創作【カンデラ】
目を刺す照明とずきずきとした頭の痛みにふと目が覚めた。
痛みと不快感がないまぜとなって体の中を暴れまわっていたので、起きたその場所が自室ではないことをしっかり意識するまでに時間がかかってしまった。
ベージュのつるっとした質感の床に(リノリウムっていうんだっけ?)どこまでも白く清められたシーツ。私を引き留めるように腕につながるいくつかのチューブと、体に機械が繋がれている違和感を希釈するように、いっそわざとらしいほど穏やかに整えられている空間にぽつんと1つだけ置かれているこの寝台が、私が今病室にいる事実を告げている。
……なぜ私は病室で寝ているんだろう?この頭の痛みは何?
病室にはだれもおらず、寝起きと寒々しい不安感にかられ思考が上滑りしているのを感じる。
焦る思考が空転し、自分が地元の中学校に通う中学二年生であるなど他人から見た自らの属性くらいしか思いだすことができない。名前は……上田果歩だ。でも、友達は?……家族は?なぜ何も思い出せないのか?
ナースコールを押したほうがいいのか、目が覚めた程度のことで読んでしまっては看護師さんにも呆れられてしまわないかなんて、そんなくだらない逡巡をしている間に病室の扉が開かれた。
突然の物音にびくりと身をすくませて相手を見ると、扉を開けた看護師も意表を突かれたのは同じだったようで、まじまじとお互いを見つめたままマヒしたように動けない時間が数舜流れた。
仕事柄こういった事態には私よりは慣れているのか、すぐに正気に戻った看護師さんがベッドに近づきながら体調を気遣って質問を投げかけてくる。
「上田さん!目が覚められましたか?お身体に痛みなどありませんか?」
小さな目に大きめの鼻。まん丸くて人の良さそうな輪郭を持つ看護師さんにいくらか緊張がほぐれ質問に応答する余裕ができていた。
「……はい。頭がすごく痛くて……。あとなんで今ここにいるのかもよく覚えていないです……」
気遣わし気な表情を浮かべた看護師は、今お医者さんを呼んでくるから、詳しい説明はその時にしますね。と答え急ぎ足で病室から去り、今度は医師らしきやせぎすで60代くらいのどこか不吉な印象の男性を伴って再度現れた。
診察を受けながら話を聞いたところ、私は学校の階段を踏み外し、転がり落ちたところを救急搬送され今に至るとのことらしい。
全身が打ち身とはなっているものの、脳や骨に異常はなく、記憶喪失も一時的なショックによるもので日常生活を過ごす中で徐々に回復する可能性が高いとのことであった。
親は二人とも仕事でちょうど席を外しているらしい。
医師に問題ないと診察してもらえたことで少し安心することができ、本当に記憶喪失ってあるんだなあと他人事のように、少しわくわくしてしまうくらいの気持ちで話を聞いていた。
少し心がほどけたのだろう、今日は安静にすること。と言い含め医者が去っていった後も相変わらず自己主張を続ける頭痛はあれど、必死に枕にしがみついているうちに、気が付けば眠ってしまっていた。
「果歩、果歩……」
私を呼ぶ声に意識が輪郭を帯びる。
負傷を回復するためか睡魔は私の意識にしつこくこびりつき、なかなか離してくれない。体全体がまだ寝ていろとアラームを出しているようだ。
「お母さんきたよ……」
いつの間にか夜になっていたのだろう、近くのものがうっすら見えるくらいの暗闇の中、そんな一言に脳の信号を何とか振り切りぼんやりと声の発生源に目を向けると……
枕もとの椅子に異形のものが腰掛け、こちらをじっと見つめていることに気が付いた。その異形が私に話しかける。
「果歩起きたのね」
あまりの出来事に体は硬直し、意識だけが走る。
体の造形は人のと大きな差はない。しかしその顔には外界との接触を避けるかのように、目も鼻も口も耳さえついていない。人間らしい全体像の中で顔だけがやたらと無機質で、その不釣り合いさが異様な嫌悪感を抱かせる。
あまりの事態に相手を冷静に観察していたところ、遅れてやってきた本能的な恐れが体の硬直を解き、叫び声を上げながらベッドから転げ落ちるようにその怪物から距離をとる。
体が震えまともに立ち上がることも逃げることもできない。
「果歩⁈どうしたの果歩!」
うずくまるようにしか自分を守れない私の逃げ道をふさぐように、あまりにその風貌に似合わないセリフを吐き出しながら怪物が迫りくる。その骨ばった手が私に伸び……
「どうかされましたか⁈」
私の絶叫を聞きつけた看護師が病室のドアを力強く開け放ち、病室に入ってくる。
必死の思いで叫ぶ。
助けてください。起きたらあの化け物が。
頭の中でのメッセージはクリアなのに、実際はもっと長々と要領の得ない音声しか出力ができない。
入ってきたのは声からして昼間のあの看護師だろう。助かったと思った矢先化け物が信じがたい言葉を吐いた。
「すみません。寝ている娘に私が話かけたら急に飛び起きて、悪夢でも見ていたのか、こんなにおびえてしまっていて……」
看護師が応答する。
「ああ……。結構若い患者さんの中には慣れない環境にきて悪夢にうなされてしまう方も多いんですよ。果歩さん大丈夫ですよ。おケガはありませんか?」
化け物からそんな言葉が出てくるのも、そんな化け物の話をすんなり受け取め自然に応答している看護師も理解がしがたかった。
この化け物が私の母親?看護師にはこの異様さが見えていないの?私はいまだ悪夢の中にいるの……?
