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カンボジアで考えたこと

今日は、ちょっと前のことになってしまうんだけど、11月にカンボジアに行ったときに感じたこと・考えたことを改めて書き起こしてみました。

カンボジア、いいところだったなあ。

カンボジアにはアンコールワットを見に行ったんだけど、わたしにとってはすごくひさしぶりの海外で、しかも初めての東南アジアだったから、目に飛び込んでくるもの全てが新鮮で、すごくおもしろかった。普段だったら考えないようなことを考えて、思いつかないような問いが出てきて、それがすごくうれしくて、ずっとこの身体からこぼれ落ちないように大切にしていたいなと思った。

これを読んだ誰かが、自分自身の根差している場所について考える時間がちょっとでもできればいいなと思っています。もちろん、わたし自身にとっても。




◆ わたしは日本で育ったからこうなのか

ベトナムでスマホ触ってる人たちを見たときに、わたしは日本で育ったからこれがいやなのか、わたしという人間の性質としてこれがいやなのか、なんなんだろう!と思った。

カンボジアのトランジットでベトナムのハノイ空港に数時間滞在して、ごはんをたべたりお買い物をしたりしたんだけど、お仕事中でもスマホを触っていることに衝撃をうけた。話には聞いていたけど、ここまでか、と思って。

ベトナムの人だからスマホさわっててもやる気ないわけではなく、きっとふつうなんだ!って思い直したすぐあとに、いやでもそれってすごく偏見だ、と思った。「ベトナムだから」とひとくくりにして、いまのわたしは大雑把に世界を捉えようとしているし、それってすごくやなことだ、と思った。
それから、目の前で起きていることをまっすぐに見つめようとすることは、個別具体的なものを見ることなのか?とも思った。スマホを触っているかいないかなかかわらず、この人はどういうスタンスで仕事をしているのかとか、生きているのかとか、それを見てみないとだめなんじゃないか、と思った。

でも、そうしようとしたときに、「仕事は真面目にするべきだ」という価値観に基づいて自分が物事を考えていることに気づいて、これもわたしの偏見というか、個人的な気持ちでなにかを推し量ろうとしていることになるんだろうか、と思う。
それから、わたしが個人的に「仕事は真面目にすることが好ましい」と思っていたとして、それはわたしが日本で育ったからなのか、それともどんなところで生まれてもそう感じるような性質を元々わたしがもっているのか、どうなんだろう、と思った。

わたしがわたしとして物事を判断するとはどういうことだろう。


◆ 英語を話せる人はえらいのか

カンボジアで、英語が話せない人にあったとき、なぜか相手に対してちいさな子どもに接するような気持ちになっている自分に気づいて、すごくゾッとした。

相手の言語を話せないのはわたしのほうなのに!
なぜわたしは、英語が通じないというだけで、相手を下にみるような脳みそをしているんだろう。

英語が話せない、ということは、ただ英語が話せないというそれだけであって、母国語での言語運用能力とか思考力とかが劣っているということには全くつながっていないはずなのに、わたしはなぜこんなふうに思ってしまったんだろう。

自分のなかにたしかな差別の芽をみて、とんでもなく怖くなった。わたしってなんていやなやつなんだ、と思ったし、こうやって社会的に差別が構築されてきたんだ、と思った。

人間には、自分を複雑に考え、相手を単純化する脳みそのからくりがあるということをどこかで聞いたことがある。ほんとうなのか知らないけど、たしかに、わたしの脳みそはあの瞬間、そのように働いていたと思う。
相手をよく知る前に、あるいは自分がしっかりと考えて判断を下す前に、こんなふうに無意識のうちに心にストンときてしまうことがあって、それがすごく間違っている大いにあるということをもっとよく覚えておかねばならないと思った。

そして、あたらめて、英語、ないし外国語を話せるということがなぜこんなにも称揚されているのか、わたしたちはなぜそれをそんなにも優れていることだと思っているんだろう、と思った。



◆ カンボジアの哲学対話はどんなふうか

トゥクトゥクにのって移動しているとき、不意に、カンボジアの哲学対話はどんなだろう、と思った。

哲学対話だけじゃなく、なにかを考えること・言葉にすることは、すごく、その土地や場や、言語に影響をうけることだと思う。

まえに、英語で哲学対話をしたときに、わたしはわたしなんだけど、説明しているとどんどん、日本語で考えていたわたしとは遠ざかっていくのを感じた。英語で説明していると、なんか、英語で説明できるように考えがフィットインしていく感じがあったり、逆に日本語で感じていたことを英語にしようとすると言葉が見つからなかったり(英語力不足ということはもちろんあるけど)、話しているうちに日本語で考えていたときには思いつかなかった気持ちや感覚が見つかったりする。

哲学対話じゃなくて、ふつうに哲学の勉強をしているときも、思想の裏に風土があり、言語があり、歴史があるということをすごくつよく感じる。哲学の用語ひとつをとっても、なぜこのような発想が出てきたのかという根っこのところにその国ならではの何かがあって、それはすごくおもしろい。真面目に言語の勉強をしなければならないと思う一方で、わたしが日本人として、日本という土地で、日本語をつかって考えるとはどのようなことなのだろう、と考える。

だから、カンボジアの人々が、カンボジアに根ざして、カンボジアの言葉でする哲学対話ないし哲学とはどのようなものだろう、と思った。

ホテルに帰ってインターネットで調べたら、哲学対話はプノンペンでたまにやっているようだった。いつか行ってみたい。カンボジアの言葉、ぜんぜんできないけど。



おわりに

ほんとうは帰国後すぐにでも書きたいと思っていたんだけど、わたしの中でいろんなことを飲み込んだり噛み砕いたりするのに時間がかかって、気づいたら三ヶ月も経ってしまっていました。

でもほんとうは、カンボジアに行かなくたって世界に出会うことはできるはずで、問いだってもっと広く深く美しくなりえるはずだから、どこにいてもそんな人であれるようにこれからもがんばりたいし諦めずに生きていきたいなあと思いました。

*おまけに、ちょっとだけカンボジアの写真を載せておきます。みんなはほんとうに水に気をつけてね・・・


行きの飛行機でインサイド・ヘッドを見た
静かで美しい朝
迷路みたいな市場
遺跡群
*わたしは無知すぎて、アンコールワットが単体だと思っていたので
いっぱい遺跡があってすごくびっくりした
道があるということがうれしい


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