見出し画像

正社員辞めるピラティスインストラクターがマルクス読むと新しい性癖に出会った話 11

こんにちは、ばっきーです。
ピラティスインストラクターしてます。
マルクス資本論実況プレイしていきたいと思います。パート11です。
今資本論がそばにあり、これを読みながらメモを取っていくようにnoteをとっています。
ですので人にむけて書かれたものではないです、まして解説でもありません。
年収300万以下の正社員を辞める人がマルクスと格闘する記事になります
書いていて思ったんですけど、わかるところは書いておりません。
これどういう意味なんだろう?と疑問に思ったところを取り上げてたりしてます。
あとは自分の理解ってこれであっていますか?という感じで書いています。
ではいきますね。
______________________

資本論第3巻 p342まできました。

よーしからマルクス読むぞ―ってなって

勢いつけた時にご飯がたけたのでカレー食べて、チェンソーマン見てました。
そのままギター触りながらブルーロックみてました。

今日の一行目の文章と次の二行目の文章の間には空白の300年ほどの隔たりがあります。

_____________________________________

マルクス3巻の最後の方あたりになると、農地の解放?的な歴史を話していくんですね。

囲い込み政策の話が出てくるんですね。

僕あまり囲い込み政策の話を知らないんですね。言葉ぐらいしか。

日本大百科全書(ニッポニカ)
「エンクロージャー」の解説エンクロージャー
えんくろーじゃー
enclosure
囲い込み」と訳される。従来共同利用が認められていた土地に、生け垣、塀などを巡らして私有地であることを明示することをいう。イギリス史において、エンクロージャーが大規模に行われ、社会の大問題となったのは前後2回ある。[角山 榮]
第一次――農民的、領主的エンクロージャー
第一次エンクロージャー運動は、15世紀末から17世紀中ごろにかけて起こった。第一次エンクロージャーには二つのタイプがみられた。一つは、農民たちが共同体的規制から解放され、個人主義的農業を営むために、その分散した保有地、地条を相互の合意によって交換し、まとまった農地にする農民的エンクロージャーである。いま一つは、領主的エンクロージャーで、これは領主が主として牧羊場にするために、農民の利害を無視して暴力的に耕地や共同地を囲い込んだもので、ミッドランド地方を中心に吹き荒れ、大きな社会問題を引き起こした。トマス・モアが『ユートピア』のなかで「羊が人を食う」といったのもこのときのことである。土地を追われた農民は浮浪人となって全国をさまよい歩いた。そこで政府は、エンクロージャーによる治安の乱れと人口の減少を恐れて、しばしばエンクロージャー禁止令を出したが、これを抑止できず、そのためにエンクロージャーに反対する農民一揆(いっき)が各地で頻発した。[角山 榮]
第二次――議会エンクロージャー
ついで18世紀初めから19世紀中ごろまで続いた第二次エンクロージャーが起こった。これは改良農法の必要のために起こったもので、大地主が議会を通じて個別的にエンクロージャー法を獲得し、合法的に土地をい込んだので、これを「議会エンクロージャー」とよんでいる。議会エンクロージャーは、四種輪作法など新農法が普及し始めた18世紀中ごろから急速に増加し、都市における産業革命の進展に大きな役割を果たした。
しかし、個々の立法措置によって囲い込むことは、弁護士とか調査員、技術者の経費、垣をつくる経費などが高くついたので、その経費を少しでも緩和するため、1836年および45年の法令によって、一定の条件さえ整っていれば囲い込みできることになった。こうして、イギリス全土はほぼ完全に囲い込まれてしまい、中世以来の三圃(さんぽ)式開放耕地、共同牧草地、荒蕪(こうぶ)地は姿を消して、私有化された耕地になった。ただ、1865年以後「共同地保全協会」Commons Open Spaces and Footpaths Preservation Societyその他の自然保護団体の運動によって、北部諸州の荒地をはじめ、ウィンブルドン・コモンWimbledon Common、ハンプステド・ヒースHampstead Heathなど全国で約150万エーカー(イングランド・ウェールズの全面積の約4%)の共同地が囲い込みを免れた。
[角山 榮]
第二次エンクロージャーの影響
ところで、囲い込まれた耕地では、地代が騰貴するとともに、穀物生産のための資本主義的大農経営が行われ、農業生産力は著しく上昇した。とくに1793~1815年のナポレオン戦争時には、国内市場および軍需用の食糧需要増大を背景に、農業は繁栄し、それがまたエンクロージャーをいっそう促進した。一方、囲い込みによってヨーマン(独立自営農民)ないし小土地所有者の没落が促され、彼らは工業労働者として都市へ流出するか、農業労働者として農村にとどまった。ただ、ヨーマン層の没落については、18世紀中ごろまでに姿を消していたという旧来の説に対し、最近では、没落期をナポレオン戦争後の不況期以後に置く説が有力である。こうした農業革命の結果、イギリスの農業人口の比率は、1750年ごろには約70%であったのに、1831年には24.6%、1851年には21.7%へと急激な減少を示したのである。[角山 榮]『小松芳喬著『イギリス農業革命の研究』(1961・岩波書店)』▽『椎名重明著『イギリス産業革命期の農業構造』(1962・農業総合研究所)』


