欲望の社会学
このnoteでは、欲望という切り口から人間のあらゆる行為を観察・分析することで、人間の行為の集合である社会についてより深く理解することを目指す。また、社会全体のあらゆる現象について、欲望という観点からの考察が不可欠であることを示したい。
行為の内面的価値の存在
人間が何かしらの行為をする際、そこには合理的な目的以外に、その行為をする本人が想定している価値がある。
そして、その価値とは、外部からの観察によって容易に理解できるものもある一方、非常に理解しづらいものも存在する。
これが分かりづらければ、以下のような行為では想像しやすいと思う。
このように、私たちの行為は、目的達成のための機能(視力を補うこと、視線を集めることetc)を持つ一方、非常に内面的・個人的な、違った感性を持つ他者からは理解し難い価値を持っている場合がある。
また、その内面的価値は、人間が持つ根源的な欲望に基づくことが少なくない。欲望とは、承認欲求、知的好奇心、支配欲求、性的欲求などである。以下にいくつか例示する。
人前で発言することに、承認欲求を満たす。
「説教するってぶっちゃけ快楽」(SEKAI NO OWARI(2022)「Habit」より)
規範・慣習を守ることで、所属意識を持たす。
道端で人を助けることで、自己肯定の理由とする。
受験勉強や仕事での情報摂取によって、知的好奇心を満たす。
欲望の隠れた目的化
このような内面的価値(欲望)の充足は、機能的な目的を達成するための行為が持つ副次的側面であると言える。しかし、ある行為の目的が機能的なものであったとして、本来想定される目的から離れて、その行為の目的が欲望の充足になってしまうことがある。(食事、睡眠、趣味など、ある行為の目的がそもそも欲求の充足にあるのであれば、何の問題もない。)
そして、欲望充足の目的化の特徴は、それが外見的に見分けることが難しいことにある。欲望は、個々人によって違いが大きく、普遍的ではないため、それが外部から観察することによって理解することは難しい。そうであれば、特定の行為の目的が、本人にとって機能的なことになるのか、欲望充足にあるのか、外部から判別はほとんどつかない。よって、私たち人間は、各行為の機能的目的を隠れ蓑として、自らの欲望を充足させているのである。欲望の隠れた目的化は、意識的に行われる場合も、無意識的に行われる場合もあろう。結果として、私たちはあらゆる行為を、欲望の充足のために行っている側面があると言える。そして、それが意識的か無意識的か、ということは、外部から見分けることは、欲望充足の目的化がそうであるように、ほとんど不可能である。そもそも、その行為を行っている者ですら、行為の目的・価値が混ざり合い、どのような目的・価値のために行為をしているか、判別がつかないこともあるだろう。
また、その目的が欲望の充足に入れ替わったとしても、外部に対して持つ機能が変わらないこともある。例えば、人前での発言を、承認欲求の充足を最大の目的として行う者がいたとしても、必要な事項を伝えられていれば、機能は果たしていることになる。
経済学において、個々の利益追求が「神の見えざる手」によって、経済社会全体の福祉向上につながると説くのも、行為の目的とは別に、機能が果たされていれば問題ないという理解に基づく。
欲望が目的化した行為の分類
欲望が目的化したが、機能は維持している行為
政治家は、大衆の面前で発言をし、議会等での発言を責任をもって行うことを求められる。失言があれば、その説明や謝罪が求められ、選挙で落ちれば、ただの一有権者になる。しかし、発言や推進政策は、自らの支持基盤の意向によって縛られるため、必ずしも自分の政治信条に従った行動が取れるとは限らない。このようなストレスフルな職業である政治家であるが、このような職業を志す人間が一定数存在するのは、それが承認欲求や支配欲求を充足することに適した職業だからである。そして、代議制民主主義の社会において、政治家は重要な機能を担っている。
企業の経営者について見れば、企業は利益追求によって、市場経済という大きなシステムが、効率的な資源分配をするための機能を果たす。その企業を経営する者についても、市場経済というゲーム・アリーナの中で、合理的に利益追求をすることが期待される。しかし、実際のところ、彼らは利益追求のためだけに経営活動を行っているのではない。競争心や支配欲求といった感情の結果として、より上位の地位を手に入れること、収入を増やすことなどを目指すのである。
