きさだけ見られている。みんなそうだ。ベクトルの大きいやつが勝って小さいやつが負けるだけだ。方向とか、そんなものはハナから見られない。

壊すって何を?壊すって何?人間は無自覚のうちにエネルギーを失うものなのかもしれない。おとなしくなっていくものなのかもしれない。持っていたものはなんだったのか、思い出すためにもまず身の回りの壁から壊す。

死ね。死んでしまえ。何かもっともらしいものを守るために途方もないものを躊躇なく犠牲にしてきたのではなかったか。僕たちは何を犠牲にしてきたのか、もはや思い出すことはできない。今の自分が何を守ってしまっているのかもわからない。だからみんな破壊するしかない。破壊したい。

可能性に溢れていると決まり文句を言われていた時からそれは偽善だと思っていた。あるのは自分の意志と理不尽な社会しかないと思っていた。大半の子供たちはまともに夢を持つこともなく高校か大学で自分の人生に見切りをつけ、就職活動でトドメを指すことを知っている。就職活動にすら至れない子供たちが多くいることも知っている。同情するつもりはない。他人だし。でも世の中そんなもんだから、逆に意志があれば上にも行けるはずだと思っていた。しかし、壊れた人間が営む社会は壊れているのだと気づき始めた。壊れていない人間と出会ってしまったからだ。だから、もう元の社会に戻る必要なんてないと早々と確信できた。社会の外が天国とは思わないが、社会の中は100%地獄だ。選択肢としては一瞬で消える。

流れを壊す。自動運動を壊す。配慮を壊す。予想を壊す。どうしようもない平準化を頓挫させる。震わす。振動させる。信じてるものを破壊する。大事にしてるものを奪う。本当の姿を見せる。絶望させるのでは不十分だ。砕かねば。ゴミを砕かねば。破砕して、焼却する。絶対に焼却してやる。

膜を破る。人間は膜に包まれてる。いつもどうでもいい膜に包まれている。それを破る。破らなければ外には出れない。まずは出る。出ようとする。破ろうとする。落ち着いてはいけない。落ち着いた人間はクソだから。腐るから。落ち着いて良いわけなんかない。破れば、何かがやってくる。

止まったものを動かすにはまず震わせるしかない。震動させる。ああキモい。なんでぬたっとした文しか書けないのか。なんで飛べないのか。

飛ばないと。リズムで書く。音楽として書く。言葉に意味なんかないんだ。リズムよく書く。跳ねて書く。ホッピングに乗って書く。座って机に向かってたまるか。平面の板に白いアクリルの板にスプレーをシャってやったような感じで書く。絵を描く。線を書く。アメリカンクラッカーのように書く。もっと乾いたはじける音を書く。ヌメっとしてたまるか。死んでしまえ。

情報が多すぎる。条件が多すぎる。シンプルに。じゃないと処理できない。適切に生きれない。エネルギーの湧き出し口を塞いではいけない。でもみんな、必死に塞いでいるじゃないか。そう。あれはヘタレだ。じゃあお前は違うと言うのか?わからない。はははこれだ。いつもいつもわからないと逃げてばかりだ。誠実なだけだ。誠実に逃げているだけだ。この世はなあ、誠実じゃないんだよ最初からな。そんなの知らない。習ったことない。ははあさては良い教育を受けているな?先生はろくでもないのばっかりだった!はっはっは。ちゃんと良い先生に教わってるじゃないか。だがねえ、それじゃ不十分だ。お前もいくらかは修行を積んできたようだがまだまだ。さっきから何を言ってる。まるで私のことを見透かしてるふりをしてるみたい。辛辣だなあ。ここまでキツいこと言われたのは初めてかもなあ。口げんかに慣れてないの?ああ俺はもっぱらハンコで勝つタイプだからな。なんのこと?いいんだよわからなくて。お前のこと気に入った。ここで働けよ。はい!ここで働かせてください!

