映画「デトロイト」を観て感じた、絶望の中にあるアメリカの希望
先日公開された映画「デトロイト」は、イラク戦争を描いたキャサリン・ビグロー監督の作品とあって、期待して観に行った。そして期待通りの絶望を味わった。1967年に起きたこの暴動のことは前から知っていたので、結末も知っていたが、あらためて突きつけられると、暗澹たる後味がある。
なので映画の感想として、私はあえて、アメリカの希望について語ろうと思う。
1967年と2018年とでは、アメリカはどう変化したのか?
残念ながら、アフリカ系を取り巻く現在の環境は、映画の舞台となった1967年と、ほとんど変わらないと言っていい。ここで言う環境とは、司法におけるアフリカ系差別のことである。
現在でも、白人警官がアフリカ系住民を撃ち殺した場合は、裁判で無罪になることが多く、たとえ有罪になっても罰金刑で済まされることがほとんどだ。人の命が罰金で済む社会。同じアメリカ人でも、アフリカ系の命はそれほど軽いのか? そんな不平等を訴えるデモが昔から今に至るまで全米のあちこちで繰り広げられている。メディアでよく話題になる、Black Lives Matter(黒人の命は重い)デモはこの流れから生まれたのである。
しかし、これらのデモは、公民権運動時代の67年と今では大きく異なっている。それは、今はデモに参加する人の半数が白人だ。アフリカ系の人々の平等を訴えるデモに、白人とアフリカ系、半々の人々が町を練り歩いているのだ。
つまり、人種の平等を大切に思う人々が、人種を越えて存在し、自分とは異なる肌の色の人が受ける差別に対しても許せないと思う人が増えている、ということだ。
ここにアメリカの希望がある、と私は思う。
社会の構造的な差別があると、それを打開しようとする流れが生まれる。つまり、アメリカでは差別をする人々がいる一方で、それを糾弾する人々が必ず同時に存在するということだ。
この映画が作られたことも、そんなアメリカの一面だろう。司法においては正義が貫かれなくても、人々の心に正義があれば、このような映画が今後も作られ続けるのだ。
アメリカと日本の警察権力の違い
映画「デトロイト」は、警察官のアフリカ系への暴力が描かれている。2時間半の上映時間のうち、8割は暴力シーンと言ってもいい。これほど長い時間、暴力を見せられる映画であるにもかかわらず、暴力シーンに目新しさや驚きを感じなかったのは、それが現在でも頻繁に起こっているシーンだからだ。CNNやNBCなどのニュースでも、白人警官が逃げていくアフリカ系の男性の背後から背中に発砲して死なせた動画が公開されることなど、本当によくあって、不幸なことに、私たちは映画ではない生の暴力シーンに見慣れてしまった。
このような背景を受けて、今、アメリカでは、YouTubeとTwitterを合体させるようなツールの開発が進行中だという。
白人警察官がアフリカ系の住民を不当に殴ったり、撃ったりしている現場をスマホのビデオで撮り、それを全米にネット配信しようというわけだ。
YouTubeだと長い動画は撮れるが、配信までに少しの時間がかかってしまう。Twitterだとオンタイムでツイートできるが、長い動画を流すことはできない。なので、動画を撮りながら、同時にそれを無編集で生配信できるツールの開発が急がれるというわけなのだ。
そうすれば、裁判の時に警察が自己弁護のための正当防衛を主張しても、ビデオという証拠を出すことができるし、たとえお決まりのごとく警官が無罪になったとしても、いったん全米にネットで拡散された証拠ビデオから、国民は司法の不平等さと、その警官が人を不当に死なせたという事実を覚えていることが可能になる。
警察のあり方が変わらないのなら、ネットツールを進化させることによって差別に対処しようという、なんともアメリカらしい前向きな発想だ。
しかし、忘れてはならないのは、警察権力はじつはアメリカよりも日本の方がずっと強大である、ということだ。
日本では逮捕状を受けた人の98%が有罪になるが、これは世界でも稀にみることで、まるで警察は絶対であると示しているようなものだ。冤罪も日本では30年も40年も服役した後に獲得するケースがあり、これは他国から見ればじつに驚くことなのだ。冤罪という重大な過失に限らず、日本の警察は自分たちの過ちを絶対に認めたがらない。民事裁判における些細なミスでも、自分たちの正当性を主張する。これは日本的な恥の文化にも関係していると思うが、ミスをすることが警察のメンツにかかわると、強く信じているのだ。
それに対してアメリカの警察は、あっさりと自分たちの失敗を認める傾向が強い。殺人容疑をかけられて服役中の人に「あなたではありませんでした」とさらりと言って、刑務所から出す。人間は誰でも失敗はするものだ、というアメリカ社会ならではの感覚が働いているのかもしれないが、メンツという感覚が日本の警察組織に比べて薄い。
しかし、そんなアメリカの警察も、相手がアフリカ系の人間になると、とたんに態度が変わる。初めから疑ってかかるような態度を露骨に表して、他の人種に対してなら簡単には向けないだろう銃を向けるのだ。
裁判においても、正当防衛だと主張して、たとえあからさまな人種差別であっても、警察は差別などしていないと言い張る。こと人種差別が関係すると、それを認めることは、警察のメンツにかかわることになり、絶対に認めようとはしないのだ。
ここで、私自身のエピソードを少しだけ話したい。
アメリカに住んでいた頃、私たち日本人の女たちがよく言っていたことがある。
「日本人ならポリスから職質されることは、まずないよ。一番最初に職質されるのは黒人の男、次にヒスパニックの男、それから黒人の女、次いでアジア系の男とヒスパニックの女。アジア系の女は端からスルーだから、むしろ困ったことがあって本当に警察に何かを頼みたいときは、こちらから必死に大きな声を出して、ポリスを呼びとめないといけないよ。なぜって、彼らは私たちが目の前を歩いていても、私たちの存在が目に入っていないからね」
人種差別というものは、警察という組織の中に最もよく表れているのかもしれない。
映画「デトロイト」を観終わったとき、私は途方に暮れる思いがした。アフリカ系の彼らと私のような日本人では、たとえ同じ町に暮らしていても、目に映る景色が違うのだろう。映画に描かれているような暴動は全米のあちこちで起きているわけだから、どこの町にいても、アフリカ系というだけで生きる姿勢が他の人種とは違う。私の学生時代、アフリカ系の女の子たちがいつも何かに対して身構えているような態度を取っていたことを思い出す。今でもアメリカを訪れるたびに、アフリカ系の人々が他の人種とは違うテンションで町を歩いている姿に出くわす。
アメリカから人種差別をなくすにはどうしたらいいか? その答えはまったく見えない。しかし希望があるとすれば、今回のような映画が公開され、国境を越えて広く多くの人々に観られ、この問題に対する関心が広がることだと思う。そして、より多くの様々な肌の色の参加者がデモに集まり、声をあげているのはアフリカ系だけではないことを、世の中が知ること。そんな小さな積み重ねが、私たちに希望を抱かせてくれるのだと、私は信じたい。
サポート頂いたお金はコラム執筆のための取材等に使わせて頂きます。ご支援のほどよろしくお願いいたします。