第1次囲い込み/エンクロージャ
16世紀のイギリスで進行した、地主による牧場化のための農地囲い込み。農民の離村と賃金労働者化を促し、産業革命を準備する動きとなった。
 絶対王政時代のイギリステューダー朝エリザベス1世の時期に典型的に見られる、領主および富農層(ジェントリー=地主)が、農民(小作人)から取り上げた畑や共有地だった野原を柵で囲い込んで、羊を飼うための牧場に転換したことをいう。15世紀末に始まり、16世紀を通じて続いたのこの動きを第1次エンクロージャー運動(enclosure は「囲い」という意味)という。この段階は第1次エンクロージャーという。17世紀後半から18世紀にかけて、同じような農地の囲い込みが行われ第2次エンクロージャーと言われるが、第1次と第2次では、囲い込みの理由と手段が異なることに注意する。

https://www.y-history.net/appendix/wh0904-064.html

第2次囲い込み/エンクロージャー
イギリス産業革命期に進んだ資本主義的農場経営のための開放農地の囲い込み。農民の賃金労働者化をうながした。
 イギリスの産業革命(第1次)期において、1760年頃からはげしくなり、1800から20年頃まで絶頂期を迎えた土地囲い込み運動。農業革命といわれる、三圃制農業からノーフォーク農法といわれる輪作法への転換とともに起こった、農業の資本主義化の一環である。  第2次エンクロージャーが起こった理由は、産業革命にともなう人口の増加、及びナポレオン戦争のための食糧需要増大によって穀物価格が騰貴したのを受けて、地主・農業資本家が小生産者の開放農地(共同耕地)を囲い込み、土地を独占し、資本主義的農業経営を行おうとしたことである。この結果、イギリスの農業は、広大な土地を所有する地主が、農業資本家に土地を貸与し、資本家が農業労働者を雇用するという資本主義的農業経営が一般化した。  
第1次囲い込みとの相違点
 第1次エンクロージャーに較べ、地主層が多数を占める議会が議会立法によって法令を定めて推進した。第1次の囲い込み(第一次エンクロージャー)は、羊毛生産用の牧羊場とするために農地が囲い込まれ、議会は農民保護のためにそれを抑制しようとしたのにたいして、第2次は穀物生産用の資本主義的農場経営によって開放耕地が囲い込まれ、議会は立法によって奨励した、という違いがある。

https://www.y-history.net/appendix/wh0904-064.html


またこの流れから救貧法という社会保障が出てきたのですね。
マルクスも救貧法について話してたりします。
以下の記事からコピペしてます。


救貧法
1601年、エリザベス1世の時に制定された貧民救済の法律。社会保障制度の始まりであり、教区ごとの救貧税によって貧民を救済する内容であった。1834年に改正救貧法(新救貧法)が制定され、教区の役割は終わり、行政の仕事とされることとなったが、同時に自助が強調されるようになった。
 イギリスの絶対王政エリザベス1世の時の1601年に制定された法律 Poor Low 。当時イギリスでは、第1次エンクロージャーが進み、土地を無くした農民が年に流れ込み、その貧困が問題となっていた。それまでイギリスでは国王が命令して教会から徴税した資金をもとに貧民に給付するというキリスト教的慈善心に基づいた慣行があったが、エリザベス1世の政府は、まず1572年にそれを法制化し、ついで1601年に全面的に改定して救貧法として制定した。これはその後のイギリス救貧法の出発点となるもので、すでに今から400年前に始まっていることに注意を要する。