部屋を掃除する若い女中たち。みな狂ったような音楽と赤い照明の中で踊り狂いながらとにかく部屋を掃除している。
音楽が終わるといつのまにか掃除も終わっていて、女中たちはいなくなり、部屋はおトキと侍だけになっていた。張り詰める空気におトキはどうしようもなくなる。

そろそろ脱がせてもいいかい?
えっ!なんでですか?
なんでですかってここはそういうところじゃないの?そのなんというか、その、
へっ!あっ!はー!はい!ああそうですよね!これは気が利かず失礼しました!
いや気が利かないとかいう問題じゃないと思うけど、、、
あの!あっ!わたし!
いやあお恥ずかしい話、ぼくもこういうことはなれてなくて、

それっぽい会話なんかどうでもいい。狂ったように踊る方がマシだ。むしろそっちが真実だ。赤い光、爆音、狂乱する人々。言葉なんかいらない。言葉なんかに興味はない。人間の面白いところは動きだ。光の動き、音の動き、それだけで十分だ。

だから、何が言いたいのかと言われても困る。何も言いたくない。ただやりたいだけだ。言葉はやりたくない。言いたいことなんか何もない。やりたいことだけがある。見たり聞いたりしたいことだけがある。そこに意味なんか求められても困る。そんなの参入障壁にしかならない。体裁でしかない。でも求められるものだから、用意しておこう。

赤い光が光る!赤い光が動く!音が鳴る!音楽が聞こえる!ゆらめくような音楽と体に響く光!まず光。そして音。

ぶっ壊す。でも日常は流れ続ける。日常と無関係にぶっ壊す。爆発は日常を爆破しない。ただ離れたところで爆発したらしいだけ。でも時折爆発は必要だ。爆発が起こらなければ人間が爆発してしまう。人間が爆発したところで、やっぱり日常には何も起こらないのだが。

若者が何かを求める。別にボンヤリなんかしてない。はっきりしたあるものを求めてる。希望ある若者は爆発なんかしない。でも常に爆発と隣り合わせだ。周囲がどんどん爆発する中をかいくぐって生きている。求めてるものは手に入るのだろうか?

自分が何を求めてるかそんなにはっきりわかるものだろうか。よくわからんイメージの波が押したり引いたりする中でわかった!と思っても次の日にはわからなくなっているのではないか?確かにいくつかの原則はあって、この方向に行きたいというのはあって、でもそこに向かおうとすると「え?こんな感じだっけ?違う違う。そうじゃなくてもっとこんな感じのイメージなんだよなあ」になってしまうんじゃないか。ボンヤリしたイメージを何よりも大事にしたい気分の時もあれば、クリアカットな命題への最短距離を行きたい時もある。これはなんだ。ホメオスタシスの抵抗なのか。打ち破るのみなのか。それともそこに大事なメッセージが隠されているのか。そもそも、人生の中で楽しかったことというのは、再現性がない。正確に言えば、これは楽しいこれをやれば一定以上楽しいものというのはあるけれど、それとは別にそんな気は無かったのに楽しいと思えたこと、楽しい展開に転がったことというのがある。それは全く偶発的で、条件を揃えて待つことしかできない。しかし、そういうものというのは、渇望するほどのことなのか、思い出補正してるだけじゃないかと思うこともできる。結局自分の主観、感情を明快に分析しきることはできない。ある程度の確度でなら可能だが、不確定性原理があるかのように一定以上の解像度には至れない。その繊細な揺れ動きによって感じている楽しさを大切に思うならば、その再現不可能性に立ち尽くしてしまう。

無意識のうちに、エリートでありたいと思っているかもしれない。もっと言えば、特権階級であろうと思っているのかもしれない。自分を庶民、市井の人、大衆、被支配階級としてではなく、貴族、高官、知識人、支配階級として位置づけたいと思っている。そして自他共にそう認めたい、認められたいと思っている。妄想的に知識人だとアピールしたいのではなく、他人である高官と自分の区別をつけないで社会に物を言いたいのでもなく、実際に客観的にそういう立場になりたいと思っているところがある。これは正直捨てられない感覚だと思う。だから早いとこ足がかりを掴むのが治療として最善である。

