恥の多い生涯を送ってきました的なアレ。

最近、三島由紀夫だとか太宰治だとか村上春樹だとかいう言葉が頻繁に投げかけられるようになった。(そう。異国の地、韓国で)
それだけ、私の周りの友人が日本の文化に興味・関心を寄せいていることなのか。それは、まあ、よくわからないが。というかどうでもいいのだが、私はなんだか太宰治が中学生のころから苦手で文庫を手に取って読んだこともあるが、残る感情はただひたすらに”胸糞”この一択だった。
別に彼のことはよく知らないし、生きていく上ではどうでもいいのだが、なぜ私がこんなに太宰治に嫌悪感を抱くのか。
それは「恥の多い生涯を送ってきました」この一言に集約されている気がした。

なんなんだろうか。自己紹介的なアレ。
「いやぁ。昔はヤンチャしてて~」とか
「昔、僕は本当にクズ男で~」とか
アレ言う人ってみんなそろいもそろって「本当に人に迷惑かけてきたんですよ」みたいなことを言うのだが。
その言葉の裏にある紛れもない事実は、ただ一つ。
困らされた人、迷惑を被った人が存在しているということである。

例えばあなたが、中学時代何人かの集団にいじめられていた過去があるとして。その数年後、成人式で会った当時のいじめっ子に謝罪されたとしよう。
「あの時はごめん。俺らもガキだったからさぁ」と。
彼らの今使う”ごめん”は、『俺らの歴史の中にいじめの加害者であることが汚点であるから、謝罪して善人修正した自分を新たなライフページに上書きしよう』という意味だし、
”俺らもガキだったからさぁ”とかいう言葉に至ってはマジで、知らねぇよ。という感じである。
きっとあなたはそう思うだろう。
浸る自分、懐旧する自分、反省する自分。
自分のしてきたことを自認したしたうえでさらに、「今、自分はまともですよ」そんなことを匂わせる小賢しさ。

なんだか、それと同じ匂いを私は太宰治の「恥の多い生涯を送ってきました」という一文から感じる。
それから、自分自身の中に積もった”被害者意識”みたいなものが彼のその言葉によって、揺さぶられるのだ。

あと、よく耳にする「良かれと思って」みたいな行動のほとんどは余計なお世話だし、お前の”よかれ”はこっちの”良し”ではないことが理解できないから被害者は増え続ける。
そして挙句の果て、加害者側は人生歩きつくしたような顔をして数年後こういうのだ。
「あの時は、若かった。間違ってたよね」と。
肘が痒いのに、背中をかいてきたのはお前なんだよ。
要らないの。肘は自分でかけるので。

あれやこれやとぼやいてみたが、太宰治の
「恥の多い生涯を送ってきました」これをどう変換したら腹が立たないのか考えてみたが、

「恥の多い生涯を送っています」


これ以外に思い浮かぶものはなかった。



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