エリザベス救貧法
 1601年のエリザベス救貧法の内容は、教区ごとに救貧税を設けてそれを基金とし、働くことの出来ない老人や身体障害のある人にはお金を支給してその生活を援助し、働く能力のある貧民に対しは亜麻・大麻・羊毛・糸・鉄などの原料を与えて就労させた。また貧民の子弟には技術を教えるために徒弟に出すことを奨励した。その特色として次の点が上げられている。
・地方の教区ごとに課税し、それを財源に働くことの出来ない「労働無能力者」を救済する義務がある。
・働くことの出来る「労働能力のある貧民」には出来るだけ働くようにし、「ワークハウス」で強制労働もあった。
・「労働無能力者」の親族には扶養義務があるとした。

「労働能力のある貧民」に対する「ワークハウス(勤労場または懲役場)」では、「劣等処遇原則」つまり、そこで働く者に対しては独立して働いて者に対する処遇を上回ってはいけない、という原則が適用された。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.3-4>

救貧法の周辺
 エリザベス時代に救貧法が制定された背景には、イギリス宗教改革によって修道院が解体されたことがあった。貧民や捨て子は修道院に収容するという従来の道が断たれたため、1601年の救貧法(それまでも出されていた貧民対策のための法律の集大成として制定された)では、教区(パリッシュ)がその役割を替わって引き受けることとなった。教区は住民の信仰生活の核、近隣共同体であり、権力の統治の末端でもあった。教区教会には司祭が赴任し、住民は教区の寄合に集い、道路や橋のメインテナンスと貧民や婚外子の措置にあたった。全国で1万ほど、平均するとこの頃の教区人口は数百人程度で、住民は互いに顔も名も見知っていた。
 救貧法と同じ1601年に、「チャリティ用益法」が制定され、貧民救済、教育と宗教の振興、その他コミュニティの益のために設立される公益団体の法的根拠となった。中世以来、チャリティで運用されていた大学などの設立根拠もここで確定した。チャリティ法は現在まで継承されており、イギリスの社会政策の特徴は税(行政)とチャリティ(民間の慈善)という二本柱からなっているが、その根拠となる法律の源が同年に制定されたこの二つの法律である。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.100-101>

Episode 浮浪人乞食処罰法
 エリザベス1世の時代にはさまざまな社会政策が打ち出されたが、1598年に制定された浮浪人乞食処罰法は、矯正院を設置し、浮浪人、乞食は「上半身を裸にして体が血で染まるまで公衆の面前で鞭打ちした」後に、生まれた教区に送還して労働に従事させるというものだった。<『世界各国史・イギリス史』旧版 山川出版社 p.142>

これすごいよね。
「誰も正常ではない」という本読んだんですけど、まさにそれじゃないですか。

これ読んでよかったですよ。

「正常な人」っていうのは資本主義が作り出した虚構なんですよ。
自立できない人をニート、フリーターとかゆって「働けよ」ってゆって批判しますよね。

「自立してない人はダメだ」

って言うのは資本主義の檻の中に入ってることに気がついていないんですね。
エーリッヒ・フロムやフーコーっぽくいうと、私達は資本主義的な性格を植え付けられていることに気がついていないし、資本主義の餌食に自らなってもらうように権力が各個人に内面化されているのです(すみませんわかりにくいですね。また機会があればわかりやすく書きます)。

この本でも「自立できない人」がひどい目に合うことによって、「自立する人=正常」が植え付けられていくんですよ。先程の「浮浪人乞食処罰法」みたいにね。これ国がやってたってことでしょ?こういう現実世界があると、いつのまにか理想の世界でも「自立しなければならない」と調教されてるんですよね。

