引舟
簑を着た三人が舟を引く絵柄を「引舟」といいます。
これは黄梅院の大綱和尚が詠んだ『引く人も引かれる人も水の泡の浮世なりけり淀の川舟』の歌が文様となっています。京都・大阪を流れる淀川で、舟を引く人と引かれる舟が描かれている絵です。いつ使っても良い文様でしょうが、蓑を着た三人が舟を引っ張る絵柄なので梅雨時の頃、教室では6月に使われることが多いです。同じ意味で、9月の時雨時にも良いとのことです。また、舟にこんもりとした荷物が描かれていたり、金砂子で風炉先屏風に描かれていたりすると、宝船を連想させるため年末年始にも使われたりします。
淀川は千利休が豊臣秀吉の怒りをかって蟄居(ちっきょ)のために堺に下った川です。見送りするなど罰せられるであろう時代、弟子の細川忠興と古田織部がひそかに見送りに来ていました、ということを本で読んだことがあります。この茶碗を見ると、淀川の広さと舟に乗っている利休、そして舟の外で利休を見送る二人の弟子古田織部と細川忠興の切なさまで感じてしまいます。舟に乗っているすぐ目の前に死が迫っている利休。弟子もまた、茶道という選択で出会った運命。どちらも浮世です。はかない世の中だなと詠っているように感じてしまいます。
表千家には引舟の好みものが2つあります。
一つは、金地の利休型風炉先屏風に引舟を描いたもので、如心斎好みとなっています。
もう一つは、掛軸で如心斎宗左と仙鶴の合作の画賛です。引舟の絵を仙鶴が描き、如心斎が和歌を書いています。絵は、近江の淀川に舟を引く人、遠くの景色に鳥居と社が描かれています。賛は、「南紀より帰るさ淀舟二乗して朧月十三日暁方男山を拝して 如心斎 居ながらに厄を拂ふや事始」
つまり、紀州徳川家からの帰り道、舟で淀川をのぼっているとき、12月13日の事始めの日の明け方に男山八幡宮の近くを通りかかった、と詠んでいます。
「淀川」という銘の茶杓も伝わっています。
表千家5代随流斎宗左が作り、不審庵に伝来しているものです。随流斎が紀州へ行く時に、淀川の舟の中てで削ったものだそうです7代如心斎が紀州で勤務している時、8代啐啄斎に贈り、9代了々斎も紀州で勤務している時に10代吸江斎に贈ったとのこと。
如心斎が替筒に、内箱は「随流斎宗左紀州へ下向の節淀川船中にての作なり」と如心斎の筆書きがあります。
外箱は了々斎の筆で「南枝花咲初たりや神無月」の句を甲書きしています。
13代家元即中斎が自作の基本とした茶杓でもあるようです。