【夢の様なストーリー】紛争や脅迫・家族の闘病・自身の怪我、困難を乗り越える挑戦!?ゴラン・イバニセビッチのヒストリー#80
皆さん、こんにちは。
「Change Court」記者のtakableです。
この記事ではテニス選手個人にフォーカスを当てて選手のヒストリーやエピソードについてご紹介します。今回は名字の最後に「チ」が入る選手を今までのように、「幼少期〜ジュニア期と22歳程度の年齢までにどのように育ったのかを調べながら、名字から選手それぞれのルーツについて調査し「ヨーロッパの選手が強い理由」を調べていきます。(2021.10.4現在)
※記事をより簡単に読んでいただくため表記に独自のルールを利用しています。
ゴラン・イバニセビッチ
左手から放たれるクイックモーションのビックサーブとボレーにより得点を量産する攻撃型の選手。フォアの側で振られた時に見せるスライディングとダウンザラインの技術も素晴らしいクロアチアのレジェンド。WBA(現イングランド2部サッカーチーム)とハイドゥク・スプリトのファン。
「7歳でテニスを開始し、ジュニア最高3位」
J.ゲンチッチとM.セレス
1971年9月13日クロアチアのスプリトで、工学系の教授と化学系の技術者の母のもと生まれました。7歳の頃からテニスを開始し、J.ゲンチッチの指導により才能を伸ばして行きました。同時期にはサッカーをプレーしており、幼少の頃からの夢について、ゴランは「人生の中で2つの夢がありました。1つは、GS・Wで優勝すること、もう1つはハイドゥク・スプリトでプレーすること」でしたと語り、後の人生で2つの夢を達成します。
ジュニアの国際大会デビューは日本で15.1歳でした。そこから16.11歳までの間に21勝8敗(勝率72%)の結果で最高3位を獲得しました。
「16.9歳GSデビュー、19歳でTOP10」
19歳の頃のゴラン
ジュニア期の後半からシニアの大会に移行し、チャンレンジャーを主体に活動をしました。GSデビューは、1988年16.9歳で予選を突破しデビューをGS・Wで達成し、1989年からはツアーを主戦場に絞り活動をしました。
TOP100を切ったのは17.6歳で80位、TOP10を切ったのは1990年9月19歳で10位でした。この年は、シーズン序盤は早期敗退が多くありましたが、5月母国のウマグ250でツアー2度目の決勝戦へ進出をきっかけに試合を勝ち進みました。
特に、5月後半のWTCでは、決勝戦でJ.クーリエ[17]に勝利、翌週のGS・Fでは初戦でB.ベッカー[3]に勝利しQFへ進出、GS・WはSF、7月しシュトゥットガルト250ではツアー初優勝をし、この連戦で一気にランキングをあげ、最終的には9位シーズンを締めくくりました。
「22.9歳キャリアハイ2位達成」
29.2歳WCで出場したGS・WでGS初優勝
テニス人生のキャリアハイ2位を達成したのは1994年7月4日で22.9歳でした。1993年8月からキャリアハイ獲得までの道のりは、1993年は3つの大会で優勝しました。特に、10月パリ1000ではM.チャン[7]、P.サンプラス[1]、S.エドバーグ[6]、A.メドベーデフ[8]らTOP10の選手4人を連続で勝利し優勝しました。1994年はGS3大会で活躍し、GS・AとGS・FはQFへ進出、GS・Wでは2度目のGS決勝へ進みP.サンプラス[1]に敗退しましたが、キャリアハイ2位を達成しました。
この躍進の背景には、1992年からコーチとなったB.ブッレッドの指導による影響があります。1992年~1996年の間のB.ブレッドとのタッグにより、2度のGS決勝戦に進みましたが、幼少からの夢であったGS・Wでの優勝は叶いませんでした。
22.9歳でキャリアハイの2位まで一気に駆け上がったゴランは、その後もTOP10~TOP20をキープしてプロ生活を過ごしました。27歳となった頃に肩の負傷の影響で大会には出場しているものの本調子とはいかず、2000年11月29.2歳には136位まで下がり引退も考えました。
その中で6月25日125位だったゴランはGS・WにWCで参加し、C.モヤ[22]、A.ロディック[33]、M.サフィン[3]、T.ヘンマン[11]、P.ラフター[10]を下して、GS・W史上初のWCで優勝した選手となりました。29.9歳で引退を考えたゴランが4度目のGS・W決勝の挑戦で掴んだ夢の達成の瞬間でした。
ゴランが若い頃からツアーで素晴らしい成績を獲得してきたのは、若い頃から白血病の闘病をしていた姉の為の医療費を得ることでした。10代の頃オーストラリアで得た賞金は全て、持ち帰り姉の手術の費用に充てました。2019年10月に姉は亡くなってしまいましたが、ゴランの賞金があり闘病の結果長く生きることができました。
1990年代前半の民族間の紛争により、国や民族の分裂、さらには、ゴランに対して殺害や脅迫の被害にもあいましたが、それらたくさんの出来事を乗り越えたテニス選手生活でした。
32.9歳で引退し、現在はN.ジョコビッチのツアーコーチとして世界を駆け回っています。今後は、14歳のM.チリッチを発掘した様に、若い世代を発掘しサポートしていく活動にも期待しています。自身のGS・W優勝の時の様な感極って涙する姿をコーチの立場でも見れる姿を楽しみにしています。
記録
✴︎2001年WCで出場してGS・Wを優勝した史上初の選手
✴︎2001年ATP最も上達した選手賞
✴︎10,138本通算サービスエース数1位(現在はI.カルロビッチが保有)
今後もこのような記事をあげていきますので、もしよかったよ〜という方は是非note内の「スキ」や「記事の保存」をお願いします。
この選手の記事を読んでみたい!調べてほしい!というご要望ありましたら、お気軽にご連絡ください。それでは次の記事で。さようなら。
ad out…!!!
PS.J.ゲンチッチやB.ブレッドその他のコーチングを受けて、今どのように活かされているか伺いたいです!
〜CC(Change Court)について〜
CCは、テニスのジュニア育成に関する問題や課題を解決していくための考察記事です。
「うちの地区こんな問題があるんですが…」、「これは正しいのかなぁ!?」、「これってどうしたらいいでしょうか?」そんなテニスのジュニア育成に関する悩みや課題を解決できるきっかけを皆さんと一緒に考察します。
Twitter↓
①MOTIVATOR
テニスに関する情報発信。日々のテニスに関するお悩みはこちらにコメントやDMください!
②CC
記事のリクエストやご意見・ご感想はこちらにコメントやDMください!