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「傷つく/傷つける」を哲学する

はじめに

わたしの不用意な言動でだれかを傷つけてしまったり、だれかの何気ない発言に自分が傷ついてしまったりするとき、これについてどう考えたらいいんだろう、といつも悩む。

だれも傷つけたくないし、傷つけられたくないと思っているのに、わたしの周りではなぜかいつもそういうことが起きてしまう。
いや、でもこれは、わたしだけじゃなく、きっとだれにでも起こりうることなんじゃないか、と思う。もしかしたら気がついていないだけで、みんなの周りでももう起きているのかもしれない。

今回は、わたしの個人的な経験から出発しつつも、この問題を自分個人からは切り離して「傷つく/傷つける」ということについて改めて考える試みをしてみたい。

傷つけてしまったことについて自分を責めていても、過去が戻ってくるわけじゃないし、起きたことを変えられるわけじゃないから、後悔しつつ、痛みを感じつつ、それでも人と関わっていくために、わたしはやっぱりこのことについて考えてみたい、と思う。


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(1)わたしが傷つくとき

みんなからもらうコメントや感想に、なぜか自分がひどく打ちのめされることがある。
例えば、「院進は考えましたか?」とか「30歳までの目標なんですか?」とか聞かれたときに、なんだか傷ついてしまう気持ち。

わたしが院進しなかったのは、家庭の状況やその影響で、その選択肢を考えることができなかったから。ほんとうは大学院に行きたかったし、そのために色々と考えたけど、わたしはそれを選ぶことができなかった。
同じように、先の人生について考えることができるのは、安定した生活が基盤にあって、そのときまで生きていることが前提にできて、そういう条件が揃っているからだと思う。先のことを考えたくても、やっぱりわたしは、数年後の未来すら見えない状況にいる。
こういう質問をしれくれた人たちは、そういう状況やバックグラウンドを想像もしなかったのだろうな、と思うと、その人に悪気がなかったとしても、なんだかやりきれない気持ちになってしまう。

ほかにも、わたしは自分の本当に思ったことや気持ちを話して、自分が傷つくのがとてもこわい。
否定されなくても、評価されることそのもの、いや、そもそも評価にさらされていることがわたしを傷つけるような気がする。

ポッドキャストもnoteも、だれかになにも言われなくても「見られている」・「開かれている」ということそのものがこわい。やさしいことばでも、ポジティブなことばでも、予期しないタイミングで言われると、わたしは常に評価にさらされているのだと気付かされてなんだか嫌な気持ちになってしまう。

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(2)だれかを傷つけてしまうとき

だれかの言葉に傷つくだけでなく、自分の不用意な発言が誰かを傷つけてしまうこともこわい。

例えば、女友達に対して、何も考えずに「彼氏いるの?」と聞いてしまったことがある。
その人の恋愛対象がどんな人なのかもわからないし、そもそも恋愛をしたいのかもわからないし、恋愛について考えられる状況にあったのかもわからない。そんなあれこれを考えずに軽い気持ちで聞いてしまった自分は、知らないうちにその人を傷つけてしまったかもしれない、と思う。

例えば、内定式後にストーリーをあげてすこし後悔したこともある。
まだ内定が決まっていない人や、就活真っ只中で苦しんでいる人、就職に対していろんな思いを抱えている人がいる中で、わたしがあげたものに傷ついた人はいないだろうか、と思う。思い返せば、わたしも、みんなのあげる成人式のストーリーに傷ついた記憶がある。

そうやって、自分が不意に傷つくように、わたしも知らないうちに、きっと誰かを傷つけているのだろうと思う。それがどうしようもなくこわい。どうしたらいいのだろう、といつも途方に暮れてしまう。

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(3)どうしようもなさにあらがう

どんな言葉にも、どんな言動にも、誰かを傷つける可能性がある。
どうしようもないことだと諦めてしまいそうになるけど、でも、ほんとうに、それは仕方のないことなのだろうか。

もしかしたら、傷つくわたしが間違っているのかもしれない。
相手に悪意がないのに、傷ついてしまうのはわたしがおかしいんじゃないかとか、わたしがそう思ってしまうのが悪いのではないかとか思う。

あるいは、やっぱり、相手を傷つけてしまったわたしが悪いのかもしれない。
誰かを配慮することが善とされる世の中では、傷つけた人が悪いみたいになりがちだし、実際にマイクロアグレッションなどは発言者の悪さとされている。
もっといろんなことを学んで知識をつけて、想像力を養って、気をつけることができるようになれば、わたしはだれも傷つけないことができるようになるのだろうか。

