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「愛」の解像度が上がったの巻

あるところに、「自分の愛するものをいかに人に伝え開示するのか、またいかに自分で見つけられるか」を知りたい人がいました。

その人は愛がなんだっていろんな作品をみたり、自分の思い出を振り返ったりして愛の探求をしてみました。すると思いもよらないところにヒントがあったのです。

これで、人の痛みがわかる人になったね。

これ、とっても自信のあった試験に不合格をもらったとき、T先生にかけられた言葉でした。ひどく傷つき、恥ずかしさもあった当時にはなかなか厳しい言葉でした。

さて、お話の舞台は整いました。「愛がなんだ探究」の成果発表はホワイトデーまでにできるのかしら。

T先生は知っていた。私がうさぎだったことを。普段は悠々自適に生活しているくせに孤独は好まず、たまに跳ねることで見える世界がかえるよりちょっと高く、ねことまた違うくらいのうさぎだったことを。

その「人の痛みがわかる人になったね」って言葉を私は愛と呼ぶ。2年前の言葉だけど私の胸に強烈に残っているんだもの。その愛とか、ある映画や現実において人が「愛する」ことで弱っちくなっていく過程をみてこんな仮説を立てた。

愛って弱点。だけど伝えることで強くなる。

たとえば、小学生のぼくが憧れた、橋をつくることを仕事をしているけんちゃんのパパがお酒飲んで顔真っ赤にしている姿とか、ごみ袋から飛び出たコカ・コーラの缶とか、揺れてる遮断機とかそういうのに一目ぼれしちゃうんだな。

ちらっと見せてくれる弱み、伝わる保証のないものだけど、応答ないかもしれないけれど、「伝わりたい」、愛なんだ。弱くて不安定だったけどそんな愛によりしっかり地に足をつけて歩くことができる、私も。だから、誰かが何かを伝えようとしてくれるところに感性を働かせる。ほらぼくは伝えてくるの、手に書いたのは落書きじゃないんよ。

おかげさまでうさぎとの関係性、一緒にぴょんぴょんしていたものから、ほれ、餌あげるから私を癒しておくれって言えるようなものになった。そうやってお互いが受け取り合うこと、そんな営みに次なる興味が湧いているのです。

なんてったって、合格だの倍率だの卒業だのそんな言葉を聞くこの季節柄、潤う目、ほなみ、梅を迎える。

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