クレームを入れる勇気を得た社会の先にあるものは?
2019年の世間のニュースを振り返ってみると、どうしてあんなに大きくみんなが騒いでいたんだろうと思うことばかりだった。それらの話題を口にしている最中は気づかない。新しい年が明けて、ほんの数か月前のことが遠い過去のような新鮮な気持ちになってみると、あの騒動はなんだったのだろうと思うことがある。
昨年の出来事で個人的に最も印象に残っているのは、あいちトリエンナーレの騒動であった。昭和天皇の肖像画を燃やしても良いか悪いかとか、従軍慰安婦像はアートか否かなど、私には正直あまり関心の持てる話題ではなかった。むしろ、私が気になっていたのは津田大介さん個人のことだった。
遡ること2017年の夏。当時の私は五反田にある哲学カフェにいた。そこには2013年から足を運んでいて、津田大介さんがゲストとして登壇することが多かった。なので津田さんと哲学者の対談を数えきれないほど聴いてきた私は、彼の考え方や社会との向き合い方にある程度(厳密に言えばけっこう深く)の共感を抱いていた。2017年のある夏のこと、哲学講座が終わったアフターの場で、津田さんがみんなに向かって「今度から僕は、愛知県が主催するアート展の芸術総監督を任されることになったんだ」と話した。「あいちトリエンナーレと言って、2年後に開かれるんだよ」と。
私を含め当時のカフェのお客さんたちは、あいちトリエンナーレがどのようなアート展なのかも、また芸術総監督という役割がどのような仕事をするものなのかも、よく分かっていなかった。ただ、津田さんが喜んでいたので、きっとめでたいことなのだろうと思い、みんなでその場で飲んでいたワインの量を増やしたりしてお祝いをした。私もその中にいた。
だからその2年後、待ちに待ったトリエンナーレがあのような騒動になり、問題になった「表現の不自由展」のセクションが3日で閉鎖したにもかかわらず、その後も長く話題が尾を引き、トリエンナーレが終わった今でさえも、まだ悪く言う人がいる状況を思うと、とても複雑な気持ちだった。2年前の津田さんの嬉しそうな笑顔を今でも思い出すたびに、なんとも言えない暗い気持ちになるのだ。
あいちトリエンナーレには私も一度、足を運んだ。「表現の不自由展」は閉鎖中だったけれど、会場の傍のオアシス21の前の大通りに右翼の街宣車が走っていた。マイクを通した爆音で「津田大介、出てこいこの野郎、なめたらあかんよ」とがなり立てているのを聞き、暗澹たる気持ちになった。
トリエンナーレの展示全体は、親近感を覚える作品が多かった。というのも、五反田の哲学カフェはアートスクールも運営していて、そこで創作や美術評論を学ぶ受講生たちが多くいて、彼らとは知り合いだったからだ。直接話したことがある人もいれば、メールなどで前々から繋がっていた人、親しくはないけれど挨拶だけは交わしている人、あるいは顔と名前だけは知っている人などで、つまりトリエンナーレの展示作品の作家のほとんどが広い意味で、私の知っている人たちだったからだ。五反田アートスクールのメンバーたちが、こぞって愛知県に進出したようで、面白いと思った。みんなの活躍の場が広がって良かったなと思った。
しかし世間では、それを内輪のアート展だとか、津田さんがトリエンナーレを私物化しているなどと言って叩く人もいた。長年地道に努力してきたアーティストたちがチャンスをもらったことをそのように批判されるのは、私としては心が痛んだ。アーティストではないが、私も小説を書いていて出版に向けて努力している最中だったので、努力する彼らの気持ちが分かったし、トリエンナーレに向けて頑張って制作した作品を、そのような作品そのものの評価とは違う角度で悪く言われるのは、正直、可哀そうだと思ったし、不愉快だとも思った。
そして何より、津田さんの置かれた状況というのが、私の想像の域を超えていた。今まで見たこともないほど世間からバッシングされている中で、平静を保たないといけない状況と言うのが、どれほど過酷なものなのか、私の想像を超えていた。「大変」などという言葉では言い表せないだろうことだけは分かっていた。
私はいち傍観者として世間のバッシングを見守ることにした。Twitterの世界では人々を「右」と「左」に分断するのが好きな人がじつに多かった。「右」の人々の使う言葉の汚さには辟易したが、「左」の人も「右」の人に負けずに攻撃性があった。激動の夏が終わってトリエンナーレが閉幕すると、トリエンナーレの影は新たな形で世間に顔を現すようになったのだ。
私はそれを「あいトレ効果」と呼んでいる。政治的意見が自分のものと合わない物事に対して、堂々とクレームを入れる勇気をいち個人が持った、という意味だ。
たとえば、私がよく見るお笑い芸人の村本大輔さんの漫才にもクレームが入るようになった。それまでも村本さんのTwitterは炎上することがあったが、今までとはレベルの異なる強さに変わっているように私には思えた。漫才を政治的発言の場にするな、原発の話やホームレスの話なんか漫才で聞きたくないなどという意見を、吉本興業の会社に直接クレームとして入れてくる。それまでの世間の人々は、たとえ自分の思想とは違うなと思っても心の中だけでそう思っていた。それが「あいトレ」以降、行動に出る人が増えた。「表現の不自由展」をやめろと抗議した人があんなに大勢いたのだから、俺たちだって同じようにやってもいいんだと、勇気をもらった人が多いのだろう。
果たしてそれがこれからの社会に良い結果をもたらすのかどうか、私には首を傾げるところが多い。
今年は除夜の鐘が誰かのクレームによって鳴らす時間を早めた。古来からの日本文化である除夜の鐘の鳴らし方を変えてしまうのは、果たして「右」の人の考えなのか「左」の人のものなのか? いずれにしても、クレームを入れた者勝ちの世の中になっていくような気がしてうんざりするのは、私だけだろうか?
2020年はどんなクレームが出現するのが、楽しみで仕方ない。