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(4)「傷ついている」ものはなんだろう

いや、でも、そもそもその瞬間に「傷ついている」ものはなんだろう、と思う。
わたしの気持ちがぎゅっとなるそれを、わたしは簡単に「傷ついた」と呼んでいるけど、そこに起きていることはなんなのだろう。

まえにポッドキャストで、すこしだけこの問題について考えてみたことがあった。

この話をしたときに、なるほど、と思ってずっと心に残っていたことが一つある。
ざっくり言えば、「傷つく」というのは、次にそのひとを信じたいと思えなくなること、次にその話をするのにもっと勇気がいるようになることを指しているのではないか、という話。
なにかが完全に壊れてしまったわけではなく、そういう「ヒビが入ってしまった状態」を、わたしたちは「傷ついた」と表現しているのではないだろうか。

でもこのとき、やっぱり、「傷ついている」ものはなんだろう?

①相手に対して、こうであってほしいという理想に傷がついてしまう?
相手の言動から、こんなひとだったのか、と思って落胆してしまう気持ち。わたしのなかにある、相手の理想像が崩されてしまうことが悲しい気持ち。
わたしからの期待や理想や、いろんなことが含まれた「その人」がバラバラと崩れ去ってしまうことを悔いているのだろうか。

②わたしと相手のあいだにあったはずの信頼関係にヒビが入ってしまう?
安心して話せる関係が壊されてしまう。それまでと同じように一緒にいることができなくなってしまう。二人の間に築き上げようとしていた架け橋が、突如として崩れ去ってしまう。それに呆然としてしまう気持ちのこと?

③わたしの気持ちが傷ついている?
自分が否定された気持ちになったり、評価に脅かされている気持ちになったりすることなのかもしれない。相手の言動に傷つけられたとき、自分が堂々と立てなくなる気がしてしまうから。

④ 相手の世界観が壊されてしまう
わたしの中にある世界観が、だれかに受け渡されたとき、傷つけられてしまうことがあるような気がする。自分が信じていること・守ってきたこと・大切にしてきたことが、間違っていたのだと言われてしまって、自分で自分の世界を守れなくなる気持ちのことなのかもしれない、と思う。

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(5)傷ついてはいけないのか

もしかしたら、わたしたちは、今までどおりではいられないことがかなしくて、そのどうしようもない悲しみを「傷つく」と表現しているのかもしれない。

でも、そもそも、なんで傷つけちゃいけないんだろう。
傷ついて、何か修復されて、更新されていくことにも意味 があるんじゃないか、と最近のわたしは思ったりもする。

いまでも傷つけるのが怖いとか傷つくのが嫌だったっていう気持ちはもちろんあるけど、でも傷つくことによって、なにかが良くなっていくというか、変わっていくこともまた、ありなんじゃないかって思ったりする。
筋肉は傷つけられて大きくなるみたいな感じで、何か必要な傷つきってあるんじゃないかなって思う。

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おわりに

ここまで書いていて、不意に、小学生のときの担任の先生が「わたしはガラスのハートの持ち主なんだ」と言っていたことを思い出す。

壊してはいけないものと、大丈夫なものがあるとしても、わたしは(あるいはだれも)それをうまく見分けることができないから、ぜんぶがこわくておろおろしちゃうのかもしれない。
だから、なにも傷つけないように、ぜんぶを大切にしようとしてしまうのかもしれない。

でも、それがほんとうにその人を大切にしていることになるのかはわからない。
哲学対話みたいな場で、なにかを壊そうとするとき、わたしたちは壊すべきものとそうでないものを見分けようとしていると思う。当たり前とか、間違っている世界観とか、そういうことを壊すことで、わたしたちはどこかへ辿り着こうとしている。
だから、そういう傷つけ合いが成り立つ可能性もあると、わたしは信じてみたい。

傷つく可能性も傷つける可能性も含んでいるなかで、わたしは人とどのように関わっていけるのか、これからも諦めずに、考える。
それがいまのわたしにできることで、逃げずにまっすぐ向き合うべきことだと思うから。

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おまけ

傷つくかもしれない、傷つくのはこわい、でもそれは必要な傷つきかもしれない。だから安心して傷ついて、対話に参加しているみんなでその痛みを引き受けあって、またひとりで歩いて行けるようになる、そんな場をつくりたいと思っています。

11月23日の回はまだ空きがあるのでぜひ、興味がある人はぜひ一度覗きにきてください。わたしもどきどきわくわく、そわそわしています。


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