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家の外

最近はよく散歩したり、カフェに出かけるようにしている。家にこもっていると、気づかないうちにネガティブシンキングに陥っていたりするから。


外に出ると町の色々な景色が目に入って、それが思考のヒントになってくれる。

そして、なんといっても外は明るい。暗い部屋にいると、心も暗くなる気がする。外に出るのはよい。


しかし、ある時、散歩中に自分は本当は中(なか)にいるのでは?と思ったことがあった。


そのとき、自分はもちろん靴を履き、冬服を着て、マスクを着けていた。さらに、コンタクトを付け、イヤホンで音楽を聴いていた。ちなみにイヤホンは有線を使ってる。

五感が全部、人工物に覆われているんだ!!!!

これは本当に外なのか!!!


もっと言ってしまえば、地面はアスファルトに覆われ、頭上以外は全ていかつい建物で囲まれている。空地中には人が吐き出したCO2と排ガスが漂い、見えない電波が飛び交っている。

これは、本当に外か?


少なくとも、江戸時代の家の中と比べれば、アスファルトやコンクリートに囲まれ、五感をふさいだ自分のほうが中(なか)にいるだろう。

そういえば家の中であっても、壁や窓の隙間から空気は繋がっているので、そういう意味では外にいるかもしれない。



外にいることを、自然と近くにあることだと言うのであれば、自分は中(なか)にいる。

人間は、恒温動物であり、恒環境生物でもあると言うことがあるが、まさにその通りではないかと思ってしまう。つまり、人間はその環境を自分仕様に変えてしまう。ほかの動物のように環境に適応するのではなく、環境を自分に適応させてしまうのだ。


このような視点から自分が一番外にいたときはいつだったか考えてみると、多分アメリカのガチの山奥でキャンプをしたときだった。

一応キャンプ場ではあるのだが、お隣さんのテントは、木々を縫って目を凝らさないと見えないぐらい遠かった。電波は届かず、トイレはコンクリに穴が開いたものだった。

文明圏の外に来た気分だった。


しかし、中(なか)にいたポイントとしては、車とテントとスーパーで買った食料があったことだろう。そして、一応誰かによって整地されていた。

魔女でも怪物でも出そうなほど森の奥だったが、誰かの商売が行き届いてるぐらいには文明圏だったようだ。人工物は少なかったが、あれはちょっとだけ中(なか)だった。


完全な外はもしかしたら、裸で太平洋のど真ん中を泳がないとたどり着けないかもしれない。

まあ、中だろうが外だろうが、どっちでもいいんだけど、外にいるという感覚は、開放感があって気持ちがいいものだ。昔の冒険家や研究者はその感覚が好きだったのだろう。


仮想現実の技術がさらに発達すると、この辺の定義について哲学者が騒ぎそうだ。


デジタルの世界に入り込んでるときは、デジタルの世界の中にいるということなのか?ドラッグやマリファナでハイになってるときは、自分の中にいるということなのか?


色々な疑問が思いつくが、これ以上考えると疲れそうなので、この辺りで。



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