脳内反省会が止まらないときは
誰にも読まれていないと思いながら書く。
誰かに届いているはずと祈りながら続ける。
そうして、2ヶ月になろうか。
今日は夕方から大切な用事があったから、
そこに1日の照準を合わせて過ごした。
無事に終わってホッとしているのと同時に、
さっそく脳内で反省会が始まってしまっていて、
やれ自分の話をしすぎてしまっただとか
やれもっとあの場面ではこうすべきだったのではとか
そういうことを考えてしまうのが止まらない…
ので、そういう思考を止めるためにも
今noteにやってきた。
自分に言い聞かせていることなのだが、
「あの時ああしていれば」とか
「これはもっとこうすべきだった」とか
そういう、もういじくれもしない過去を否定する、
後悔のような反省は、全く意味がないと思っている。
人生というのは1秒ごとに経験値を積み上げているため、
生きれば生きるほど右肩上がりに経験値が上がる仕組みになっている。
これは、別に大した成果が出ているとか関係なくて
たとえ「何もしていない」にしても、「何もしていない」という経験が積み上がっているので、
この右肩上がりのルールに例外はない。
で、人はその右肩上がりしつづける経験の地点から
常に物事を見ている。
1秒後は、1秒前より、1秒分高い視点で世界を見ているということだ。
登山をイメージしてもらうとわかりやすいけれど、
高いところからの方がより遠く、より広い範囲まで見渡せるわけで、
そうすれば「先ほどまでは気づかなかったことに気づいたり」、
「1秒前まで見えなかったことが見えてしまったりする」わけだ。
つまり、過去に今さら手を加えようとするような
後悔のような反省…というのは、
「過去の時点での視野で最善だと思って選択し決断したことを、より視野が広がった後から結果論で否定する」
ということだと思っている。
そんなの、過去のその時必死だった自分に、失礼すぎる。
後からああだこうだ言えるのなんか当たり前のことで、
結果(正解)がわかった後にあれこれ自分を否定するのは
ただの後出しジャンケンだ。
1秒前の自分は、1秒後の自分より未熟だったのだから、
視点が低かったのだから、
間違えたって当然じゃないか。
それが正解なのかもわからず、だけど必死に考えて、あるいは可能性に賭けて勇気を出して選んだことを、
答えがわかってから否定するなんてナンセンスなのだ。
脳内反省会が止まらなくて辛いときは、
その瞬間必死だった自分を誇ろう。讃えよう。労おう。
反省は次に活かすものであって、
過去のその瞬間を否定するためのものではないのだから。
……よし、今夜も切り替えられそうだ。
また書くね!
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