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9月1日に公開したい感想文

9月1日、友だちの誕生日であるだけでなく、日本において忘れてはいけない日なのではないかと思う今日。そして先日見つけた『9月1日 母からのバトン』という本のタイトル、更に先日ようやく観た『君たちはどう生きるか』を受けてどうしてもこの「感想文」を公開したいと思った。

これは、日本にて在日朝鮮人または在日コリアンと呼ばれる方々のコミュニティに一歩踏み出したほなみの、記憶(→記録)である。


2月のウトロ地区に引き続きフィールドワークに参加した。「多文化共生」に関心があったところから留学同と出会い、大学で勉強するような「多文化共生」とは違った視点でいつも学べ、その環境があること、私を受け入れてくださることにとても感謝している。

とはいえこの「私を受け入れてくれる」という感覚がそもそも多文化共生じゃないと感じることをこの感想文で述べていこう。

フィールドワーク1/2 木本トンネルにて起きた虐殺された方々の追悼集会

まず、フィールドワーク一日目の夜、「なぜ参加したのか日本人学生の声が聞きたい」とマイクを渡された時話した内容を幸いにもその日のうちに書き記していた。

「もともとはアイデンティティの揺らぎに興味があった。そこからコミュニティ(ここでいう留学同)に入って踏み出してみたら(今回でいうフィールドワークに)知らないことがたくさんあって、知らなかった自分にも、隠されていたという事実にも、誰が隠したのかという不透明さや、歴史そのものへの怒りが湧いたのだが、それを私が怒りとして表現するのはなんだか違う気がして。じゃあ自分は何をしたいのか、何になりたいのかって分からなくて、ある意味私のアイデンティティも揺らいでいるのだと。そんな自分と向き合う機会になるし、知らないことを色々な人から聞きたいと思ってここに来ている。」


湯ノ口温泉にて一泊 夜の集会
フィールドワーク2/2 紀州高山で亡くなった朝鮮人の追悼集会

......後日、この自分の発言と向き合ってみた時にかつて読んだ『他者の靴を履く』(ブレイディみかこ著,2021)を思い出した。そこに書かれていたのは、同情するのではなく、相手の立場だったら自分はどうだろうと想像することが多様性の時代を生き抜くために必要ということだった。そんなことおこがましい、とフィールドワークの二日間は思っていたことに自覚的になり、それが「逃げ」なのかもしれないと感じる今日この頃。

「私を受け入れてくれる」から留学同での学びを大切にするのではなく、もっと相手の立場で物事を考えられる引き出しを自分の中に作りたい、だからこれからは真っすぐな視点で共に歴史を勉強し、色々な人の声をリアルに受け止めていきたいと思う。「日本人だけど、これからもよろしくお願いします。」


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