しかし!
エリート性を突き詰めていけば最終的に政治に行き当たる。政治の中でも政治思想に行き当たる。この世界をどうしたいのか、この社会をどう変えたいのかあるいは変えたくないのかという激烈な意志である。意志を人生より優先する生き方である。エリート性の極致は思想への殉死である。これは間違いない。どのような理路を辿っても同じ結論になる。言い方を変えれば社会における優位性は思想への忠誠によってのみ得られる。しかし、一般論として、社会における優位性のためにそこまで犠牲にするべきではない。社会における優位性はそれ自体だけでは価値を持たないからだ。社会が手段である以上、その中での優劣に本質性はない。かつてのような、あるいは今でも途上国を中心に残存する共同体への貢献が自明である社会の場合は違う。手段としての社会を共同体のために最大限活用するために自分の人生、幸せを捨てて社会的昇進を図ることが賞賛され得た。しかし、現代日本を展開例とする共同体消滅社会において、社会的昇進への没頭は単なる目標混乱の帰結であり、噛み砕いて言えば、高校で女子に相手にされなかったから東大を目指す式の代償行動に過ぎない。かつては尊い目的のための手段だったものが目的が消滅して自己目的化した。自己目的化を促進したのはシステムへの登録の拡大である。プロテスタンティズムが資本主義を可能にしたかもしれないが、一旦資本主義が回ればプロテスタンティズムが消えても人々は資本主義に加わらなければ生きられない。共同体貢献動機が社会的昇進ゲームを可能にしたかもしれないが、一旦社会的昇進ゲームが回れば共同体貢献動機が消えても人々は社会的昇進ゲームに加わらなければ生きられない。

だから、エリート志向というのは、不安によって作動している。だから、突き詰めて考えるとこんなもののために他を犠牲にするなんてバカげているなあと気づける。しかし、再び不安が襲ってくればエリート志向は再起動される。そしてこれを繰り返す。不安を消すことは不可能だ。だから、このサイクル全体を一つの機関として認識し、距離を取ることが大事だ。サイクルの回転は避けられない。しかし、それを毎回真に受けて真面目に対応していたら永遠に動けずに無駄な思考を繰り返すだけの人生になる。それを避けるためにはサイクルの回転と不安優位の現在のフェーズを認識した上で真面目に取り合わないことだ。

意味のあることだけ書きたくなる。会話にも意味を持たせることもできるのかもしれないけど、基本冗長。にもかかわらずコンテクストはあるから、変な留保が入ったり、その人ならではのものが入ったり、そこには組み込めないものがあったり、ややこしい。

渋谷という街の特殊性については散々書いてきたけど、その中でもマークシティという視座についてはどこかで触れておかなければならない。《明日の神話》の通路から繋がっているマークシティ。スクランブル交差点に対して引いた目線で、しかし遠ざかりはしないで見つめている。道玄坂に抜ける。円山町への出口のようでもある。「考える」という行為の象徴のような場所だ。

会話は書けるのか。書けた会話は会話なのか。それとも会話とは違うものなのか。そもそも会話とはなんなのか。会話経験と会話執筆に関係はあるのか。あるなら不利だ。

ゆい あおいちゃんは中学受験するの?
あおい うん。でも一応受けるだけ。そこの中学でもいいかな。
ゆい そっか。私は絶対私立行きたいんだ。そこの中学はあんまり行きたくなくて。
あおい そうなんだね。ゆいちゃんなら絶対行けるよ。すごい勉強してるもんね。
ゆい うん。ありがとう。

これだけの会話でも書くのに四苦八苦する。これは自然な会話なのか、自然っぽい会話なのか、自然っぽくもない会話なのか。

自分のホームとは一体どこなのか。
自分が寄って立つ基礎は一体どこなのか。
一時的に離れたとしても全く問題なく実感される共同体はどこなのか。
人間文化の最も豊かな部分はもう既に失われたのかもしれない。
自分の問題は切実だ。ちょっとやそっとのことで撹乱されることのない確固たる基盤とは一体どこなのか。
ひょっとすると、常に目の前の不快な=うまく対処できない現実に対し、別のモードを隠し球として提示してきた。でもそれは、隠し球として心を安定させる機能を果たせばなんでも良く、その全体の優先順位は実ははっきりしないのではないか。いや、そうではなく、優先順位ははっきりしているが、優先順位の最も高いものに対して全面的に取り組めていない状態になってから久しいということだ。そしてなんの目的のために何を手段として利用するかについて、はっきりしていないということだ。

