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信玄にとってあの三国同盟は失敗だったのではないかという話

先日ある記事を見て、興味深いことを考えた。

本郷和人 武田信玄の失敗は「北信濃10万石に10年も費やしてしまった」こと…信玄・晩年の領土規模<約60万石>を信長は20代で達成していたという事実 「失敗」の日本史|教養|婦人公論.jp (fujinkoron.jp)

こちらの筆者が言うには、武田信玄は信濃国にこだわってしまった結果、版図拡大が遅くなり、天下統一に至らなかったとのことだ。

たしかにそうだ。間違ってはいない。

しかし、信玄の置かれていた状況をより深く考えれば、信濃にこだわったという点に疑問が残る。


自分の考えでは、信玄は信濃国にこだわったのではなく、こだわらざるを得なかったのだ。なぜなら、他に攻められる土地がなかったから

これは当時の勢力図を見ると分かりやすい。

歴史人 別冊「戦国武将の全国勢力変遷地図」より

戦国史上でも稀にみる強大な3勢力が結んだのが「甲相駿三国同盟」だ。

勢力の隣接する武田家、北条家、今川家が、お互いの背中を固めることで、それぞれ一方向への勢力拡大に専念できるというメリットがあった。

これにより、北条家は関東統一今川家は尾張進出武田家は信濃統一に本格的に乗り出したのだ。

しかし、信玄の立場から見ると、そこに大きな誤算があった。

戦国最強ともいわれる上杉謙信の存在だ。

信濃と領地を接する越後の領主にとって、信玄ほどの強大な勢力が隣国を統一するのは避けたい事態だ。当然、上杉謙信は阻止に乗り出してくる。

信玄もそれを想定はしていたと思うが、見込みが甘かったのだろう。

両者が激突した川中島の戦いは1553年~1564年もの長期にわたり、多くの損害と時間を費やしたにも関わらず、お互いに大きな成果は上げられなかった。

川中島での5回の戦いを経て、おそらく信玄もムダなことをしていると感じただろう。

なぜ戦国最強の男と無理をして何度も戦わなければならないのか。他に弱い大名などいくらでもいるというのに。


ここで先ほどの三国同盟が出てくる。(↑勢力図参照)

信玄は同盟により、後ろ側の関東や東海は攻めることができない。また、飛騨と信濃は北アルプス(飛騨山脈)により、ほぼ遮断されている。

信濃以外で唯一攻め入ることができそうなのは、斎藤道三の領する美濃ぐらいだが、こちらは尾張に進出してくる今川家と後々バッティングしてしまう。そうなると今川家と争うことになるか、山ばかりの東美濃のみを割譲される羽目になるのは見えている。

つまり、信玄の置かれている状況では、信濃を北上する以外に、攻められる土地がなかったのである。信濃にこだわったのではなく、そうせざるを得なかったのだ。

内心は乗り気でなくても、やむなく勢力拡大のために上杉謙信と戦っていたのだ。


そんなある日、信玄に転機が訪れる。
1560年、同盟者 今川義元の戦死だ。

尾張の小勢力 織田信長に、三国同盟の一角である今川義元が討たれた。

上杉謙信との戦いの中で最大の激突となった1561年の第4次川中島合戦より、信玄は信濃北上に乗り気ではなくなっていた。

ここに、他の選択肢が現れたからだ。

今川義元は「海道一の弓取り」と言われた名将である。駿河、遠江、三河を有する大勢力だった。

これまではそんな今川家との全面戦争を避けるために、同盟を維持する必要があった。しかし、すでに義元はもういない。跡を継いだ今川氏真は、評判が悪く、自国内も収められていない。

この状況で、信玄はまともに同盟を継続するメリットがないのだ。

信濃を上杉謙信と取り合うより、東海道を目指して南進する。
はるかに簡単な道である。


結果的に、同盟を破棄して今川領に進出するという方針転換は一定の成果を上げ、武田家の版図は大いに拡大した。

しかし、突如三国同盟を破った信玄を、同盟のもう一勢力である北条家は許さなかった。今川家と戦う中で、北条家とも抗争をしなければならなくなったのだ。


さて、こういった大きな流れを考えると、信玄にとって、甲相駿三国同盟とは何だったのだろうか?

私が思うには、信濃侵攻の初期以外ほとんどメリットを感じることができない。

その後は、自分で自分の首を絞める結果にしか繋がらなかった。

過去にこういった主張を聞いたことはないが、信玄にとって甲相駿三国同盟は失敗だったのではないだろうか

そう思えて仕方がないのである。

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