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魚を捌けるようになりたくて和食屋で修行した話

2017年、アメリカ留学を終え日本に帰ってきてから(あやまんJAPANも辞めてしまったし)芸能以外で働く事が多くなった。
幸い好奇心が強めなため、やってみたい事は多かった。

帰国して一番最初に働いたのは銀座にある和食屋だった。



帰国したばかりでまだ脳が英語に慣れているうちに英語を使う仕事がしたいなと考えていた頃。

突然Youtubeで河豚を捌く動画にハマった。
角栓を引っこ抜く動画を見てる時のような爽快感を感じた。
Youtube内に落ちている河豚捌き動画は全て見尽くし、いよいよ次の段階、自分の手で河豚を捌きたいという欲に駆られた。
が、河豚を捌くには免許が必要。


そもそも一般的な魚の捌き方も全く知らない。
当時私は魚は鱗を落とすということも知らなかった、、。

(鯛めしを作ろうとして、米と共に鱗がついたままの鯛を丸ごと炊飯器で炊いて鱗飯が爆誕したことも有る。やばすぎる。)


そしてYoutubeで“きまぐれクック“の魚の捌き映像を見まくり、河豚の時と同じく自分で捌きたい!のフェーズに入った。

魚ならすぐに家で実践できるが、たまに1、2匹買ってきて動画見ながら練習して、、ではなく、ちゃんと教えてもらって沢山捌いて上手になりたい。と思った。何故か。
そしてこの頃はそんなに魚食べるの好きではなかった。まさかの。(寿司は別)

教えてもらうだけなら料理教室で良いかもしれないとも思ったが、沢山は捌かせてもらえないだろうな、、と思い
そういう場所で働くしかない!!と仕事探しが始まった。



女、しかも初心者はホールに回されがちだが
「ホール業務ではなく、調理補助希望です。魚がやりたいです。」
と予め伝え、面接の時にも伝えた。

もちろんそれまでに受けたいくつかの店は落とされた。


やっと受かった銀座の店は、東京丸の内にも支店があり、最初私はその丸の内店で面接を受けた。

優しそうな店長が面接してくれて、丸の内店は広くて忙しいからもしかしたら銀座店の方がこぢんまりしてるのでゆっくりしっかり教えられるかもしれないです。通いやすい方、好きな方でいいですよ。とのこと。



私は銀座店で働くことにした。



銀座店の店長は26歳の若い関西出身の男の人。

店の引き出しから多額のキャッシングのレシートが出てきたり、店のiPadでキャバクラのお姉さんとのやり取りが出て来たりと、よく他の従業員を呆れさせていたけれど魚を扱う腕はピカイチだった。

店長をはじめ、従業員の皆に暖かく歓迎されてそのお店で働くこととなった。

毎日色んな魚が入ってくるが、まず水洗い(鱗と内臓処理)を教えてもらい、その後鯛の三枚おろしを教えてもらい鯛をおろす日々が続いた。


毎日沢山の鯛を捌くので腱鞘炎になって病院に通ったりもした。

大体の魚は基本的に鯛と同じく3枚におろせばいいのですぐに出来るようになり少しおろし方が違うマグロやカツオ、ヒラメも教えてもらい、その後私は太刀魚をいかに綺麗におろすかにハマっていた。(私のインスタのハイライトから見れます)

夏頃には鱧が入って来て鱧を教えてもらったがこれが1番難しかった。

店に入った時に店から買ってもらった私専用のフルーツナイフほどの大きさの捌き包丁一本でどんなに大きい魚も捌いた。


私の持ち場の右側に豆腐、左側が焼き場だったので豆腐作りと焼き魚も兼任していた。

出勤したら一番最初に準備するのが豆腐だった。にがりと豆乳を優しく混ぜて湯煎。
これを特製ポン酢で食べるのが最高に美味しい。

焼き場は夏は暑く、冬は水洗いで感覚がなくなる手を温めた。

最初は炭火でどの位焼けば火が通るのか全くわからず、脂の乗ってるサバなんて何度丸焦げにしたことか。
しかし慣れてくると私が焼く焼き魚は美味しい!とお客さんからも従業員からも評判のメニューとなったし、何度もやり直してボロボロになってしまっていた魚の串打ちも、魚がまるで小川を泳いでいるような綺麗なうねりを出せるようになった。

大変だった事といえば確実に魚の匂い問題だった。
一年中臭いが特に夏と冬が厳しかった。
レモンがいいらしい、歯磨き粉で手洗いするといいらしい、ステンレスに触るといいらしい、、色んなアイテムを試したがどれも効果は感じられなかった。

(私はこの頃から密かに魚の臭い落としグッズの開発を狙っている。まぁ車が自動走行する時代にまだ開発されていないという事はそういう事なのだろうけど、、密かに狙い続けるぞ、、)

私は臭いのは手だけだったが、長年魚の仕事をしてきている店長は全身から魚のにおいがしていて「財布まで臭いっすよ〜」と言っていた。現に店長の財布は魚臭かった。


お店の魚はとても美味しかった。
それまでハマチや光り物が苦手だったけれど、全て克服した。
今までサバなんて食べるとしても味噌煮一択だったけれど、塩焼きがあんなに美味しいなんて初めて知った。


休みの日に店の皆で釣りに行って鯵を釣りまくり、お店で次の日の賄いでアジフライやなめろうにして食べたり、賄の後はUNOで皿洗いを決めたり、皆で市場に仕入れしにいったり、その際に仕入れた小さいイシダイをそのまま店の生け簀で飼ったり、こう言ったら怒られそうだがなんだか部活動のような楽しさがあった。


釣りに行った後、活け〆に興味が出て店長に伝えると翌日生きてる鯛を仕入れてくれて神経締めを教えてくれた。 


ちなみに生け簀で飼ったイシダイは偏食で端材の鮑しかたべず、毎日鮑を食べてすくすく大きくなり、1年位経った頃に天寿を全うし供養として皆で食べたらしい。とても美味しかったと言っていた。そらそーだ。毎日鮑食べてたんだから。



調理場には店長の他にもう1人‘’まっちゃん‘’という21歳の若い男の子がいた。

黒い地毛がかなり伸びてきてる茶髪に眉毛は細く剃り上げ鋭い目つき。

一見ヤンキー感漂う彼だが、釣りに行った際には一番に船酔いで倒れ、仕事中は虫歯で歯が痛いと悶えたり、頼りないが優しくて皆んなの弟的存在であった。

そんなまっちゃんの虫歯は割と深刻そうで、前歯が黒く変色しており、遂にポンパドール(パン屋)で買ってきたパンを齧って前歯が折れるという伝説を残して彼は地元熊本へ帰って行った。



まっちゃんの名誉のために付け加えるとしたらパンの種類はコッペパンや
クロワッサンのようなふわふわな物でなく、フランスパンであった。
まあ言うてもパンだけど。


まっちゃんは地元に帰ったし、店長は同じ店のホールのアルバイトの女の子と結婚して子供も産まれて関西に戻った。
魚の匂いに悩まされながらも当初の目標は優に達成し私もお店を辞めた。

お店を辞めた後もご飯を食べに行ったり忘年会に顔を出したりしていたのだが、コロナ禍初期で残念ながら店は閉店となった。



結果:私は魚を捌けるようになり、友達も出来て、美味しい豆腐と焼き魚が作れるようになった!
上出来!



p.s
河豚熱は冷めました。



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