訳も分からずに看護師の質問に答えてしまう。
「え、は、はい……」
「よかった。明かりをつけるのでよく見てください。慣れない環境で不安かとは思いますが、お母さんがいらっしゃいましたよ。」
看護師が部屋の電気をつけ、それの姿がよく見えるようになって改めて戦慄してしまう。
よく見たら人の顔だったなんてことはない。改めて証明に照らされるその無機質な顔と生々しい髪の毛のアンマッチが忌まわしさを増幅させているようで、あまりの恐ろしさに直視することができない。
「果歩、お母さんがいるから、大丈夫だよ……」
そんな風に方に添えられた手を振り払えず、こみ上げる恐怖が最高潮に達したときに頭の中でカチッと何かがかみ合い。忘れていた記憶を思い出すことができた。
そうだ……。私は階段からたまたま落下したわけなんかじゃない。あれは突き落とされたんだ……。
順序なんてお構いなしに忘れていた物事がフラッシュバックとして脳裏をめぐる。
引っ越しにより学区を変えて進学した中学校で、嫌がらせにあっていたこと。最初こそこらえていたものの、嫌がらせが物理的な力を帯びるようになってから勇気を出して親に相談したところ、それくらいは普通のじゃれあいなんじゃない?果歩にも問題はなかったの?今はちょっと仕事のプロジェクトが大詰めだからまた今度じっくり聞かせてと、まともに取り合ってなんてもらえなかったこと。
絶望的な気持ちで、でも屈したくなくて登校した学校で少し足元がおぼつかなかったのであろう。入学当時は少し話もしていたはずの子が階段ですれ違い様に体をぶつけてきて、いきなりのことに手すりもつかめず落下した時のこと……。
全て思い出す中で、目の前のそれが本当に自分の母親だとわかり、少しのおかしさと、こんなものに取り乱し、恐れてしまったことに対しての怒りがこみあげてくる。
そうか……。
唐突に先週に受けた道徳の授業を思い出し納得する。
なんであんなに当たり前に分かり切ったようなことや、押しつけがましい利他精神を何回も何回も繰り返し扱うのか今までずっと疑問だったけれど、今ならわかる。そうでもしないと、そうまでしても人の気持ちなんて推し測れないような奴らがいると、多くの子供たちを見てきた学校は理解していたのであろう。
この母親の外見だって実際は普通の顔のはずのものが、私の脳みそが受けた印象によって捻じ曲げられてこんな風に見えているんだろう。
記憶を思い出してから妙に考えがクリアで、それがすこし面白い。
少なくとも今まで感じていた疑問や周りの人間の未知な振る舞いの原理が分かったことで、霧中を歩くような不安感はきれいに消えた。
我慢していれば、真摯に向き合えばこれは解消するようなものではないのだろう。
ゆっくりと立ち上がり、看護師さんに心配をかけてしまったことを詫びる。
「看護師さん、すみません。寝ぼけて取り乱してしまったようです。私は大丈夫なのでもう少し眠りますね。」
こちらを覗きこむように私の方に手をかける母親の手を振りほどき、ベットに戻って眠りにつく。
驚いたような雰囲気を感じるが今更気になどするものか。
まだ体は痛むけれど、目を閉じて今の状況や自分がとれる選択肢に思いをはせる。
改めて奴らの行動原理が分かった今、どんなことをされたら奴らが嫌がるのか、損失を被るのかアイデアが沸き上がってくるようだ。思わずにやけてしまいふと目を開けた時、明るい室内をクリアに反射する窓ガラスに写った、醜いのっぺらぼうにのぞき込まれている「ソレ」の醜悪さに思わず目を見開いた。