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「さみしい」とはどういうことか
はじめに
10月おわりごろに新潟で哲学対話をして、そのときに「さみしい」の話になった。
わたしの先生であり先輩でありお友達のひと(もう何度も登場しているのでそろそろ名前をつけたい)が、さみしいという気持ちがどういうものかよくわからない、らしい。
その日は泊まりがけの出張だったから、子どもと数日離れていてさみしくなりませんか、となんとなく聞いただけだったのだけど、さみしさを感じない人もいるのか、と思って驚いた。
そのときに「さみしいってどういう気持ち?」と聞かれてなんだかうまく答えられなかったので、改めてそれについて考えてみよう、と思ってこれを書きました。
1ヶ月以上経ってもなお中途半端な答えしか出せていないので、これを読んだ誰かが「さみしい」について考えて、なにか教えてくれたらすごくうれしいです。
***
1. わたしはいつ「さみしい」と思うのか
わたしは、「さみしい」という言葉を、人よりはたくさん使うような気がする。
たとえば、昔から秋の空気を吸うと「さみしい」と思う。
胸がぽっかりして、なにかが終わってしまうことが哀しくて、それがさみしい。
哲学対話のあとにもよく、「さみしい」気持ちになることがある。
置いてけぼりにされてしまったときや、わかってもらえなかったとき、わたしがそれまで信じてきたことが壊れてしまったとき、それが必要なことだとわかっていても、さみしい気持ちになってしまう。
大きな教室の端っこで、ひとりぼっちで膝を抱えているような気持ち。わたしだけがずっとここに取り残されていることがかなしい。
あとはたまに、「いまこの人に会いたい」と思うことがあって、その瞬間にも「さみしい」と思う。
それは恋人かもしれないし、友だちかもしれないし、家族かもしれないけど、とにかく、その瞬間にその人に会えないことがどうしようもなくさみしい。
このさみしさは、ただ誰かに会いたいというさみしさではなくて、いまのわたしのぽっかりをぴったり満たすその人だけなのに、というさみしさ。
ずっと前、わたしが中学生の頃には、家族と離れて過ごす夜に「さみしい」と思っていた。
わたしは中学生から寮生活をしていて、その頃はよく帰省直後の一晩がつらくて泣いていた。実家では猫や妹たちと一緒のベットで眠っていたし、リビングから聞こえてくる両親の話し声を聞きながらうとうとするのが当たり前だったから、ひとりきりの静かな部屋で最初はなかなか寝付けず、「さみしい」と思ってばかりいた。
帰りたいと思うような家族ではなかったから、彼らに会えないことがさみしいというわけではなくて、どちらかというと「誰もいない」ということがさみしかったのだと思う。
3. 「さみしい」とはどういうことか
「さみしい」とは、なにかが満たされない状態のことなのではないか、と思う。
胸がぽっかりしていること、そしてそれがきっと埋められないとわかっていることが、さみしいという気持ちなのではないだろうか。
でもこのとき、この満たされなさはなんだろう。
もともとの満たされていた状態から何かが欠けてしまったのか、それとも最初から欠けているからこそ満たされたいと願うのか、あるいはそのどちらでもないのか。
わたしは、「さみしい」という言葉をきくといつも思い浮かぶものがある。
ひとつは『違国日記』という漫画の、砂漠みたいな孤独の描写。
主人公の朝は、中3の冬に交通事故で両親を亡くしてから、小説家で人見知りの叔母・槙生ちゃんと暮らし始めた。
まだ悲しくない
マヒしているのか 私が少しおかしいのか
わあわあ悲しむのはドラマのなかだけなのか
わからない
でもお父さんもお母さんも もういない
いないんだーと思うと砂漠のまん中に
放り出されたような感じで ぞわーっとする
「ぽつーーん、ぽかーーんとしちゃって 何を書きたかったのか・・・」
砂漠
ほかの人にも砂漠はあるのだろうか
「うん、わかるよ」
「ぽつーーんは きっと孤独だね」
もうひとつは、かえるくんとがまんくんの絵本シリーズのひとつ、「はるがきた」というおはなし。
4月になって、かえるくんががまくんを冬眠から起こしにいくと、がまくんは「もうすこしねむったって わるくないだろ」と言ってふとんをかぶってしまう。
「もう すこし ねむったって わるくないだろ。
5月の なかばごろに なったら、
もう 一かい きて おこして くれたまえよ。
おやすみ かえるくん。」
「でもねえ、がまくん。」
かえるくんが いいました。
「それじゃ それまで、ぼく さびしいよ。」
もともとが満たされていたのかはわからないけど、いま必要だと思っているものが、自分を満たすために求めているものが、自分の力だけでは手に入れられないこと、どうしようもないことに対して、さみしいと思うのかもしれない。
4. 「さみしい」人は他者を必要とする人なのか
新潟で「さみしい」の話をしていたとき、「さみしい人は他者を必要とする人で、自分軸のない人だと思う」と言った人がいた。
たしかに、わたしは他者がいないとさみしい。
思ったようにつながれないときも、会いたいのに会えないときも、季節がわたしを置いて過ぎ去っていくことも、さみしい。
でも、他者を求めることは、他者がいなければそのさみしさが埋まらないことは、自分軸がないということになるのだろうか。
さみしさを抱えながら、他者を待ち続けるしかない状態のことを、「他者性にひらかれている」と呼ぶのではないだろうか、と最近思う。
自分ひとりで生きていけること、自分で自分を満たしていられることは、一見すると強くて美しいことのように思える。その一方で、さみしさを埋める他者を求めることは、自分軸がなく、弱くて、情けないことのように見える。
でもほんとうは、さみしさを抱えて生きていける人は、他者性にひらかれ続けることに耐えうるという点で、とても強い人なのではないか、と思ったりする。
自分で自分を満たすことは、むずかしいけれど簡単だ。他者に左右されることなく、自分という殻のなかで、正しいことを選んでいけばいい。その点で、自分軸で生きていくことは、実はそんなに強さを必要としない方法なのかもしれない。
その一方で、満たされるかどうかもわからない不安定さを飲み込み、他者性につねに曝されることに耐えながら、そのさみしさを抱え続けることのほうが、ほんとうはずっとむずかしく、強さを必要とすることなのではないだろうか。その中で自分をゆるやかに保ち続けられる人こそ、誰よりも自分軸のある人なのではないだろうか。
***
おわりに
わたしはたしかに、他者がいないとさみしい。
その満たされなさに耐えきれず、自分を閉じてしまいたくなることもある。さみしさを感じないような人間になりたい、と思うこともある。
自立とか、自分軸とか、そういう言葉に憧れて、閉じられた人になるべきなんじゃないか、と思うこともある。
それでも、他者にひらかれていることが、わたしなりの世界とのつながり方なのだとしたら、それによって傷つき苦しめられることがあるとしても、その無防備なままで生きていきたい、と思う。
たとえ自分が傷つけられても、それさえも飲み込みながら、他者にひらかれたままであり続けること、さみしさと満たされなさを抱え続けること、それが強さだと思うし、そういう強さを持った人でありたい。
読書案内
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