やっぱマルクスの唯物史観強すぎん?
なんか言ってることもカッコいいし思想も強そう。
もっと知りてぇな。

エリザベス救貧法の背景
 エリザベス救貧法で救済されたのは、資本主義社会での貧困層ということではなく、寡婦や独居老人がその対象であった。その背景には近世イギリス社会の家族のあり方が関係している。
 近世イギリスの家族は、(1)早い時期から単婚核家族であること、(2)晩婚であること、(3)だいたい14歳前後から、男女とも短くても7年、短ければ10年以上、よその家庭に奉公に行くライフサイクル・サーヴァントの習慣があったこと、の三点の特徴がある。この奉公は修行期間と考えられ、結婚しない。従って結婚は20代後半、当時の世界で見ればかなり晩婚であった。また親元にはかえらないので、親は子供に養ってもらう事はない。そのため、親のどちらかが死ねば、どちらかが独居老人となる。また当時は病気で若死にすることが多かったから、寡婦や孤児になる率も高かった。エリザベス救貧法が対象としたのはそのような寡婦や孤児、独居老人であった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.26-33>

産業革命期初期のスピーナムランド制
 18世紀になると第2次エンクロージャーが進行し、産業革命がもたらされた結果、農業社会から工業社会に移行し、工場労働者が急増したが、その労働条件は劣悪で、低賃金による貧困層も増大した。そのため、エリザベス救貧法によるワークハウスでは収容しきれなくなった。そのため、1795年にヤング法でスピーナムランド制が作られた。これは低所得者の生活費を補助するもので、パン価格と家族人数によって世帯に必要な最低生活費を算出し、所得がそれに満たない場合にその差を支給する、という制度であった。今日でいう最低賃金制度の萌芽であった。その財源は土地保有税で調達したため、土地への課税によって地主階級を没落させ、最低賃金を国が負担することで労働力を増加させて産業革命を助長する側面があった。このような最低賃金制度に対しては、逆に労働者の勤労意欲を疎外し、安易な生活に流れた労働者が子供を産めば人口増につながり経済を圧迫する恐れがあるとして、人口論で著名なマルサスは批判している。またリカードは貧困者への公的扶助を貧困者以外から取ることは、その人々の可処分所得を減らすことになり、経済成長を妨げるとして批判した。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.5-6> “社会保障か、自助か”という議論はこのころからあったわけだ。

「“社会保障か、自助か”という議論はこのころからあったわけだ。」

→ここおもろい
前例なし、待ったなしの時代に全力で頭をひねり出して、社会保障VS自由経済の議論を白熱してるから。当時の学者とかすげぇ必死だったんだろうね。この新しい時代、国はどのようなモデルにしなければならないのか、めっちゃ考えてたのかなぁ。

_____________________________________

彼らは群をなして、乞食となり、盗賊となり、浮浪人となった。それは一部は性癖からでもあったが、多くの場合、環境の強制によるものだった。

資本論第3巻p372

囲い込みの結果、人々って生活できなくなってホームレスになりましたよね。という文脈ですが、


「それは一部は性癖からであったが」
ってどういうことですか(迫真)

それってとってもえっちなことなんですか?

「ぎもぢよくなっちゃう」乞食ってなんですか??

僕まだそのジャンル手を出したことないので、エロ動画を運営してる方がにはぜひとも乞食や盗賊、浮浪人のジャンルの開発の検討を加速してほしいものです。

マルクスめちゃめちゃデータとか、具体例もたくさん出していきます。

労働者めっちゃ悲惨な状態ですね。
最低賃金が決まったのに、その法律が廃止にさせられたり、
労働団結しても、金持ちたちが「いや、それは自由と人権宣言に対する侵害でしょうよ!!」っていって労働団結も廃止されています。

プロレタリアートとブルジョワジーがトム・ブラウンみたいに、

労働者が集まって合体すると

ブルジョワジーが「はいダメ―――ッ!!!
って頭叩いてます。

_____________________________________

岩波文庫3巻
読み飛ばすところは飛ばして読み終わりました。

次は4巻です。
ここから原本の資本論の2冊目に入るんですね。
エンゲルスがマルクスの遺稿をまとめたものになるようです。
いったんここまで

今際に国のアリス読みます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?