障害が多すぎだろ。ゼロをプラスにするだけでも大変なのに、マイナスをゼロにする作業も同時にやらなきゃいけない。仕方ないことだ。みんな同じことをしているのだろう。そう思うしかない。誰しも同じ壁を乗り越えなければ先へ進めない。それが人生のどのタイミングかが違うだけだ。僕には僕の、放置してきた課題がある。これをどうにかしなければ先へは進めない。だから、同じところにずっといるから書きたいことがなくて当然だ。会話が書けなくて当然だ。前に向かって運動しないのだから。それにしても何もしないでいるとマイナスがどんどん加速度的に膨らんでいくな。人類も限界。日本も限界。自分も限界だ。革命が起こるだろう。革命が必要なんだ。いよいよそういう時期に来ている。何度同じようなことを言ったかと思って自分でウンザリしているが、要するに限界を迎えているから革命を起こせる。まったりゆっくりやれるのだったら革命に向かわない。本当にもう限界だ。限界だ。限界だ。全部ひっくり返さなきゃ無理だ。改善とかもう無理。全部変える。捨てる。今まであり得なかったことを始めなければどうしようもない。消極的な革命。しかし歴史上あらゆる革命は消極的に起こってきた。ストレスがなければ作品はない。軋轢がなければ革命はない。搾取がなければ独立はない。動くしかない。違う場所へ動く。吸着していたものを剥がす。よりエネルギー準位の低い場所に向かって運動する。ポテンシャルを解消する。生まれによる差別を肯定するような体制はいずれは消える。悪いけれども、甘い歴史主義に付き合うつもりはない。完全なる理想はどうでもいい。大幅に変える必要がある。ただそれだけが重要だ。何を守るべきか見誤ってはいけない。今回、これまで続いてきたもののいくつかは無くなる。今後も残したいもの、残すべきものをサルベージせよ。

これがある限りうまくいかないというものがある。それを放棄する。より重要なものを守るために。その取捨選択がシビアに行われてきていない結果が今だ。他がもっと昔に直面した課題に今さら直面しているということ自体は恥ではない。時間差はあり得る。しかしそこで狼狽しないことだ。みんなが3年前に決断したことを決断しなければならないし、他の人々が2000年前に決断したことを決断しなければならない。同じ道を辿ることはないが、同じ決断はすることになる。これ以上後回しにしたら滅びるだけだ。最悪を避けるには覚悟が必要だ。

全ての立場には一理ある。ただそれだけ。批判しようと思えばいくらでもできる。ただそれだけ。思想信条も信じることにしただけに過ぎない。追い詰められれば簡単に捨てるだろう。最後の最後は、非常に個人的な、記憶と結びついた非合理的な愛着次第だろう。何をどこまで明け渡すか、手段として魂を売るか、それはその時にならなければ明らかにならない。

大事なものはそんなに多くない。両手で数え上げられるほどしかない。片手でも十分かもしれない。地の文はある種の独白であり、科白である。地の文は科白の一種である。ある立場を否定しようと思えば簡単だ。肯定する方がいくらか難しい。ある人間を葬り去ろうと思えば簡単だ。生かす方がいくらか難しい。だから、何か勘違いがあるのかもしれない。勘違いを恐れない。肯定したいものを肯定する。肯定したい記憶を肯定する。批判することもできたが、それを選ばない。人間は究極的には受動的な存在かもしれない。しかし、その受動性について真に受けることもない。自分で勇気を出して一歩を踏み出してきた。そういうことで良い。

だから、射出から時間が経てば、弾道は衰える。再び装填されなければならない。射出口に向かわなければならない。向かうべき方向さえわかっていればなんとかなると思いたい。

主観が大事だ。自分勝手な感想を持つことが大事だ。主観が全てを決めるからだ。主観がなければ人は喋ることができない。喋らせることはできない。論文は、客観を追求する。だから論文には科白がない。地の文しかない。科白を発するもの、発させるものは主観である。主観は、社会的正義とは関係がない。

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