このように、政治や経済という大きなシステムで最も影響力を持つ立場の人間は、目的化した欲望という強烈な感情を動機として、その機能を果たしていると考えられる。
欲望が目的化し、機能の逸脱・他者への危害を起こす行為
その欲望が目的化した行為が、もともとの機能的目的を逸脱する場合がある。そして、それは他者の利益・権利を不当に侵害を引き起こす。これには、以下のような例が挙げられる。
他者の個別的事情を意図的に軽視し、社会正義の一般的な議論を他者に当てはめて、問題であると指摘する。
ネット上の他者を批判する際に、その他者の人格否定などの誹謗中傷をすることで、自己肯定をする。
教員が、児童生徒を理不尽に叱りつけること、必要以上に叱りつけること、体罰を振るうことなどによって、支配欲求や運動欲求を満たす。
戦争にて、兵士が敵国民間人や捕虜を、不必要に拷問・殺害などすることで、加虐的欲求を満たす。
※日常的な行為と戦争行為を同列に並べているのは、特定の欲望に基づいた行動であるという点で共通するからというだけである。その行為の残虐さについて大きな違いがあることは言うまでもない。
隠れた目的化の困難
私たち人間は、各行為の機能的目的を隠れ蓑として、自らの欲望を充足させている。機能的目的を隠れ蓑とすることができるのは、その機能的目的が社会的に必要であると認識されているからである。言い換えれば、行為者の目的が何であれ、それが社会における何かしらの機能を有している、もしくは、何かしらの機能を有していると考えられているからである。
そうであれば、隠れ蓑となっている社会的機能がより重視されれば、その行為による欲望の充足が、その分だけ多く行われるようになるのではないか。
上の例示に即して言えば、以下のようになろう。
政治によるパターナリスティックな政策が社会的に許容されるようになれば、議会や内閣による社会への影響力が強まり、政治家による影響力をも強めることになる。そうなれば、政治家の欲求がより充足される。
市場経済への期待が強まり、新自由主義的な経済政策が取られれば、経営者の得る給料や影響力が増加し、経営者のよっきゅがより充足される。
あらゆるセクターにおいて、社会正義をより強く求めることで、これまでの不合理な区別が解消される一方で、それに乗じた自己満足的な論説が増える。
ネット上での匿名の発言が技術的に容易になり、娯楽として認められることで、他者の人格否定などの誹謗中傷が増える。
体罰等の不合理な教育が当然に行われ、教員が持つ権威が巨大だった時代にあって、精神的・肉体的暴力が正当化される。
戦争によって、国家間の武力行使が不可避とされることで、暴力による加虐的欲求の充足が、英雄的な行為として認識されるようになる。
社会を観察するために必要な「欲望」の視点
個々人の行為の理由を説明するためには、その個人を合理的な人間として捉えるだけでは不十分であることは、当然のことである。しかし、合理性以外に、どのような包括的視座があるか、という点に答えることは容易ではない。そして、その答えの一つとなりうるのが「欲望」である。
犯罪学においては、その犯罪がどのような動機で引き起こされやすいのか、逃走中の殺人犯はどのような行動原理を持つのか、といった点を研究するための視座として、欲望に着眼点を置く。
また、心理学では、欲望の類型について様々な分析がされている。
しかし、これらの学術的議論を、社会学的な現象の説明に用いることは少ないように思われる。欲望に基づいた行為は、犯罪者のみが行うわけではないし、欲望に基づいた行為がもたらす影響が社会的な影響を及ぼすこともありうる。そうである以上、社会という大きな存在を観察する視点として、欲望を捉えることが非常に有用であると言えよう。特に、欲望という感情は、他の感情に比べて激烈であり、人間をして破壊的な影響を引き起こすほどの発想や努力をさせることがある。
社会学という広範な研究対象を持つ学問において、個々の行動原理をある程度抽象化・普遍化して議論することは、非常に重要である。そして、その一つとして、「欲望」への注目を促したい。