メゾン・ド・モナコ 33
その夜、食事を終え、なずなはフウカと共にキッチンにいた。皿洗いの最中だ。ダイニングテーブルには、春風が座って新聞を読んでいる。妖や神様も、情報源は人と同じなのだろうか。彼の隣では、ハクが真似するように本を読んでいた。
ちょうど良いので、昼間気になったモナコの由来を聞いてみた。
「モナコは猫の名前だよ、友人のね。ここは、元々友人の土地だったから」
春風は新聞を畳みながら答えてくれた。
「へぇ、元からアパートだったんですか?」
「いや…僕がここを引き継いだ時に改装して、アパートにしたんだ。ここの一階は、…元はレストランだったんだよ」
「だからこの広さなんですね」
それを聞いて、不自然なリビングの広さに合点がいった。そして、想像する。このモダンな部屋が、レストランであった頃を。リビング部分はホールだったのだろう、幾つか部屋の壁を取り払ったのではと思う程の広さなので、ずっと不思議だったのだ。キッチンは、レストランの厨房にしては手狭に感じるが、もしかしたら、改装時に小さくしたのかもしれない。
「それじゃ、アパートを始めたのは春風さんなんですね」
「うん、レイジって妖が居るって言ったろ?ミオ君が言ってた、妖の取り纏め役の。建物と土地は彼が買い取って、それで僕が管理人って感じになってる」
へぇ、と頷きながら、そう言えばと、ナツメの部屋に貼ってある大きなポスターを思い浮かべた。久世レイジ、伝説と化したアイドルと同じ名前だ。まさか、日本中を虜にしたアイドルが妖だったなんて…。そこまで考えて、そんな筈はないだろうと、否定も出来ない自分がいる。
「どうしたんだい?」
春風に声を掛けられ、なずなははっとして首を振った。
いや、今は聞かないでおこう、色々と混乱しそうだと、なずなは気持ちを切り替え、話を戻した。
「いえ!あの、最初の入居者はどなたなんですか?」
春風はなずなの様子には特に気に留めず、ああ、と頷いた。
「マリン君だよ、僕がここのアパートを任されたのは、マリン君がいたお陰でもある。入居者が居ないと体裁的にもね…まぁ、未だに保ててないけど」
へらりと笑う春風に、お化けアパートと呼ばれている自覚はあったのかと、なずなは納得した。
「昼過ぎにアパートの表を掃いてた時、小学生がお化けアパートって騒いでて、」
「え、足は大丈夫ですか?アパートの周りとはいえ、なるべく一人で出ない方が良いですよ、僕がやりますから」
「あら、ナイトは過保護ねぇ」
「そういうわけでは…」
飲み物を取りに来たマリンが、からかうように微笑むと、フウカは瞳を揺らした。いつもなら当たり障りなく受け流しているのに、今のフウカはそれとは違う、これ以上聞きたくないとばかりに、手元の洗い物に意識を集中させているようだ。
その理由が分からず、なずなは戸惑ったが、このままだとフウカは居心地悪いだろうと、なずなは焦って話を戻した。
「あ、あの、それで、小学生の内の一人が何か言いたそうにしていて。ここには、ハク君もいるし、もしかして友達かなって」
「そう…」
マリンは、春風の隣で熱心に本を読んでいるハクへ目を向けた。本に集中しているのか、大きな瞳は瞬きを忘れてしまったようだ。
「そうだったら、良いんだけどねぇ」
そう力なく微笑むと、マリンはなずなへ視線を戻し、それから呟くように言った。
「ハクちゃんだけでも、人の子と仲良くさせてあげたいんだけどね」
それは、叶えようと思えば出来るものではと、なずなは小首を傾げた。妖なので年齢は分からないが、ハクの見た目は先程の小学生と同じくらいだ。子供同士なら仲良くなりやすいのではと思ったが、ふと自分の子供時代を振り返れば、自分も友達の輪に入るのが苦手だった事を思い出す。今でも苦い思い出だ。しかも、ハクは学校にも行っていない。妖の世でどんな暮らしをしてきたか分からないが、子供同士とはいえ、遊びの輪に加わるのが苦手な子供もいる。それにハクは、ミオへの憧れを話した時、自分も同じ“白だから”と言った。差別的な扱いを受けていたと想像すれば、ハクが内にこもるのも分かる。
どんな扱いを受けたのか、ハクの過去を思えば胸が痛んだ。
「あまり、無理にどうこうさせるのも、良くないんじゃないですか」
そうこぼしたのは、フウカだ。その声はどこか冷たく、いつものフウカらしくない。確かに無理は良くないが、それでもなずなは、ハクには笑顔でいてほしい。辛い思いをしたなら、今度はせめて、人の世界では楽しく過ごしてほしかった。
「…だけど、何かしてあげたいです。ずっと一人は寂しいじゃないですか」
「望んでそうしている場合もあります」
なずなは、え、と声を漏らした。フウカの声は変わらず冷たく、それに、これ以上踏み込むなとばかりに、なずなを跳ねつけるような言い方だった。
ぐっと胸を押さえつけられたみたいに苦しくて、なずなは、えっと、と言葉を探しながら、視線を彷徨わせた。フウカに否定された事が、冷たい声を投げかけられた事がショックで、フウカの顔が見れなかった。
「…お風呂用意してきます。今日は疲れたでしょう、なずなさんお先にどうぞ」
柔らかないつもの声に顔を上げれば、フウカは少しぎこちないながら微笑んだ。いつも通りの姿なのに、そこには見えない壁がある気がする。
側に居た筈のフウカが遠くに行ってしまいそうで、突然居なくなってしまうんじゃないかと、漠然とした不安が胸を埋め尽くし、なずなは声をかけようとしたが、言葉は喉にはりついて声に出来なかった。
そのままキッチンを出ていく背中を見て、なずなは追いかける事も出来ず、焦ってマリンを振り返った。
「マリリンさん、私、何かまずい事言っちゃいましたか?」
「…ううん、なずちゃんは悪くないわ、問題は私達の方ね」
「…え?」
「ここに来る子は、何かしら抱えてるから…皆、自分の事は分かってるから、だから、ああなっちゃうのよ」
「…マリリンさんも、ですか?」
「ふふ、私にはなずちゃんもいるからね」
大丈夫よ、と抱きしめられれば、騒めぐ胸が少しずつ和らいで、そんな自分が情けなくもあった。
また、慰められてしまった。マリンは、このアパートに来た理由を話してくれたが、それらが全て過去の出来事として、消化出来た訳ではないだろう。
なずなは、このアパートの皆の手助けが出来たら良いのにと思うのに、それどころか、傷を抉って、更には守られてる自分に、無力さを感じずにはいられなかった。