続: 天保三年?! 「大黒天」
節山作の大黒天が気になるので、ネット検索して調べてみた。これかなという人物を2, 3見つけたが、経歴や年齢、場所を考えると腑に落ちない。
「節山、伊予、江戸時代」で検索してみた。代々父の家があったのは、伊予西条である。すると、出てきた! 場所、年代、経歴を考慮しても違和感がない!
「板倉勝明(いたくらかつあきら)」
江戸時代後期の上野安中藩の藩主。重形系板倉家7代。
1809年(文化6年)11月11日、先代藩主・板倉勝尚の長男(庶子)として生まれる。文政3年(1820年)10月27日、父の死去により家督を継いだ。文政7年(1824年)11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月26日、従五位下伊予守に叙官する。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊予守で、諡号(おくりごう)は、甘雨と節山。
確証はないけれど、板倉勝明である確率は高い。
今でいうマラソンに関連することで有名らしく、映画化もされた模様。名前検索すれば情報は出てくる。以下は、伊予や「大黒天」との関連で参考となった資料として3つを掲載。
資料1
蔵書印データベースなるものの中に、「節山」とあり。「伊予守を襲称す」ともあり、これが最初の手掛かりになった。
印主職種/時代 :武家 / 近世
人物情報 :
幼名は鶴五郎、後に百助と改める。字は子赫、号は甘雨、節山である。生没年は1809年(文化6年)11月11日に江戸神田佐久間町の中屋敷で生まれ、1857年(安政4年)に中風で死亡。大名出版の1つである『甘雨亭叢書』の編集刊行者でもある。
△上州安中城主。字は子赫。甘雨・節山の号あり。文政3年5月従5位に叙し伊予守を襲称す。聴政の余慶元以来の先儒の遺著を輯め、甘雨亭叢書48巻を刊行せり。安政4年4月10日歿。年49。(「蔵書名印譜・第三輯」による)
典拠資料:蔵書印譜(早稲田大学図書館、チ10 03869)
典拠画像URL
引用元
資料2
森鴎外が著した史伝小説「伊沢蘭軒」。「その九十七」の中に、一度だけ名前が出てくる。
安中侯節山板倉勝明撰の墓碑銘に
引用元
「伊沢蘭軒」は儒者・医家。特に関係はないだろうが、父の家も代々医家だった。父曰く、かつてはお城にも出入りしていたんだとか。
資料3
さらに、ここでも「板倉伊予守勝明(カツアキラ)は文政三年(1820年)から安政四年(1857年)まで、第五代藩主として」とあり、テンションがあがった。
とても参考になったのだが、現状キャッシュでしか閲覧できなくなっているので、ほぼ全文そのままを転載しておこう。
創作短編(43): 板倉勝明と遠足 -1/7 [稲門機械屋倶楽部]
2012-04 WME36 梅邑貫
時 :安政二年(1855年)五月
場所 :上野國安中藩と碓井峠
登場人物:安中藩藩主板倉伊予守勝明
上野(コウヅケ)の国の安中(アンナカ)、今の群馬県安中市ですが、江戸時代は上野安中藩がありました。
上野安中藩は三万石の譜代大名で、領主は目まぐるしく代わるのですが、幕末の頃は板倉家が藩主を務めました。
この物語の主人公である板倉伊予守勝明(カツアキラ)は文政三年(1820年)から安政四年(1857年)まで、第五代藩主として務めておりますが、大変な学問好きとしても知られております。
「板倉殿、今宵、我等、加番の者四名にて一献傾けとうござるが、如何でござろう」
「某(ソレガシ)、相済まぬことでござるが、読み掛けの書がござって、一献傾けるは別の折に致しとうござる」
「板倉殿は、学ばれるがお好みでござりましたのう」
「左様。寸暇を惜しみて書を渉猟しおりまする」
加番(カバン)とは、徳川幕府が大坂城と駿府城に置いた役職で、定番(ジョウバン)と呼ばれる常設の警備職に加ええて、大坂城には譜代大名四名を、駿府城には譜代大名一名と旗本二名を警備の助勢として配した役職で、任期中は役職報酬が与えられました。
上野安中藩主板倉勝明は、大名仲間で酒を酌み交わすことをも惜しんで勉学に励み、甘雨とか節山の号で自ら多数の書を著してもおり、「西征紀行」、「東還紀行」、「遊中禅寺記」、「甘雨亭叢書」、「節山詩文集」、その他の多数の自著を遺しています。
板倉勝明は天保十四年(1843年)から翌年までの一年間ほどを幕府の奏者番を務めています。奏者(ソウシャ、又はソウジャ)番とは、将軍に拝謁する諸々の者を取り次ぎ、公式の場での礼式を手解きする役目で、有能で高い知識を持っていると認められなくては務まらない役職です。
藩主から拝領した「大黒天」ということなのだろうか……。
兎にも角にも、調べてみると様々な情報に触れることができ、大変勉強になる。
感激!!
機会があれば、もう少し調べてみよう。
令和元年五月九日(2019.05.09)
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